読書録

シリアル番号 735

書名

八甲田山死の彷徨

著者

新田次郎

出版社

新潮社

ジャンル

小説

発行日

1971/9/20発行
1977/6/20第50刷

購入日

2005/12/12

評価

鎌倉図書館蔵

藤原正彦著「国家の品格」を読んで、著者の父君の新田次郎の作品を読みたくなって借りた。読み始めると一気に読破。

母君の藤原ていの「流れる星は生きている」(中公文庫)は名作で新田次郎に筆を取らせるキッカケになった本だという。

日露戦争を前にして、冬季行軍訓練として青森の第八師団は青森にある五聯隊と弘前にある三十一聯隊に八甲田山冬の行軍を競わせる。結果は三十一聯隊は全員生還したのに、五聯隊は遭難し210名中、11名しか生還しなかった。

なぜそうなったかがこの小説のテーマである。

そもそも明治35年1月25日には高気圧が北海道の上に居座り、放射冷却で-41℃を記録し、この日本記録はいまだに更新されていない。そのくらい寒かった。八甲田では-20℃くらいだったろう。これに加え23日には八甲田あたりを低気圧が通過し暴風雪が吹き荒れた。

遭難した五聯隊はこの23-25日にちょうど遭難地点の鳴沢、按ノ木森山、馬立場、賽ノ河原、大滝平の凹凸のある標高は700m位の広大な尾根で3日間も彷徨したのだ。

後藤房之助伍長

生死を分けた差はリーダーシップの差にある。

生還した三十一聯隊は計画立案、人選、指揮を岩手山雪中行軍の経験の福島大尉に完全にゆだねた。福島大尉は自らの経験に基づき十和田湖周りの反時計周りの 11日間の行程を組み 、平地で寒冷地訓練が終わってから山地に入るコース取りをした。メンバーは主として士官と下士官からなる38名の少数精鋭部隊とし、所持品は銃以外は一日 の食料のみとし、 野営はせず、全て民宿、食事は現地調達とした。また必ず現地の案内人を立てた。この方針を上司に飲ませて出発するのである。20日に出発し、嵐が吹き荒 れ、寒冷が厳しかった23-25日が来る前に1,000mの白地山越え十和田湖 湖畔の銀山に到着している。寒さ厳しい23日は銀山から宇樽部まで湖畔のみ。24日は宇樽部の主婦、「さわ女」を案内人として850mの犬吠峠(アグリ 峠)越をしている。中里では民家に宿泊せず野営の訓練までしている。25日は中里から三本木(現十和田市)まで平坦な道の行軍である。そして三本木で十分 な休養を取った。その後全滅した五聯隊の遺体を見ながら行進するのだ。

殆ど全滅した五聯隊はリーダーに指名した平民出の大尉神成文吉を上官の山口大隊長が信用していなかった。山口大隊長が冬山を知っていれば問題は無かったの かもしれないが、冬山を知らない大尉が福島大尉から教わった少数精鋭で行軍する計画をあっさり却下してしまった。結果として大量の荷物を橇にのせ、中隊規 模の210名の兵を連れて寒冷にたいする心構えもない中、 いきなり山地に踏み入れるのである。あまつさえ大隊長自らスタッフを連れて行軍に参加し、途中から口を挟み始め、結果として指揮権を中隊長の大尉より奪う ようになった。決定も合議制を採用し、衆愚制となり、中隊長の地元案内人の起用、橇の放棄、撤退の進言を全て退け、大尉のコース案内にすら口を挟み、自滅 してゆくのである。3日間の雪嵐の中の彷徨により、兵は凍死し、中隊長もついに力尽きて死にいたる。山口大隊長は兵に守られた故に奇跡的に生還するが、自 らの犯した誤りにようやく気が付き、妻の差し入れたピストルで自決する。生き残った兵は全て、炭焼きなどの経験者であったそうで、炭焼き小屋などに自発的 に非難して助かった。あやまてる命令に従ったものは命を落としたのである。

1977年、「八甲田山」として映画化される。三國連太郎がダメ指揮官の山田少佐(実モデルは山口少佐)を演じている。

それにしても、最近の日本はリーダー失格の山口中隊長に率いられ、殆ど全滅した五聯隊のように見える。

Rev. July 22, 2013


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