ついていない男の航跡

家は三代でつぶれた

2013/11/8 

根本忠弘

根本姓はお母さんの実家である根本家に養子にでたため。本来は橋口家の6人兄弟の最後である。祖父は橋口文蔵といい札 幌農学校4代目校長であった。森鴎外によれば豪快な人物だったという。文蔵の 妻は子爵の黒田清輝の姉。橋口家はそのころ北海道に350万坪の土地を所有することになったらしい。その次男の橋口孝で根本の父は 鎌倉の材木座の水道道に沿った広大な屋敷に大勢の女中と書生を抱えて豪勢に暮らしていた。3人の兄にはそれぞれ書生1名がついて一等車で学習院に通学してい たが、忠弘の番になる前に敗戦となった。

一家の生活費は戦前は三井住友に預けていた金の金利。ところが戦争に負けると マッカーサー命令で預金は没収され、北海道にあった土地も農地改革で失い、収入が途絶えた。学資にも事欠くようになり、納豆売りや新聞配達をし て稼いだ。成績が悪く、湘南高校にも入れてもらえず、栄光学園を受験したが、牧師から「良心」とはなにかと質問され、「母親と父親」と回答して落 第。青山学院に入った が学資を稼げず夜間を出ただけという悲惨なものだった。

曽祖父は貴族院議員の橋口兼三。その弟の橋口伝蔵は伏見寺田屋での粛清で死亡、その弟は樺山家に婿に入り、台湾総督伯爵樺山資紀となった。その子樺山愛輔 の妻は伯爵川村鉄太郎と柳原華子(大正天皇の生母の出身柳原家で白蓮とは腹違い)。その子である樺山正子は白洲次郎の妻となっている。

吉田茂、白洲次郎、樺山愛輔、野村吉三郎、重光葵(まもる)、 楢橋渡、大来佐武郎、マッカーサーはフリーメーソンだ。

橋口兼三の父は橋口与三次 といい、江戸南町奉行をしていた。そもそも橋口家は薩摩・大隅の豪族大伴氏の末裔である。5世紀から6世紀にかけて外交・外征面において、倭王権では重要な 役割を果たしていたものと考えられるとされている。ところが大伴氏はやまとの歴史にもでてくる。その原因は天武天皇が指導して日本書記を書き、倭の国の歴 史と大和の国の歴史を合体させたことに起因する日本史の混乱が現在に引き継がれる。東大の黒坂勝実を中心とする官学が信奉する皇国史観はまんまと天武天皇の謀略を増幅拡散させた。源氏物語の作者紫式部のほうがまだ日本史を正しく認識していたのだ。

豊田自動車販売に入社。そして最後は住友スリーエムの役員になるのだ。根本氏の奥さんは日露戦争時代の乃木希典大将の参謀長だった伊地 知幸介と子爵毛利元靖の次女という。

November 10, 2013


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