読書録

シリアル番号 939

書名

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

著者

アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート

出版社

以文社

ジャンル

哲学・思想

発行日

2003/1/20初版第1刷
2006/12/15初版第5刷

購入日

2008/3/14

評価

原題:Empire by Michael Hart and Antonio Negri 2000 Harvard College

書評では知っていたが、買い控えていた。

2008/3/13の朝日の記事でイタリアの哲学者で著者のアントニオ・ネグリ氏が財団法人国際文化会館の招きで来日する予定であることを知り、有隣堂で 購入。 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの「千のプラトー 資本主義と 分裂症」で使っている難解な概念を持ち出しているのでかなり手ごわい本だ。

日本は世界とは隔絶したところだからシアトルの時のような盛り上がりはなかったが米デューク大教授のマイケル・ハート氏は2008年7月の洞爺湖サミット に反対する札幌のアンチG8デモに参加したアクティブな論客だ。

著者のいう<帝国(エンパイア)>とは国民国家がその境界を越えて主権を拡張して植民地体制を構築した帝国主義のことではない。それはグローバル化が必然 的にもたらす権力とでもいうべき抽象的なものだ。ハンス・ケルゼンがカント的な仕方で「最高の倫理的理念と一体になった、人類の組織体」としての「普遍的 な世界国家」への梃子となる国際連合の発展形のようなものである。

グローバル化が進行するにつれ、国民国家の主権は次第に衰退している。新たな<帝国>の主権とは単一の支配論理のもとに統合された一連の国家的(ナショナ ル)かつ超国家的(スプラナショナル)な組織体からなる。また<帝国>には帝国主義のような外部はなく、時間的な境界をもたず、歴史の外部ないし終わりに 出現する体制ではない。

<帝国>はグローバリゼーションのプロセスを再組織化して新しい目的に向かわせる、<帝国>を支えるマルチチュードの創造的諸力は<対抗ー帝国(カウン ター・エンパイア)>を自律的に構築することができる力でもある。マルチチュードは新たな民主主義の諸形態と新たな構成権力を創出しなければならない。こ こでマルチチュードとは<帝国>を構成する新しい階級と定義される。労働者や人民、大衆とは区別される。虐げられる一方で自由に国境を越えて移動する、移 民労働者や不安定な身分のまま小さな企業を渡り歩く半専門職的な知識労働者。<帝国>そのものに対抗しうる自律的な主体である。

資本主義にはそもそもの初めから普遍的ないし普遍化を推進するような次元が備わっている。かって帝国主義的列強間の抗争や競争であったものが、単一の権力 という理念にとって代られてきている。<帝国>の法権利に関するローマ的伝統は倫理的なものと法的なものの一致と普遍性を極限にまで推し進めたことにあ る。<帝国>の概念は社会の平和を維持しその倫理的真実を生み出す単一の権力として提示される。

<帝国>はそれ自身の意思にもとづいてうまれるのではなく、それが発揮する紛争解決能力にもとづいて存在すべく呼び出される。<帝国>が取り組むべき最初 の仕事は、それ自身の権力を支えてくれる合意の領域を拡張することである。

<帝国>の生成は<帝国>の頽廃と衰退を特徴づけるものと同じ条件にもとづいて実現される。<帝国>は危機として生まれるが、モンテスキューやギボンが述 べたように<帝国>を衰退しつつあるものとしても考えるべきなのかもしれない。

ミシェル・フーコーのおかげで社会的諸形態が「規律社会」から「管理社会」への移行したと認識することが可能になった。資本主義的蓄積の第一段階はこの規 律社会の権力パラダイムのもとに押し進められたといっていいだろう。これと対照的に管理社会とはポストモダンへ向けた開かれた社会と理解してよい。 資本が必要とするのは超越的権力ではなく、資本の内在性の平面上に配備される管理のメカニズムである。この場合、権力はそれが、あらゆる個人によって自発 的に受け入れられ、再活性化を施されるような精気にあふれた統合機能となるときにのみ、人口を構成する住民の生全体に対して実効的な指令を及ぼすことがで きるという。ここでジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリの「千のプラトー」の権力のパラドックに言及される。この管理社会と生権力という概念構成は <帝国>の中心的側面を描き出し、国連という古い理論的枠組みとの真の裂け目が開かれる。生政治とは生のあらゆる様相に介入する生権力(ミシェル・フー コーのいう)とそれに対する創造的で生産的な抵抗からなる政治である。

<帝国>の形成過程にある政体は一見カオス的ではあるがぼんやりとした階層型になっている。アメリカがリーダーとして第一層の1番目に残るだろう。第一層 の2番目のレベルには 先進7ヶ国会議であるG7、パリクラブ(主要債権国会議)、ロンドンクラブ(民間銀行債権者会議)、ダヴォス会議(世界経済フォーラム)などの国際金融機 関の運営と規制をする組織がある。第一層の3番目のレベルには欧州連合のようなもろもろの連合組織の軍事レベルと通貨レベルの雑多な集まりが展開してい る。G7+欧州連合=サミットでG7+ロシア=G8である。

第二の層には国民的な枠組みを越えて諸国にまたがって産業・金融部門で活動する巨大な多国籍企業が展開している。多国籍企業が生政治的な仕方でにグローバ ルな規模の領域を構造化しはじめたのは20世紀後半になってからにすぎない。企業は国民国家を、自らが動かす商品・貨幣・人口の流れを記録するための単な る道具にしてしまう。多国籍企業は労働力をさまざまの市場に直接割り当て、資源を機能的に配分し、世界的生産の多岐にわたる部門を階層的に組織化する。す なわち世界の新しい生政治的な構造化を決定するのである。そして生政治的な形象は貨幣の衣装を身にまとって現れるのである。

第三の層には国民国家と従属的国民国家の集合体(国連)がひかえてマルチチュードを代表している。IMF、世銀、GATTなどの超国家的調整機関に正統性 を授けているのは<帝国>的秩序の象徴学において新に可能となった機能なのだ。旧制度的な枠組みは<帝国>的機械の行政スタッフの育成と教育、換言すれば 新たな<帝国>のエリート達の調教に貢献することしかできないであろう。 第三の層にはニュース・メディア、宗教的組織、アムネスティ・インタナショナル、アメリカス・ウォッチ、オックスファム、国境なき医師団、グリーンピース などに代表される非政府組織(NGO)が並ぶ。非政府組織は<帝国>による平定的かつ生産的な正義の介入という権力を先取りしている。

国民国家が代表している生産的で創造的なグローバリゼーションの諸主体からなる多元的なマルチチュードは現実的な生産力であるのに対して、<帝国>はマル チチュードの活力を吸い上げる単なる捕獲装置にすぎない。

ここまでよんでハタと気がついたがスチュアート・L・ハート著「未来を つくる資本主義 世界の難問をビジネスは解決できるか」 で言及されたモンサントの失敗はNGOや市民団体が社会基準や環境基準を監視し、時には強化する役割を担い始めてその隠れた権力を振るったに過ぎないとい うことになる。そしてマーケットを創生する多国籍企業(MNC)のみがグローバル環境破壊と貧困、格差、絶望、尊厳の喪失によるテロ、地政学的崩壊を根源 的に防止できる資源、能力、グローバルリーチをもった唯一の制度ではないかとハートが述べたのは正に<帝国>のみがグローバル環境破壊を阻止できると述べ たに等しい。

今日、軍事的介入の決定を下す主体は、徐々に旧い国際秩序ではなくなってきており、また国連組織ですらなくなりつつある。たいていの場合軍事介入は、合衆 国によって一方的に指揮される。合衆国の同盟国は目下の敵を征圧するプロセスに向けて始動するように要請される。その敵はたいていテロリストと呼ばれる。 この呼び名は警察的な心性に根ざしている。

この本はソ連崩壊後のアメリカがパパ・ブッシュに指導されて1990年の湾岸戦争を成功した直後に書かれたもので米国でベストセラーとなった。その時の印 象はこのピラミッドのようだが、息子のブッシュが2003年イラクに侵攻する直前に書かれたエマニュエル・トッドの「帝国 以降 アメリカ・システムの崩壊」ではフクヤマのパラ ドックス(Paradox Serial No.34) を引用して「アメリカ合衆国は世界にとって無用なものとなり、他の民主主義国家にすぎないという事態に甘んじなければならなくなる」としている。そして 今、アメリカはサブプライム問題に端を発したドル資産暴落に苦しんでいる。米国の友人クーパー氏がイラク戦争後、かくも速くアメリカ帝国は崩壊したかと慨 嘆しているのを思い出す。米国という国家はかってのローマ帝国のようなものとの理解は実は幻で、世界はその真の姿に今、ようやく気がつき始めているという ことが理解できる。

アントニオ・ネグリは1979年、「赤い旅団」関連でイタリアの国家転覆罪で有罪になり、禁固刑に服している。日本の入管法で、国内外の法律に違反し、1 年以上の懲役や禁固刑を受けた外国人は入国させないためと、サミットが予定されていることを理由に特別ビサを出していない。これに反発した学者達が、世界 的に注目を集める思想家の来日を阻害することは国益に甚大な損害だとして、過去の罪状を政治犯罪として特別上陸許可を与えるように 鳩山法務大臣に求めている。上のピラミッド図を見ると法務大臣がアントニオ・ネグリにビザを出さない理由が分かる。

アメリカのイメージはかなりボロボロになったとはいえ、未だにこのピラミッド構造は現実である。日本の将来はアントニオ・ネグリの言わんとすることを謙虚 に理解してはめて保証されるような気がする。

Rev. February 12, 2013


2007年に読んだ丸谷才一、山崎正和の「日本史を読む」をリフォームの間、再読していたところたまたま総合知学会で井原氏の「自律分散 システムの思想と技術」という講演があった。これは聴けなかったが、これに触発されて歴史、ひいては人間社会の進歩について考えるところがあった。

人間社会の進歩というと更に前によんだスチュアート・カウフマンの「自己組織化と進化の論理」に思いが至る。

 


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