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シリアル番号 表題 日付

1184

奥州平泉の歴史

2008/03/09

724年、朝廷が仙台平野に多賀城を築き、陸奥国府として北進政策を開始

801年、蝦夷(えみし)制圧のため坂上田村麻呂を北上盆地に派遣。胆沢城(いさわじょう)を築き、鎮守府を多賀城から移す。

10世紀に衣川関が設けられ、胆沢鎮守府のある衣川の北側は独立国のようになる。この胆沢鎮守府を支配した豪族は安倍氏である。

1051年、安倍氏が衣川関を越えて南下し、多賀国府の直轄地を侵して、以後12年続く「前九年の役」が始まる。朝廷は源頼義を討伐に送る。

1062年、源頼義は出羽の清原氏を懐柔して安倍氏を討ち、「前九年の役」は終了する。 このとき、奥州藤原氏の基を築いた清衡は7才、父は地方に活路を見出そうとした軍事貴族の出身で、安倍氏に加勢した咎で処刑されている。母が戦後、清原氏の嫡男に嫁いだため、清衡は清原氏の一員となる。

1083年、28才となった清衡は異母兄と清原氏の当主の座をめぐって争った。これに源頼義の嫡男、源義家(八幡太郎義家)が陸奥守として介入したのが「後三年の役」で源義家と組んだ清衡が勝った。

源頼義は奥州を手に入れたかに見えたが、摂関政治から院政期にはいっていて、白河上皇は摂関家の私兵であった源氏の突出を妨げた。こうして清衡は東北全域を支配する立場に立ったのである。

以後奥州藤原氏三代100年間にわたり、平泉は栄え、西行もあこがれてここを2度訪問している。

頼義義家ー義親ー為義ー義朝ー頼朝に至る河内源氏の系図

Rev. April 4, 2008


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