アルジェリア

1979年、アルジェリアの国営石油会社訪問のため、アルジェ、オラン、アルジューを歴訪した。首都アルジェのダウンタ ウンにはフランス植民地時代の市街地が残っているが、メンテナンスしてないので無残な印象。

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、ジャン・ギャバン、ミレーユ・バラン主演の1937年のフランス映画「ペペ・ル・モ コ」(望郷)で育った世代としてはカスバ も訪れてみたかったが、不案内のため断念した。

新規開発のマリーナを中心とするホテル・レストラン・センターはにぎわっていた。郊外の道路沿いの並木の幹を白くペイン トしているのが印象深い。

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アルジェの新開発マリーナで

アルジェからオランへは国内便で約1時間のフライトである。緑のベルトは海岸線に沿った狭い地域で内陸は裸の地層が見え る荒涼たる風景である。オランでは土地の人は地中海を渡ってくるフランス語のモノクロのテレビ番組を見ていた。アンナカレリーナがフランス語でしゃべって いる。アルジェリアはフランスから独立してから国語としてアラビア語を採用し、子供たちにはアラビア語を教えているが、大人はフランス語しか理解できない ためである。

オランは汎ヨーロッパ主義者で反ナチ運動を展開していたチェコのグーデンホーフ・カレルギー伯爵(母は青山ミツコ)がナ チに追われて米国に亡命するため、パリからフランス領モロッコのカサブランカに逃亡した経路に当たる。この実話は1943年のハリウッド映画「カサブランカ」  となった。劇中歌われるサッチモの歌は「時の過ぎ行くまま

訪問の最終目的地アルジューまでは陸路を行く。舗装が悪く、パリの安宿で始まった腰痛を患っている身にはこたえた。スケ ジュール待ちのホテルのプールで泳いだのも腰痛を悪化させ、ベッドでは寝ることができず、床にマットレスを蹴落としてうっぷせに寝るしまつ。 Sonatrachでのプレゼンテーションでもソファーに座れず立ったまま話すはめになった。顧客にはかなり印象深かったはず。

パリ経由で帰国の途につく。M物産の所長がパリまで付いてきてくれて親切にも大島渚の愛のコリーダ」の実演のごときショーに誘ってくれた。これを見ているうちに不思議と腰痛は直った。

1979


私が訪問したころは治安は維持されていた。日揮はその後もフランスのTECNIPと共同でアルジェリアで継続的にプラント建設をしていた。ところが 2013年にマリ内戦にフランス軍が介入したとき、アルジェリアのイナメナス(Site Gazier de Tiguentourine 、英語では Gas Site of Tiguentourine, In Amenas の町から西南西に約40km) で日揮の工事現場の数百人の人間がゲリラの人質になり、38人(内日本人10人)の命が奪われた。たまたま不穏な空気を察知した日揮と運転担当のBPのトップが対策を協 議しているところを襲われたという見方もある。
ここの東隣のリビアでも日揮はイタリアのTechnimont、フランスの Sofregaz 3社のジョイントベンチャ (頭文字をとって JTS Consortiam) でガスプラントの建設をした。プラントサイトは首都トリポリから南へ約600km、アルジェリア国境近くの Wafa。このプラントは2004年9月に運転開始して、アダフィ失脚の政変中も操業を続けたという。Wafaから地中海の港町Mellitahまで 530kmをパイプラインでガスを送り、さらに520kmの海底パイプラインでイタリアのシチリア島のGelaまで送っている。これに関しては元日揮の永田さんのブログ日暮れ綴り2013年1月18日 (金)に詳しい。

両者のガス層は地中ではつながっているかもしれない。

千代田はアルジェリアには注力してこなかったが、アルジューでSaipem - Italy / CHIYODA J.VでGNL 3Z Projectを昨年完成させた。千代田は設計のレビューで、工事はイタリアのコントラクタが行っているようだ。それに600kmの砂漠の中ではなく、ジ ブラルタル海峡に臨むアルジュー。ガスは地中海海底。このような仕事をすることになったのも大昔苦労してパリ経由LNG技術を売り込んだ成果なのだろうか。少なくともLNGの経験のないSaipemに千代田と組めと指導したのはSonatrachとのこと。

千代田も日揮も別にお国のためにといって危険な砂漠の中に好んで出かけたわけではないが、資源というのはなぜかそういうところにある。または石 油ガスのあるところ結果として資源の収奪になるから貧しい地元民の反感の矢表に立たされてテロの温床になるということ。米国が結局テロにまけて米 国内に引きこもるので、これからますますコントラクタ受難の時代がきそう。そういえば私が現役だったころ、パパ・ブッシュのイラク進攻作戦のヘッド クォータになったサウジの空港ではベクテルの下請けとして電気工事をしたため帰ることは許されず、ヘッドクォータの電源は千代田の電気エンジニアがすべ て供給した。いわば米軍軍属のような形で戦争に組み込まれていたのだ。配電盤の裏から毎日壁に掛けた大型スクリーンに映るTVには決して放映され ない映像を見ていたそうだ。もう使われていないがハリヤーが一番印象的だったという。サウジ大使が秘密に陣中見舞いにきたが、安全のため日本の新聞には一切 報道されなかった。

冷泉彰彦氏の解説によれば:

ドゴール大統領は1962年に独立をアルジェリアの独立を認めた。独立したアルジェリアは、独立運動を弾圧したフランスの過酷な姿勢への反発もあり、徐々 にイスラム色を強めていった。そうした流れの中で、フランス系住民の多くはアルジェリアを去った一方で、経済は低迷したり、石油が見つかって持ち直したり と不安定な状況が続いた。このころの1979年に私は訪問したわけである。

精神的にはイスラム教色の強い国にしたいが、経済も何とか立て直したいという中で、選挙があったりクーデターがあったりした。状 況が大きく変わったのが、1992年の選挙だった。ここに至ってイスラム色の強い政権が圧倒的な支持を得て発足し「公正な選挙の結果、民主主義が否定される」というパラドックスのような事態が発生した。これに対して、現実的な経済 成長やフランスをはじめとする欧州との結びつきを心配する勢力は軍と結びついてクーデターを起こし、激しい内戦が発生した。最終的には1999年に内戦は 収束し、以降は世俗的で現実的な政権が「国民の和解を」目指すことになった。

しかし歴史的な経緯のために現在のブーテフリカ政権は「イスラム原理主義は否定」 しつつ「フランスをはじめとするEUや西側諸国には距離を置く」という独特のポジションを取らざるを得ない。では、アルジェリアの穏健な政治勢力によって追い出された「原理主義的勢力」はどこへ行ったのかと いうと、それは北アフリカ全域で活動を続ける中で、最終的にはマリにおいてクーデターを成功させ、マリの北部三州を事実上支配するという事態になっている。いずれにしても、この「第一のグループ」は今は大変に過激な 行動をしているわけだが、源流をたどれば独立後のアルジェリアが「イスラム」に精神的な背景を求めていった流れが入っている。ただ、この2000年代の動 きの中で、特に「アルカイダ」とも言われる「ビンラディン系」のグループが合流してきていると言われている。

つまり、現在のマリを拠点とする「北アフリカ の原理主義勢力」というのは、アルジェリアからはじき出された過激な政治的エネルギーと、一種の私怨に基づくビンラディンの影響を受けた反西側の政治運動 が合流していると見ることができまる。このマリの不安定化に対しては、フランスのオランド政権が正規軍を投入して軍事介入している。では、彼等がどうして アルジェリアのガス・プラントを狙ったのかといえば、表面的にはマリに対するフランスの軍事介入への反発があるわけだが、その奥にはアルジェリアの中道政 権への反発もあるわけ。アルジェリアのブーテフリカ政権は、どうして対テロリストの作戦を実行するに当たって、どうして米英との連携をせずに独断で無謀な 空爆作戦を行ったのかというと、米英との綿密な連携をしてしまうと、「ビンラディン系のグループの持つ反米英の感情に火をつける」だけでなく、「中道路線 には賛成するものの西側諸国との距離を置きたい自国世論」の反発を受けてしまうからだと思われる。

Rev. February 13, 2013


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