鎌倉プロバスクラブ卓話

外国人の見た日本人の奉仕の考え方

リンカン・ベル

2009/9/8

鎌倉プリンスホテル

鬼頭会員による紹介

リンカン・ベル様はサンフランシスコ生まれで、カルフォルニア大バークレー校で歴史と日本語を学び、若い頃は米海軍で将兵に日本文化と日本語を教えました。その後、日本企業、政府機関に翻訳・執筆・編集・出版を提供する仕事をしつつ、日本政府の専門委員も務めている人です。日本語が上手でかつ仏教、山岳信仰、現代文学に大変詳しい方です。ロータリーメンバーの仲間で奉仕を一緒にしております。今日は日本人の奉仕の心についてお話しをしていただくように頼みました。


鬼頭さんが用意した本日のテーマは「へんな外人の見た日本人の奉仕の考え方」でしたがどなたかが編集されたようです。私は話が苦手です。よく聴衆をカボチャと思えば良いといわれますが、来月のハロウィーンでカボチャのお化けをつくりますよね。あれ怖いと思いません?鬼の頭のように見えませんか?鬼頭さんと初めて会ったのは4年前にロータリーに加入したときです。「鬼頭とは英語でなんというのですか?ゴーストヘッドでよろしいでしょうか?」と聞かれました。ゴーストは幽霊ですから少し違う。ディーモン・ヘッドが近いのですが長いですからデモ・ヘッドで良いのではとお答えしました。というわけで皆さんをカボチャと思うより羅漢と思ったほうが話しやすいと思います。

私は20才になってから大学で日本語を勉強しましたがうまくなりません。学生時代には中根千枝さんの本をよく読んでいました。彼女は「適応の条件」で人は20才以下でなければ外国の文化に 適応できないと書いています。言語も同じです。翻訳の仕事は貧乏くじをひいたようなものですが翻訳で生計をたたています。中根さんは英語が出来る人ですが、翻訳を手伝ったこともあります。

さて今日のテーマは奉仕です。鎌倉児童館をご存知ですか。3才から高校3年生までの80人くらいの親の無い子が集まって暮らしています。2年前に鎌倉ロータリークラブで社会奉仕の一環として何かやろうということになり、鬼頭さんの紹介で児童館の経営者と会い、小学生のための英語クラスをやろうということになりました。毎週そこにかよってボランティアとして英語を教えているわけです。

私の目的は中学に入る前に正しい発音を教えて日本人の英語教師の悪い発音の影響を排除するためです。文部省が英語教育を小学校から始めるという方針のようですが、日本人の先生を使う限り最悪の教育方針です。

会社員にも英語を教えたことがありますが、一番英語の発音の綺麗な人は子供の頃、外国人に発音を習った人でした。英語力はそれほどでもないのですが発音だけは子供の頃耳に入ったものが残っていて綺麗な発音ができるようになるのです。同じロータリーの会員で日本人はなぜrとlを聞き分けられないかというテーマで博士論文を書いた人がいます。彼の理論によると人は思春期までに発音を覚えないと脳の中にそれを聞き分ける回路が出来ず、永久に無理となるとのことです。話すことは機械的に訓練すればなんとかなるのですが聞き分けることは訓練しても回復不能となるのです。このところは中根千枝の悲観的な説と重なってしまうのですが、本当のようです。

奉仕とは相手に英語でいうところのmake a differenceがなければやる意味がない。すなわち相手の為にならねば意味がないということです。自分が気持ちよくなるために、あるいはえらそうにやる、売名でやるのでは意味がないのです。その過程である程度、自分を犠牲にしなければなりません。身内に親切にするのも奉仕の一つですが、赤の他人に親切にすれば次第に情が移って身内のように感ぜられるのは奉仕の報酬でしょうか。日本のロータリークラブは奉仕の精神を履き違えています。この違いは文化の違いから来ていてその底流には宗教があると思います。キリスト教が優れていると言っているわけではありませんが、奉仕はやはりキリスト教的な考え方が 人々の心にあると自然にできるような感じがします。

河合隼雄先生が文化庁長官の時、著書の翻訳や国連での講演前の英語のブラッシアップをお手伝いして観音経についても学びました。隼雄先生の見るところでは西洋はキリスト教があるおかげで人々が希望を持てるため得している。しかし日本では仏教が生きていないため、大勢の人が不安の感情を持っていて奉仕する余裕がないとみておりました。

私は仏教徒ではありませんが、登山が好きで、山に登っているうちに修験道に興味をもってかなり勉強しました。今でも山伏仲間とは付き合いがあります。中根さんの言われるように日本社会は縦社会ですから上だけ見て横を見ていないということも奉仕の精神が希薄な理由の一つかもしれません。

仏教には慈悲の精神があり、キリスト教には愛の概念があります。聖書の愛の定義と仏教の無の定義も重なっています。両方とも無我になって施しをする精神の源となりえます。しかし仏教が日本人の心に働きかけて奉仕につきうごかさない理由がどこにあるのか私にはまだわかりません。因縁の思想が邪魔しているのでしょうか?確かなのは今後日本で仏教が復活することもないだろうし、日本のロータリークラブは親睦団体で終わるだろうということです。


私は無神論者であるが、ベル氏の言うことは納得である。

キリスト教徒ではないが、大学の神学講座でキリスト教を哲学として学んだミセス・グリーンウッドは「ベル氏はまだ仏教を理解してしていない」と断定する。

「キリスト教の神の概念は人格神であって、人はいつも神から見られているという意識がある。したがって隣に苦しんでいる人を助けない自分も神に見られていると感じる。これは大変苦しい。だから懺悔や奉仕をして心の平安を得たいと考えるのではないか。仏教は死んだとき閻魔様に1回だけ裁かれるだけだと教えるから人々は先のことはあまり気にしない。

釈迦の唱えた思想はキリスト教に通じているところがあるが日本に伝来した仏教は釈迦以前からインドにあった古い宗教哲学も区別することなく渾然一体となって伝わったものだ。その一つが因果律で「因縁」という思想の基本となっている。これは運命は決められているという諦観となって人々に希望を与えない。従って努力させる原動力とならない。そいう意味で因果律を是認する日本の仏教は日本人に宗教による心の平安というものを与えない」という。

そして「ベル氏の『なぜ仏教は日本人に奉仕の精神を植えつけなかったか』という疑問への答えは、『ベル氏の日本仏教の理解がまだ不十分である』ということになる 。もっと司馬遼太郎の著書を読むと分かるのでは」というのだ。これも良く分かる。

ただ無神論者としては因果律はサイエンスの基本であり、かの気象学者エドワード・ローレンツの「バタフライ効果」が真であるように無視できない。では無心論者は心の平安が無いのかというとそういうことはもない。心の現象に関しても徹底的に因果律を追求すれば悩みなどは消し飛んでしまう。

日本人に奉仕の精神が希薄なのは自律・自尊の習慣が長い徳川独裁の時代に払拭されてしまい、明治維新後も貧民救済はお上の任務で我関せずという気分があることにも一因がるのではないか。 政治学者佐々木毅が指摘するようにこうして日本の民は面倒なことはひたすら政治家と官僚に任せようとする依存心を持つようになってしまった。

米国は出来るだけ政府の干渉を排そうという自治の精神がある。困っている人がいたら手を差し伸べるということが自然と出来るのだろう。

市民にとって日本は気楽な社会だが結局、政治家も役人も機能しないと分かってきている。社会はどんどん住みにくくなると分かれば自ら立ち上がるしかないのではと思案する。

鎌倉プロバスクラブへ

September 13, 2009


トップページへ