読書録

シリアル番号 821

書名

大砲と帆船 ヨーロッパの世界制覇と技術革新

著者

C・M・チポラ

出版社

平凡社

ジャンル

歴史

発行日

1996/3/20第1刷

購入日

2006/12/7

評価

鎌倉図書館蔵

鋳鉄砲は安価ではあったがその脆性ゆえに青銅砲にかなわなかった。しかし砲の需要が増すにしたがい銅と錫の資源不足が顕著になった。

当時の銅の産地はハンガリー、チロル、ザクセン、ボヘミアで、錫の産地はイギリス、スペイン、ドイツであった。オランダが日本にやってくると日本が銅供給国となった。

ヘンリーVIIIのころウィリアム・バレット教区牧師を王立鉄工所の管理をするように任命した。バレットは二重炉をつかう有能な製鉄職人の親方ラルフ・ホッジなど得られるベストメンバーをそろえて信頼性の高い鋳鉄砲をつくりあげることに成功した。その秘密とはサセックスで得られる燐を含有し硫黄の少ない鉄鉱石を使って、ねずみ銑(grey cast iron)をつくり、安価な鋳型で鋳込み、時間をかけて徐冷する方法で信頼性の高い鋳鉄砲を完成させたのである。

砲口径を小さく砲身を長くしたのもその成功の一因であった。英国文化を特徴づける見かけを良くする装飾をしない実用的な設計も安くすることに貢献した。エリザベスI世は 敵に塩を贈る徹を踏むまいとして砲の輸出を認可制にした。

英国に続きオランダ、スエーデン、ドイツが鋳鉄砲をまねした。

地中海では軍用船はオールでこぐガレー船が主力であったが、大西洋では丸型の帆船が次第に有利となる。1501年にフランスでハルに砲門(ポート)を切り、主甲板にも沢山の砲を搭載し、かつ船の重心を下げることに成功した。スペインでガレー船のラインを参考にしたガレオン船が登場する。イギリスとオランダが即これを採用。地中海の人はガレー船に固執して遅れをとる。こうしてレパントの海戦後ベネツィアは没落する。スペインも接舷移乗戦術に固執して1588年のアルマーダの敗北に至る。

結局、ガレオン船と大砲のコンビネーションがヨーロッパがアジアを植民地化したパワーの基となった。こうしたヨーロッパの海上覇権は海の上でのみ有効で陸に上がったら全く地元の武力にかなうものではなかった。オスマントルコに押される一方であったことがなによりの証拠である。それは大砲は重く機動性がなかったため、大勢の騎馬軍団に太刀打ちできなかったからである。

このロジックを演繹すれば米国も海上と空の覇権を握っているだけで、陸の国イラクで動きが取れなくなったことの意味が分かる。 パパ・ブッシュはこのことを理解し、息子は理解できなかったということだろう。


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