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自己紹介

私とアジア

2018/10/12

吉川尤雄

父が満鉄社員だったため北京生まれ、敗戦で引き揚げ者になったが、北京は蒋介石の勢力下にあったので混乱なく米軍の上陸用舟艇で九州に無事帰ることができた。

九州では父が石炭会社に勤めたため、朝鮮戦争特需で3年間で一間の借間から一軒家を所有するという激変を経験した。しかし石炭ブームも3年で終わり、東京 にでて東大経済をでて東レに就職。しばらく国内の愛媛工場などでのんきに見習いしていたが1971年の沖縄返還とのバーターとして繊維自主規制をすること になり、東レの東南アジア展開の先兵としてバンコック、ジャカルタ、北京総代表と転戦した。装置産業は投資してから10年間は赤字続きとなる宿命である。 追加投資しているうちに黒字化するのだが、途中、赤字の犯人探しが始まって代表がその責任を取らされる宿命になる。

その当時の当時の政治状況を懐かしい政治家の名前毎に詳しく解説してくれたので頭の中が整理できた。

民主主義の下で国が興隆したのは日本だけで当時のアジア諸国は全て独裁国であったというわけ。これはユヴァル・ノア・ハラリもおなじことを指摘している。

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