伊豆七島 神津島

天上山

wakwak山歩会は2010年4月13-14日、神津島の天上山(572m)に登った。メンバーの一人のマーが引退後考古学を学び、縄文時代のやじりは神津島産の黒曜石が伊豆、神奈川、千葉で材料として使われていたことを学び、ぜひ現地を訪れたいという希望で実現したものだ。

天上山は頂上がほぼ平らになっている火山である。紀元838年代に噴火したという。神津島は、流紋岩質の火砕流・火砕丘及び溶岩ドームからなる単成火山が 幾つも集まって出来た火山島である。船から眺めると、神津島は何段かの平坦なテーブル状の山が重なり合っているように見える。天上山の表面は比高数十メートルの小さな起伏に富んでいるが、これは、溶岩ドームが広がるときに表面部に作られた一種の“しわ”であるという。

新島、式根島、神津島はテーブル状の形をしていることと噴火のインターバルが1000年と長い。この3島は天城山系の火山帯に属し、岩質は流紋岩系が主流を占めている。そして海岸は白砂である。大島、三宅島は傾斜のある形をしている。この3島は海洋地殻である玄武岩質の成層火山のため、しばしば小規模の噴火を繰り返す。そして海岸の砂は黒い。利島は安山岩である。すなわち伊豆七島は3種類のタイプの島によって構成されている。噴火のインターバルは溶岩の流動性によって差が出るようだ。

 
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現地ではまだ花の季節にもなっていない時期にわざわざ神津島に出かけてくる酔狂な人間と見られたが、他の登山の計画を優先したため、この時期の訪問となった。

今年は太陽黒点が極端に少なく、銀河宇宙線が衰弱せずに地球に降り注ぐため、スベンスマルク効果で雨が多く、晴れの日を探すのはかなり困難であった。詳しくは500年のタイムスパンの気候変動の原因を参照。晴れのピンポイントを探して、東海汽船と民宿の予約を一度変更しなければならなかった。

第1日

8時00分に東海汽船の竹芝埠頭に集合。8:25発1220便に乗船。昨年、湘南港から大島に渡った時と同じ東海汽船の水中翼船セブンアイランド号である。波が高いので大島まではゆくが神津島は場合によっては欠航という条件付きである。

竹芝埠頭は十数年ぶりであった。施設は更新されて見違えるようだ。出航後東京港は殆どコンテナーバースになっているのを見るのも新鮮であった。大井火力は燃料タンクを緑に塗ってあるのがおかしかった。羽田沖は目下C滑走路に平行する新しい滑走路を埋め立で建設中であった。多摩川の河口の流れを阻害しないように南東側は 滑走路はパイルの上に建設中であった。川崎の扇島沖では東京電力のLNGバースが見えた。LNG配管は海底トンネルで扇島の基地に連結されている。

時速80kmの水中翼船はかなり千葉側を走っている。第2海堡のすぐ東側を通過したのでビックリ。海図では水深7m位しかない。あとは一路大島に向かう。岡田港で約60%の人は下船する。利島は入港せず。新島の前浜港に入港、式根島では野伏漁港に立ち寄る。 式根島テーブル状の特異な形をしている。式根島と神津島の間からうねりが大きくなり、船底がうねりに振れると激しい衝撃が船体を振動させる。 新島の南端は白い崩壊地と白砂の浜に波が豪快に打ち寄せている。

新島南端の白い崩壊地と白砂の西浦 右端は早島

神津島では多幸湾に入港。いずれも入港した港は新島の前浜港を除き風下にある。どの島でも警視庁の巡査2名が乗降に立ち会う。

多幸湾入港直前に砂糠崎の断崖に黒曜石層をみる。濃いブドウ色をしたガラスの層である。多幸湾の真っ白い砂浜とコバルトブルーの海は絶景だ。ここは黒潮の洗うところ。透明度が違う。

神津島砂糠崎の断崖の黒曜石層 背後は天上山

山見荘(Hotel Serial No.467)の女将さんが軽自動車で迎えにきてくれた。宿で一休みしてから女将さんに神津港近くの手打ちそばやに連れて行ってもらう。マーさんは船酔いしたといってパス。昼食後、郷土資料館と物忌奈命神社に立ち寄る。なかなか立派である。神仏混淆の影響が残っていて薬師如来をまつった薬王院がある。

バスに乗って長浜経由、島の西北端にある赤崎遊歩道に行く。東京都は金持ちなので立派な木製の遊歩道が完備している。ここからは利島、新島、式根島が見える。手前の平らな島が式根島だ。

赤崎にて 背後に利島、新島、式根島

長浜の砂浜では黒曜石の石ころが拾えるそうだ。取って返して神津島温泉センターに行く。海水の温泉だが湯量は豊富である。バスの運転手から明日は強風が吹き荒れて多分水中翼船は欠航するから調布に飛ぶ航空便を予約しておいたほうがいいというので、 新中央航空に予約を入れる。

山見荘の女将さんに迎えにきてもらって宿に移動。ビールで乾杯、後に登山口まで散策。神津沢は暴れる川ではないそうだが、2段の防砂提のなかは工事業者松本建設の機材置き場となっている。昔は天水だったそうだが、井戸を掘るとが岩盤にしみこんだ雨水が豊富にあって水道には困らないそうだ。

この村の産業はなく、漁業以外では松本建設が土木工事一切を引き受けて、道路のメンテナンスを継続するのが主要な産業とのこと。東京電力社員寮と東京都職員寮だけという感じ。民宿はかって200軒あったが現在では50軒だという。

第2日

5:30起床。風速30m/sの強風が吹き荒れている。6:30には女将に黒島登山口に車で送ってもらう。6:35登山開始。風は強いが、植生が守ってくれる。かつ、視界をさえぎるものはないので快適な登りを楽しむ。眼下に昨夜泊まった民宿の屋根が見える。港の突堤が波で洗われている。これでは欠航だろうと確信できる。

さすが9合目では四つんばいにならないと風に飛ばされそうになる。何とか黒島山の風陰に逃げ込むことができた。

9合目から神津村を見下ろす

藪の中を歩いてゆくと窪地がある。水は溜まっていない。水はけのよい岩盤のようだ。路傍にはサルトリイバラの実がついている。唯一の花のごときものだ。

サルトリイバラ

更にゆくと表砂漠にでる。砂嵐が顔に遠慮なく吹き付ける。

表砂漠

裏砂漠を廻ってから最高地点に行く予定であった。しかし風も強いのではしょって、真っ直ぐ最高地点に登ることにする。砂漠から少し登れば最高地点だ。頂上では強風で立っていることはできない。丁度8:05だ。宿に電話して船は欠航と確定したことを知る。残りは空路だが風速20m/s以下にならないと航空機も欠航という。今の風ではだめだ。記念撮影をしてすぐ下山する。

最高地点にて クリさん撮影

下りがけに秩父山の向こうに神津島空港が見える。この風では今日は無理かも知れぬという思いがチラと頭の隅をよぎる。明日、北京からの客と鎌倉プリンスで会う約束をしているが無理かもしれぬと覚悟する。

最高地点直下から神津島空港を望む

南東の海上には三宅島が見える。噴煙は見えない。

最高地点直下から三宅島を望む

不動池→新東京百景展望地→表砂漠経由でもどり、同じ黒島登山ルートを下ることにする。新東京百景展望地からは北東の方向に式根島と新島が見える。利島は霞の中だ。手前には櫛ヶ峰の崩落地が岩肌をさらしている。

新東京百景展望地から式根島と新島

下山して今日登ったルートを振り返る。下の写真の中央少し左の浅い侵食谷を左手に見ながら中央の土手をジグザグに直登するルートである。斜度はきついが登山道は良く整備されている。

登坂ルート

11:00宿に帰り着き、庭でおにぎりの昼食を摂る。日干しのサンマが旨かったので土産に買って帰ることにした。そうこうしているに3:20発の第3便は飛べるようになったという知らせが入った。これでホットし、少し昼寝する。2:00にお休み料を支払い宿の車で出発。まず土産を買う。1匹100円だ。神津港の東海汽船の事務所に立ち寄り、切符の払い戻しを受ける。宿の女将はまだ時間があるといって有馬展望台に連れて行ってくれる。ここに「おたあジュリア」の十字架がたっている。

神津島は江戸時代政治犯や宗教犯などの流刑地であった。日蓮宗不受布施派も多かったという。

「おたあジュリア」の十字架

「おたあジュリア」は朝鮮貴族の娘だったが秀吉の朝鮮出兵のとき捕縛・連行されたのちキリシタン大名の小西行長夫妻に育てられる。主君行長が関ヶ原の戦いに敗れて後、おたあの才気を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に身柄を召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、家康の寵愛を受けた。しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示した 。1612年に禁教令により伊豆大島→八丈島または新島→神津島に流罪となった。どの地においても熱心に信仰生活を守ったという。3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順を求められつつも断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。 「おたあ」の最期についての詳細は不明であるが「日本発信」1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父の書簡に、「おたあ」が神津島を出て、大坂に移住し、神父の援助を受けている旨の文書があり、その後、さらに大坂から長崎に移っているらしい。しかし島人は島で亡くなったと信じている。

有馬展望台からの天上山の景色は絶景である。特に強風が吹き荒れていたので壮絶であった。このような景色を堪能できるのは年に数回だという。

有馬展望台から天上山崩壊地を望む 左端は神津島温泉センター

民宿の女将といい、村営バスの運転手といい、皆親切であった。感謝! 空港でも神津島で栽培されておりパッション・フルーツを土産に買った。アシタバもあったが、ザックに入れると傷むのでやめた。

4:00発、新中央航空のFairchild Dornier社製Do228-212(ドルニエ)で調布飛行場に飛ぶ。(乗客19人・乗務員2名 、エンジン 776馬力×2、時速 410km、ドルニエ社は倒産していまは製造していない)飛行時間40分)の有視界飛行だという。大島を過ぎると海面は静かになっていた。葉山の御用邸上空までほぼ一直線 にとび、鎌倉上空で針路をほぼ北北西に向けて戸塚ゴルフ場、田園都市線青葉台上空と進み、多摩川競艇場近くで多摩川を越え、東京競馬場を左手に見て少し北上し、国際キリスト教大学と野川公園上空でUターンして調布飛行場に着陸した。

式根島と新島

利島

三原山

逗子・葉山 右下の緑地は葉山御用邸

鎌倉と江ノ島

ICUと野川公園(手前)

ICUは一度だけ訪問したことがある。長い並木が印象的だった。隣は富士重工だから調布飛行場もかっての軍用機の製造拠点だったのだろう。 調布飛行場には航空宇宙研究所の分室が今でもある。その関係で1985年のJALの御巣鷹山墜落事件後、問題の隔壁は調布飛行場の大格納庫に持ち込まれ 、調べられた歴史を持っている。

今回たまたま、かって住んでいた横浜市緑区つつじが丘の上空を飛んだ。上空から見下ろすのは初めてであった。幕末から1889年の新宿⇔立川間の甲武鉄道開通までの50年間、八王子⇔町田⇔横浜港を結んだ「絹の道」は左中央から右上に抜ける鶴見川沿いにあり、現在もJR横浜線がここを通過している。

横浜市緑区つつじが丘周辺 左手は東名高速、右手は国道246号線と田園都市線青葉台駅

April 16, 2010

Rev. May 24, 2010


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