難波・飛鳥・初瀬・山の辺の道を歩く

古代史遺跡を求めて

2007年11月の晩秋に難波の四天王寺での義姉の納骨式に出席かたがた、グリーン ウッド夫妻は飛鳥・初瀬・ 「山の辺の道」を歩いた。移動は全てJRと近鉄を利用した。

 

第一日、難波

義姉が亡くなって、義兄は墓を難波の四天王寺に持つという。その納骨式に立ち会うために二人で出かけた。新大阪からは JR環状線で向かう。天王寺駅から北に向かって歩くと10分くらいでつく。四天王寺は市街地のど真ん中に広大な敷地をもっている。

四天王寺は第33代推古天皇の593年に聖徳太子(厩戸王子)によって建立された。守旧派の物部守屋と国際派・開明派の蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇 我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、四天王像を彫り、

今若し、我をして敵(あた)に勝たしめたまはば、必ず護世四王のみために、寺塔(てら)を起立てむ

と誓願され、勝利したので、その誓いを果すために、建立されたという。 以後日本の国教は天照大神から仏に代わるのだ。

伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式である。日本では最も古い建築様式の一つである。その源流は 中国や朝鮮半島に見られ、6-7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされている。

西側の西大門から入って四天王寺式伽藍配置をザットな がめた。中門、五重塔、金堂、講堂、回廊はすべて真新しいコンクリート造 りであるが、よく復原されて当時の姿を伝えている。義兄は当初この五重搭内部にある永代供養施設を検討しているうちに、伝統的な墓がほしくなり、高級車一 台分の代金を支払って 井伊大老暗殺計画の実質的な指導者になり、1860年に桜田門外の変を起こした水戸藩士、高橋多一郎父子の墓の隣に墓を造ったという。

四天王寺の金堂と五重塔

我々は回廊に入ることなく、すぐ伽藍の北側にある元三 大師堂に向かった。このすぐ近くに墓があるためである。読経が始まるまで多少時間があったので義兄が亀井堂に案内してくれた。そして午前中 に回向(供養)を済ませた経木を金堂の地下より涌く白石玉出の霊水が流れる亀形の石の盆にながした。 こうすれば極楽往生が叶うといわれているという。

亀井堂の経木流し

楕円形の亀形の石盆は飛鳥で発見された、亀形石造物に似ている。

無事納骨を済ませたのち、四天王寺式伽藍をじっくりと 見物させてもらった。五重搭最上部まで登ったが、内部はすべて永代供養 施設となっており、金属製の五重位牌に霊名または名前を彫ったものが数知れずガラス戸棚の中に安置されている。義兄 は義姉とその両親の五重位牌も買い永代供養してもらうことにしたという。四天王寺は新西国の一つという。義兄が朱印をもらってくれたので朱印帳に張る。

参加者全員で道頓堀にかかる心斎橋の袂にある蟹の立体看板で有名な「かに道楽」本店で夕食を摂った。(Restaurant Serial No.316)夕食の後、石畳の法善寺横町、水掛け不動、織田作之助の小説「夫婦善哉」のモデルとなった店の界隈を散策。

あべの橋駅から近鉄南大阪線で橿原(かしはら)神宮前駅に移動し、橿原ロ イヤルホテルに宿泊。(Hotel Serial No.410)すぐそばにある橿原神宮は明治政府が記紀に記された神武天皇の畝傍橿原宮があったとされる地に住み着いた部落民を移 転させ、京都御所を移転して建てた神社であるという。 立派であるが遺跡ではない。京都の平安神宮とおなじようなものだ。時間がないし、皇国史観のメッカみたいなところで気味が悪いのでパス。畝傍山の周辺には 第1代神武、第3代安寧、第4代(いとく)、第8 代孝元などの天皇陵があるが、これについてふれている文献がすくない。ようやく長部日出雄の「天皇はどこから来たか」を読んで合点がいった。

これによると神武東征を語る記紀の中に久米歌というものがある。これは高千穂に天降ったニニギノミコトの先駆と護衛に当 たっていた大伴連(おおとものむらじ)の祖と物部、久米部(来目部)という戦士団が神武東征に従軍し、熊野 から吉野の山岳地帯を通って進軍し、宇陀(うだ)の土豪を倒した勝利の宴で族長が歌った歌とされる。樫原神 宮駅の西側にある久米という地は東征に勝利したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が畝傍山の麓の樫原に宮殿を構えたとき、近衛兵たる彼らに与えた 居留地、久米邑だったところということだ。この久米部が宇陀降伏のあと、土蜘蛛のヤソタケルを討つ時の合図の歌に

頭椎(くぶつつい) 石椎(い しつつい)もち 撃ちてし止む

という一句がある。これが大東亜戦争のとき、「鬼畜米兵 米英撃滅 撃ちてし止まむ」の標語の出典だという。その後、大和朝廷が官僚化したとき、大伴とか 物部は栄達したが、狩猟と漁撈に生きた時代の自由な気分を維持した久米部は疎まれ、軽んじられて衰退した。

橿原神宮周辺は神武天皇が即位した日とされる紀元節(2月11日)の頃はファナティックな連中が街宣車を繰り出して騒々しいところに一変するそうだ。

 

第二日、飛鳥

8:00に朝食を摂った後、ホテルから歩いて石川池、和田池の脇を通って甘樫丘(あまか しのおか)に向かう。石川池は灌漑用水池となっているが古墳らしき丘が反対側に見える。地図には第8代孝元天皇陵古墳とあるが本当なのだろ うか? 途中向願寺というところを通るが、ここの地下には第33代推古天皇の豊浦宮のあったところという。伝統的な山を背に北面する宮殿だった。摂政の厩戸王子は 蘇我馬子と協力して仏教を導入し隋と国交をはじめ、冠位十二階を定め、十七条憲法を制定したのだ。厩戸王子はその頃、現在の桜井市の池之内または上之宮に 住んでいたらしい。

甘樫丘の標高148mに登ってその丘の上から南東の方向を観ると明日香村のある盆地が見える。6世紀末に初の女帝、第 37代斎明天皇がここの明日香村に宮を定め、大化改新の契機となった地とは思えぬ狭い山里である。 ここも南に山を背負った宮である。

明日香村

左手集落の中に飛鳥寺がある。中央の山裾の竹林が伐採されて土が露出しているところは発掘の結果、亀形石造物が出土したところだ。水田地帯の中央線の東側 で一番高いところが 斎明天皇の目前で後に天智天皇(てんじ)となる中大兄(なかのおおえ)皇 子と藤原氏の祖、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が当時権力を握っていた仏教導入派の蘇我入鹿を惨殺して大化改新を行っ た伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)があ ったところだ。 廃仏派だった中臣勝海は蘇我馬子により暗殺され、中臣氏は没落していたのだが、鎌足の功績で政権に返り咲き、藤原姓を賜り、後の平安時代まで権力の中枢に 座りつづける基礎をここで作ったのだ。右手一番奥の扇状地の中腹に聖徳太子が手を組んだ蘇我馬子の石舞台古墳がある。大化改新後の激動する時代は井上靖の 小説「額田女王(ぬかたのおおきみ)」に ビビッドに描かれている。

蘇我一族の本拠であった甘樫丘の丘から西を見ると宿泊している橿原ロイヤルホテルの近くの畝傍山が見える。 畝傍山は神武天皇が太陽を背に熊野の山を越えてやってきて、東征に成功し、そこに宮殿をたて、大和を支配しはじめたところだとされる。 畝傍山は南方から半島状に伸びた低い洪積世台地の北端に位置し、大和平野に向かって日を背負う位置にあり、天照大神を祖神とする天孫族にとって格好の地 だったことが分かる。そして北側には耳成山(みみなしやま)と天香具山(あ まのかぐやま)が見える。この3山に囲まれた平地が16年間、持統・文武・元明の3人の天皇の首都だった藤原京があったところだ。 藤原京から初めて中国式の君子は南面する都の様式となる。そして元明の時に平城京に遷都するのだ。持統天皇は自分の子を天皇にするために藤原氏を重用した ため、藤原京といわれる。そして北東の方角の遠くには明日歩こうとしている山の辺の道がその麓を巻いている三輪山が見える。 この方角の三輪山の手前にかって厩戸王子が住んでいたのだ。

甘樫丘から観た 左から畝傍山 耳成山、天香具山、三輪山

甘樫丘を下って水落遺跡を訪れる。中大兄皇子が660年に造った日本初の水時計台跡という。

水落遺跡

蘇我入鹿首塚

飛鳥寺

次に第37代斎明天皇の眼前で中大兄皇子と中臣鎌足に殺害された蘇我入鹿の首塚にゆく。甘樫丘が背後に見える。蘇我一族は甘樫丘の下に住んでいた。

2015年になって甘樫丘の南西のはずれにある小山田遺跡内の明日香養護学校の校舎を発掘調査していたところ大規模な濠が見つかった。中大兄皇子の父の舒明天皇の最初の墓ではないかという。(段ノ塚古墳が移転先)

つぎに首塚の東隣にある蘇我馬子の発願で596年に完成した日本初の本格的寺院という飛鳥寺を訪問。かっての広さはなく、こじんまりとした寺が集落と水田の境にあった。 飛鳥寺は灘の四天王寺より少し早く完成したらしい。飛鳥寺は日本最古の仏教寺院で法興寺といわれた。平城京遷都に伴い奈良に移転し、元興寺(がんごうじ)となった。明日香に残った寺の名は飛鳥寺となったという。2010年になって奈良の元興寺(極楽坊)の 禅室(国宝)の屋根裏の頭貫が法隆寺より100年前の586年に伐採されたヒノキ材であることが判明した。現役世界最古の部材となる。日本書紀に飛鳥寺の 用材を590年に伐採した記録があることから記録と物証が一致したことになる。

伝飛鳥板蓋宮跡

亀形石造物

酒船石

緩やかな傾斜地に造られた水田地帯を登って、蘇我入鹿が殺害された伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと) を訪れる。発掘で見つかったものは天武天皇の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)のものといわれ、伝飛鳥板蓋 宮跡はその下層に埋まっているとされる。

東山裾を少しもどってコンクリート・バッチャー・プラントの脇にある酒船石遺跡の亀形石造物を見物。四天王寺の亀井堂の楕円形の亀形の石盆に似てい る。7世紀中頃の斎明期から文武朝にかけての建造とされている。 第37代斎明天皇の「両宮(ふたつきのみや)」跡という説もある。

亀形石造物の裏手の尾根を登ると酒船石があった。これも庭園施設のようだが、後世の人がこの巨石を半分割って持ち去っている。

酒船石のあとは山沿いに西国三十三ヵ所観音霊場第7番札所の岡寺に向か う。 天武天皇と持統天皇の皇子、草壁皇子の岡宮を貰い受けて寺にしたという伝えがある。本尊の如意輪観音坐像は我が国最大の塑像だそうで灰色の姿は威厳があっ た。朱印をもらう。

第7番札所岡寺の仁王門

岡寺の門前で昼食を摂ったのち、山沿いに第33代推古朝に聖徳太子と協力した蘇我馬子の石舞台古墳に移動する。墳丘は一辺55mの方墳または上円下方墳で 後世に蘇我馬子に反感を持つ分子が封土をはがしたと伝わる。横穴式の玄室内には家形石棺が安置されていたと推定されている。横穴式玄室内にも入った。とて も大きい。 天井石の重さは77トン、総重量2,700トンの花崗岩から出来ている。

石舞台古墳全景

室天井石

横穴式玄室入口

石舞台古墳の奥に都塚古墳がある。2014年にこれが方墳と判明。中国東北部から朝鮮半島北部を支配した高句麗の古墳との類似性が高い。蘇我一族の墓だろうと推定されている。

石舞台古墳から坂を少し下り、西方にしばらく歩くと河原寺跡と仏頭山橘寺前に出る。新西国10番札所でもあるそうな。河原寺跡は広場があり、中心に小さな 寺がある。橘寺は聖徳太子生誕の地とも、太子建立の7ヵ寺の一つとされる。ここにはかって第29代欽明天皇の「橘の宮」という別宮があり、欽明天皇の子、 第31代用明天皇は聖徳太子の父となる。聖徳太子は第33代推古天皇の摂政となり、大臣の蘇我馬子と協力し斑鳩の里にこもって独自の外交路線を探り、遣隋使を送るのである。こ こで二面石を見る。とても素朴なものだ。かなり古そう だが飛鳥時代のものという。

2021/1/10のTVではこの二面石など鬼面の像はペルシア系の職人が作ったものと推察された。たまたまそのときは斎明在位5年(660年)に 百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波 に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩 御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを 戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。

引き続き、亀石を経て、672年に「壬申の乱」に勝利し、律令制の基礎を築いた天武・持統天皇陵を訪れる。 天武天皇となる大海人皇子(おおあまのみこ)から天智天皇となる中大兄皇子の女となった額田女王が蒲生野で 歌った万葉の歌は紫の相聞歌としてあまりにも有名。

あかねさす 紫野ゆき  標野ゆき 野守はみずや 君が袖振る

大海人皇子の返歌は

紫のにほへる妹を 憎 くあらずば 人づまゆゑに 吾恋ひめやも

天武とその妻となった天智の娘、持統二人の墳丘は現在では円墳状を成しているが、鎌倉時代の盗掘記録「阿不幾及山陵記(あ おきのさんりょうき)」によれば、八角形五段築成であるという。宮内庁が管理する天皇陵は誤認が多いのだが、この盗掘記録により、天武・持 統天皇陵であると証明されているようだ。

天武・持統天皇陵からは中尾山古墳と高松塚古墳がある丘陵地帯が南西の方角に見える。この丘陵地帯に分け入り、中尾山古墳と高松塚古墳を訪問した。まずは 壁画館で原寸大の復原模型を見る。高松塚古墳の上はカビで痛んだ壁画のある玄室を解体するための仮設小屋が造られていた。高松塚古墳の南にある宮内庁が管 理する文武天皇陵は間違いで、高松塚古墳の北側にある中尾山古墳こそ真の文武天皇陵だというのが研究者の一致し た見方だ2007年に既に指摘されていたという。その証拠に墳丘は八角形であるという。

2020/11/27 奈良県高市郡明日香村にある中尾山古墳は、7 世紀末から 8 世紀初頭に築造された終末期古墳である。1974 年の環境整備に伴う調査で、八角形の墳丘内部に蔵骨器を納める横口式石槨を備えたものであることが推定されており、今回の本格的な調査でそれが確定されま した。調査結果によると、中央部の墳丘は高さ 5m 以上、対辺長約 19.5m の 3 段構造。その外側に 3 重の石敷きが見つかりました。内部は火葬した被葬者の遺骨を入れる石室が 10 個の巨石で構築。石の表面は当時では珍しい研磨技術で磨かれ、同様の石室は他の古墳では見つかっていません。また、約 0.9m 四方の石室内部はすべて水銀朱で塗られていたことも確認されました。関西大学文学部の米田文孝教授らによると、使用された石材の総重量は約 560t、その築造には約 2 万人の労働者が従事したと推定しました。これは極彩色の壁画で有名な高松塚古墳の 4 倍に相当。石室内部の加工度合いや天皇陵に特有の八角墳であることなどから、中尾山古墳の被葬者は天皇かそれに準ずる立場の人物であることがうかがえま す。2021/4/28NHKの歴史探偵 大発見で紹介された。

橘寺から 河原寺跡方向

橘寺 背後の山の中腹に岡寺

高松塚古墳

6時間、歩きとおしで、ミセス・グリーンウッドは足が痛くなってしまったが、自転車を利用することもなく、無事本日の目的は達し、飛鳥駅にたどりつく。駅 前でコーヒーとケーキで一休みし、近鉄でホテルに帰った。ところで飛鳥駅の少し北には欽明天皇陵古墳(梅山古墳)があり、猿石があったがパス。 岡寺駅近くにある見瀬丸山古墳が欽明天皇陵ではないかという説もあるが、梅山古墳に軍配があがるようである。

 

第三日、初瀬・山の辺の道

前日ミセス・グリーンウッドの足が痛くなったことを考慮し、一日中「山の辺の道」を歩くことをやめまず初瀬の長谷寺を訪問してから「山の辺の道」を歩くこ とにした。近鉄で初瀬駅に移動する。三輪山、巻向山、初瀬山が三つ並び、そのみなみ斜面を初瀬川が造った渓谷はなぜかコート・ドールを思わせるのどかさを 感じた。長谷寺は渓谷を挟んで初瀬駅の対岸にある。坂を下り、川を渡り、長い門前町を歩いてようやく西国三十三ヵ所観音霊場第8番札所の長谷寺にたど り着く。途中草餅を買って歩きながら食す。長い登廊を登って本堂につく。清水寺と同じ懸崖造りだ。 藤原鎌足の次男不比等の次男である藤原房前(ふささき)が736年(天平8年)徳道(とくどう)上人を招請して開山したものとされる。

本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)は鎌倉の長谷観音像より立派に見える。721年に楠の巨木から2人の仏師が2体の観音像を作り、一つをここの本尊 とし、残る1体を海中に投じたところ736年に相模国の長井浦(現横須賀市長井)の洋上に忽然と現れたのが鎌倉の長谷観音像といわれる。

観音巡礼は 徳道(とくどう)上人が提唱して始まったとされている。朱印帳に朱印をもらう。

第8番札所長谷寺の仁王門、登廊、ボタン園

丁度紅葉と重なり五重搭が美しく映えている。

長谷寺の五重搭

とってかえして、桜井駅でJR桜井線に乗り換え、三輪駅で下車。ここは駅員も居らず、コインロッカーもない。駅前のタバコ屋さんに荷物を預かってもらい 「山の辺の道」に入る。すぐに大神神社(おおみわじんじゃ)の前に出る。背後の三輪山をご神体とする神社の ため、拝殿のみで本殿はない。三輪山は花崗岩の山で赤松しか生えない痩せた地質という。登山禁止である。三輪山の裾を巻いてゆくとやがて檜原神社(ひばらじんじゃ)に着く。大神神社の摂社という。従って本殿も拝殿もなく三つ鳥居がたつだけである。天照大神が伊勢 神宮に鎮座する前の宮があったことから元伊勢とも呼ばれる。

三輪山をはなれたところでJR巻向駅に向かうことも可能。途中、3世紀のものとされるホケノ山古墳や線路をわたれば箸墓 古墳や纒向遺跡(まきむくいせき)がある。前方後円墳の最古のものだ。日本古代史諸説の整理に書いたが 最近の発掘により卑弥呼の邪馬台国九州説が次第に分が悪くなり、箸墓古墳や纒向遺跡が有力になりつつある。今発掘中だが沢山の桃の種が出土した。1世紀ころで弥生時代でももっとも寒冷化した時代である。寒冷化して困り、弥生の象徴である銅鐸を破壊し中国渡来の 神仙思想である道教によったのではないか。鬼道とは即ち道教ではないかといわれるようになってきた。桃は中国南部の道教圈からやって来た。道教では三千年 に1回しかならない桃の実を食べると、不老長寿が得られると信じられた。桃源郷というのもここからくる。この道教の教えが日本に伝わると、日本では国を整 備するために道教の概念が多く使われた。鬼を追い払うために用いたのも桃の木。鬼の退治に出掛けたのは桃太郎。このように、桃には邪気を払う特別な力があ ると考えられていた。ところが、道教は本来個人主義的な教えのため、国の整備には不向き。そこで、後から儒教が入ってくると、道教はどんどん排除されて儒 教色が強くなり、桃の代わりに梅が表面に現れてきたという。

箸墓古墳はもしかしたら卑弥呼に関係あるかもとされていて興味があったが、時間の関係で省き第12代景行天皇陵(けいこうてんのうりょう)に向かう。箸墓古墳は現在は宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(や まとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されている。その名は日本書記の「則ち箸に陰(ほと)を 憧(つ)きて薨(かむさ)りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸 墓と謂ふ」からきていると伝わる。

景行天皇陵近くの山の辺の道から振り返ると三輪山が姿よく見える。景行天皇陵は全長300mの全国7位の前方後円墳だ。 景行天皇はヤマトタケルの父だ。ヤマトタケルは西方の部族退治に成功するも父景行天皇に遠ざけられ、東征で勇名をはせたのち力尽き白鳥となって昇天する。 三島由紀夫は「豊穣の海」を書くために山野辺の道界隈に取材に来て、「景行天皇がヤマトタケルのなかの神的なものを看破し、神話の中に追いやらないと危険 だと死に追いやった」とヤマトタケル神話を解釈した。三島はここに神的天皇の死と人間天皇による統治をみた。神人分離による文化と政治が分かれ、詩や文化 は放逐される運命の者が担わなければならなくなったところに日本人の悲劇的感情の源があるとかんじていたという。

大神神社拝殿

檜原神社

景行天皇陵近くの山の辺の道より三輪山

更に歩くと実在した大和の初代大王とされる第10代崇神天皇(すじんてんの う)に行き着く。これも大きい前方後円墳だ。幕末に灌漑用水地として大改修したという周濠は立派だ。傾斜地にあるため、周濠は階 段状になっている。両者とも 陪冢(ばいちょう)をいくつか持っている。いずれも宮内庁が草刈をしているところであった。ちなみに景行天 皇は崇神天皇の孫ということになる。蝦夷を征伐した日本武尊(やまとたけるのみこと)は景行天皇の皇子であ る。

景行天皇陵

崇神天皇陵

京都駅

空模様があやしくなっていたが、丁度柳本駅に着くころついに降ってきた。すぐそばに黒塚古墳がある。三輪駅に戻って荷物を回収し、奈良経由で京都に向か う。京都駅の伊勢丹で夕食をとり、ショッピングをして時間調整をし、新幹線で夜半に自宅に戻る。伊勢丹の長大なエスカレーターはすばらしい。

飛鳥の遺跡と沢山の古墳を見て帰り、日本古代史の諸説を再整理してみた。歴代天皇の系譜な らびに歴代天皇陵に関しては安本美典の「巨大古墳の被葬者は誰」があるが、これは万世一系を標ぼう する記紀の記述にあうように強引に振り当てとも言える。

古 田史観「九州王朝説」を 見れば全く別の風景が見えてくる。すなわち蘇我氏とは九州倭国の天皇家のことであったと考えられるというのだ。その理由は蘇我稲目以前の蘇我氏の先祖が分 からない。蘇我氏が何故、短期間で権力を掌握できたか分からない。蘇我氏は、渡来人の集団を支配し進んだ知識や技術を持っていたとされている。当時、ヤマ ト日本で唯一蘇我氏だけが仏教を崇拝していたとされている。蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になることや蝦夷など、実名ではないと考 えられる点がある。蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。『国記』・『天皇記』といった皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管していた。というと蘇我馬子の石舞台古墳と言われる古墳は誰のものということになる。

しかし最近の考古学はこの見解を否定する。前方後円墳は箸墓古墳周辺で始まり、遠く朝鮮半島に伝播したことがわかりつつある。

November 23, 2007

Rev. June 20, 2021


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