旧東海道

サイクリング

娘が6年使って不要となったブリヂストンの電動アシスト付自転車を 処分したいがほしいかと聞いてきた。
東海道は自宅から歩きだして、一日かけて箱根のふもとの飯 泉観音まで35km歩いたことがある、 いつか東海道を品川から藤沢まで歩いてみようと思っていた。ならばちょうど良い、もらった自転車をサイクリングしながら自宅に運ぶことを思い立った。いま だ平地走行28kmは使えるとい う、そこでバッテリーは青木橋後の神奈川の台の坂、保土ヶ谷の権太坂、戸塚から原宿にかけての大坂、最後の七里ヶ浜の坂の4つの坂を登るためにのみ使うこ とにして平地はスイッチを切って走る。ついで に途中、空間 放射線量も測定した。

旧東海道のルートは旧東海 道の「今・昔」を参考にした。品川から鎌倉高校前駅まで49.2kmである。6時間28分かかった。昼食と休みを除いて5時間走行した とすれば走行速度は時速9.8kmということになる。

以下がその記録である。

2011/10/28、晴天 

場所 時刻 空間放射線量(microSv/h)
品川駅前 10:00 0.060
八ッ山橋 10:10 0.090
蒲田 11:11 0.084
六郷神社 11:30 0.100
多摩川 11:37 0.090
川崎 12:00 -
市場 12:30 0.070
鶴見川 12:36 0.046
生麦 12:55 0.056
良泉寺 13:18 0.090
浅間下 13:42 0.068
帷子橋 13:59 0.075
元町 14:32 0.079
元舞橋(舞岡) 15:33 0.073
戸塚 15:54 0.068
藤沢橋 16:28 0.042
七里ヶ浜 17:10 0.035

森永先生の指摘のとおり、川の上は多摩川を除き、概して放射線は低い。

サイクリング用のヘルメットがないため、工事用ヘルを使った。この格好は嫌われるスタイルである。川崎で蕎麦屋の増田屋の前の電柱に自転車の盗難防止ワイ ヤをかけ ている とき、若主人にいやな目で見られた。(客とわかると歓迎されたが)鶴見ではわが古巣の正門車寄せに黄色の三菱自動車製軽EVらしきものが停車しているのを 見つけ、敷地内にはいって車 寄せに近づいて確認したところ、ガードマンに誰何された。

途中渡った踏切は京急の八ッ山橋(やつやまばし)踏切と東海道の戸塚踏切である。階段付歩道橋など自転車用には設計されて いないなど自転車文化に関しては後進性がみられる。

八ッ山橋踏切を東南に見る方角は広重東海道五十三次之内「品川・日之出」 で品川宿の東の傍示杭のある地点である。

写真は浮世絵とは逆方向を写している。

浮世絵での右側の崖は東海道線などの建設のため切り崩さ れてすでにない。ただ旧東海道のすぐ左側は一段と下がってかってはそこが海岸線であったことをうかがわせる。いまでも高浜運河がまじかに迫っている。その 先の埋め立て地が天王洲である。

旧東海道は車道も歩道も同じレベルで自転車天国となっている。

目黒川を渡る品川橋のたもとに赤い欄干の荏 原神社がある。さらに南下すると浜川橋がある。別 名涙橋とも呼ばれる。品川のお仕置場(鈴ヶ森刑場)で処刑される罪人と見送る親族がここで別れたからという。

八百屋お七ら10万人が処刑されたという鈴ヶ森刑場跡には南無妙法蓮華経と刻んだ巨大な供養塔がある。

大井競馬場はこの東側にある。

第一京浜と合流し、平和島で旧道に入る。大森で再び第一京浜に合流。産業道路に入らぬよう、注意が必要。

京浜蒲田駅は立体交差の大工事中であった。

さらに南下してかって4番目の一里塚があったという六郷神社に到着。一里塚は姿を消している。


旧街道は六郷の渡しで多摩川を渡った。ここは広重東海道五十三次之内「川崎・六郷渡舟」 に描かれている。写真は浮世絵とは逆方向を写している。今は新六郷橋歩道橋で多摩川を渡る。

歩道橋の階段を自転車抱えて登るのは大変と車道を走る。省エネ のための自転車を考えていない古い設計 思想 だ。零細ゴミ収集業者がやはり車道を荷物を載せた台車を押して渡っている。イギリスと違い、トラックが避けてくれない。至近距離を走り抜けるし、そのまま 行くと川崎側の旧街道を越して先に行ってしまう。川崎側には階段はなさそうだと途中で無理をして欄干を超えて歩道橋に入る。ブリヂストンの電動アシスト付 自転車は頑丈なつくりだが。バイ クのように重い。

写真は川崎側から撮影したものだが、階段なしに土手の上に接続していることがわかる。川崎の土手上には東海道を見物する一団が案内人の説 明を受けていた。どうも高度成長期を支えた日本人は主体性なく、群れたがる。

川崎宿に3つあったという本陣の一つ田中本陣跡というのがあった。田中本陣の経営を引き継いだ田中休愚が幕府とかけあって六郷の渡しの運営を任されたた め、渡船賃の収益も得て宿場経営が楽になったという言い伝えもある。幕府財政に関して論じた「民間省要」が評価され、享保の改革を支える代官に登用された という。しかし幕末には荒廃し、タウンゼント・ハリスが田中本陣が荒廃しているのを見て万年屋にかえたという逸話が残る。

増田屋で天重の昼食をとる。

八丁畷(はっちょうなわて)を過ぎると熊野神社がある。この先200mに5番目の一里塚があったことを示す石碑があるとい うが見落とした。
鶴見川を渡ってかっての古巣の前を通過。鶴見線の国道駅をくぐったところに天麩羅屋の天金がまだ頑張って店を張っている。

旧街道はキリンビール横浜工場前を通過して第一京浜に合流する。この合流地点にに1862年9月14日の生麦事件の碑が立っているはずだが道路工事のため 見つからない。何のための道路工事かといぶかったが、目下工事中の生麦JCTと第三京浜の港北ICを結ぶ横浜環状北線の生麦JCTらしい。港北ICと東名 の横浜青葉ICを結ぶ横浜環状北西線も2011年予算化された。

第一京浜を行くと東神奈川に良泉字という寺がある。開港閉じ領事館にされないように住職が本堂の屋根をはがして修理中であるとして幕府の命 令を拒んだという。

東神奈川駅を過ぎたところに宗興寺という寺があるが、ここはジェームス・カーティス・ヘボンが1859年10月17日に横浜に到着して施療所を設けて医療 活動を開始したところだ。生麦事件のときマーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、青木橋脇にあるにある当時、アメリカ領事館として使われてい た本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。

青木橋を渡り、第二京浜を横断すると広重東海道五十三次之内「神奈川・台之景」 に描かれた坂道の上りになる。浮世絵ではほぼ西に向かって描いている。そしてこの坂道の左手は海だが、いまでは横浜駅西口のビル街になっている。その海の 向こうにある2つの断崖を伴う岬はど こだろうか。地形的には旧東海道の北西にある北軽井沢、南軽井沢のある台地だが。その左手の遠方の高まりは横浜の山手町の丘陵地帯かもしれない。もしそう なら角度にして60度もデフォルメしていることになる。


帷子川にかかる天王橋を渡り、相鉄線の天王寺駅をくぐって南側広場に出ると旧帷子橋跡がある。

広重東海道 五十三次之内「保 土ヶ谷・新町橋」に描かれた帷子橋があったところである。写真は浮世絵とは逆方向を写している。

蛇行する帷子川の付け替えで橋は消えてしまって広 場となっている。

保土ヶ谷は海にそそぐ今井川が作った谷底にある。この谷を西に向かうと谷が狭くなり、やがて元町というと ころに至る。保 土ヶ谷宿が新町に移設されるまで保土ヶ谷宿があったところだという。

ここから左折し、今井川を渡って権太坂の上りになる。バッテリーのスイッチオンとして上る。

権太坂の石柱の写真は1999年 にジープで訪問したとき撮影したものである。


境木地蔵尊前で左折して狭い道を行くと両側に小高い土盛りがある。これは品濃(しなの)一 里塚といい。日本橋から9番目である。

ここから尾根の上の道は気持ちがよい。

平戸小手前で急坂を下り、環状2号にでる。環状2号を越える歩道橋はあるが自転車は中央分離帯があって渡れない。坂の上下どちらかの交差点まで迂回 しなくてはならない。


川上川にそって旧東海道を下 り、東海道を横断し、あくまで旧街道にこだわる。赤関橋でも東海道に入らず頑張ってゆくとやがて東海道に合流する。

不動坂から再び旧道を行くが舞岡入口で ついに東海道と合流。吉田大橋で柏尾川を渡る。ここが広重東海道五十三次之内「戸塚・元町別道」の 旅籠「こめや」の場面である。写真は浮世絵とは同方向を写している。別道とはここから鎌倉にゆく道である。

戸塚駅周辺は再開発されてきれいになったが、駅北側の踏切は昔のままだ。周辺には日立工場やブリジストン の工場があるが立体交差にする気もないらしい。国土計画としては不思議な現象だ。

大阪下から上りにかかる。バッテリースイッチオンで登りきる。交通が激しいところだ。歩道は閑散としているため、ほとんど歩道を走らせてもらう。

原宿交 差点手前の高所に原宿の一里塚跡があった。

原宿交差点はようやく立体交差工事が完成近かった。



遊行寺に下る。遊行寺坂にも一里塚があるらしいが、気が付かず藤沢橋に到着。これで今回の東海道サイクリングは完結した。

あとは江の島経由帰宅。バッテリー残量は20%だがこれで自宅までの最後の坂を上りきる。



広 重画東海道五十三次之内藤沢(遊行寺)

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October 31, 2011

Rev. July 14, 2014


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