史観について

最近の社会現象につき、グリーンウッド氏かっての職場仲間をメンバーとする非公開のラウンドテーブル21(一種の掲示板)に投稿した雑感と対話録イラク人質事件 続のつづきです。


安田喜憲著「文明の環境史観」について

ウエストフィールドさん、

この1週間旅をしていました。金沢の奥座敷、湯湧温泉にでかけそこから五箇山、白川郷、飛騨高山、安房峠、戸倉温泉、車山を3日かけてバイクで走破してきました。

さて安田氏の新著のご紹介ありがとうございます。このなかで「日本人の欲望が深くないことを意味している」とか「インド・ヨーロッパ語族や漢民族の人々と接して感じることは、彼らの体力の強靱さである。そして尽きることのない欲望の深さである」などと書いているようですが、この考え方は自分の属する集団以外はすべてバーバリアンだという 「華夷の別」的見解で どの民族も持っているものではないでしょうか?

私は我が民族も結構欲望が深く、体力は強靭だとおもいますが。戦後は内陸志向がつよまり、平和ボケで元気がないようにみえますが、明治から昭和初期までの海洋志向の時代をみれば元気だったではありませんか。日本人も欲が深いのは政治家が年金の掛け金を支払っていないことからも証明されているのではないでしょうか?娘を助けるために自衛隊を引き上げよと叫んだ元気なオバサンやオネエサンもいましたよ。アメリカ人以上に強靭な人ではないでしょうか?

西尾幹二の名前がでて初めて安田氏のスタンスがわかりました。新しい歴史を作る会という右翼的な学者集団ではないですか。これでなぜ私が安田氏の考え方にしっくりしない感じをもったかわかりました。

グリーンウッド

 

 

ヨーロッパとキリスト教

パイントリーさん、まえじさん、

岡本太郎が「大きな硬い岩を、大勢の職人がこつこつと刻んで、何十年もかかって作るエネルギーは、我々日本人の想像を絶するものがある。それは、われわれ日本人には想像できない「巨大な権力と富の集積」があったからできたのだ」と語った言葉からヨーロッパと日本の差は「個々の人々の体力の差」ではなくて、「社会の体力の差ー集積された権力と富の差」との結論をだされたようですが、日本でも古墳時代、巨大な墳墓が築かれます。これも「社会の体力の差ー集積された権力と富の差」がなくてはできないものでしょう。集団となっても基本的に差はないのではないかと思います。

私がヨーロッパ人と比較して個人の体力の差を感じたのは1回だけです。ダス島で顧客のヨットクラブメンバーになり、丸1日パンツ1枚で一緒にセーリングし、ビールをガブ飲みした夜、日焼けの後遺症で一晩一睡もできなかったことがあります。白人は紫外線に弱いので、やつらもかなり苦しんだはずと翌朝会うと、元気はつらつ。どうなっているのかと思いました。まあかれらはコントラクタに苦労させて遊んでいるようなものだから、遊びで燃焼させないと精神的にもたないのだと自ら慰めたものでした。

集団の元気さはリーダーの元気さによってきまりますので、元気なリーダーが出てくる社会的なメカニズムがどうなっているかということではないでしょうか?

グリーンウッド

 

 

パイントリーさん、

岡本太郎の話で思い出したことがあります。スペインのサクラダ・ファミリア教会のガウディが造った右翼の未完の石像は日本人の石工1人が担当して伝統様式に従い完成させています。左翼の石像はスペイン人1人が担当し、かなり前衛的に仕上がっています。というわけで、石像を彫るのは時間さえあれば一人でもかなりのことができるということが実感できます。そしてヨーロッパの石造の教会は400年という歳月をかけて浄財を集めてコツコツ造るのです。完成したものを見る日本人は驚きますが、ただただ継続は力なりと営々と築いているわけではないでしょうか?

一方日本式の木造はそんなことをしていたら木部が腐ってしまいますので大勢の大工を集めて一挙に棟上して屋根まで葺いてしまいます。このほうが大きな動員力が必要となります。

日本は木材資源にめぐまれていますので、家屋は木造。伊勢神宮も20年毎に建替え、一般人も金に余裕のある人は1生に2度新築している感じです。どんないよい家でも無価値評価で買い換えた時、築後5年でも壊して同じようなぼろ屋を再建してます。そのまま使ったほうが長持ちするのではないかと思っても壊しています。どうも人々は家は新築するものという固定観念に縛られているような気がします。発想の転換ができないのは面白い現象だと思っています。というわけで我が町も私の築後25年の家を除き、80%は建替えられています。フローとしてはすごいエネルギーです。欧米はレンガでストックしてゆきますので一見ものすごいエネルギーに感じますが、長年の時が蓄積したものを見ているだけでフローとしては同じようなものではないでしょうか?

グリーンウッド

 

 

パイントリーさん、

「ヨーロッパの石造の教会は一神教の力」によるものかどうかという設問ですが、直接の因果関係はないのではないでしょうか?多神教時代のローマの壮大な建造物をみればわかります。イタリアは地中海性気候の中にあり、木材資源に恵まれず、一方加工しやすい石灰石は簡単に手にはいったので木を加工する気分で石を加工できたわけですよね。

ローマの全盛時代は多神教だったわけで、キリスト教がヨーロッパの勃興の原因だったという説はあまり妥当ではないのではないでしょうか?むしろネガティブな面が多かったのではないかとおもいます。近代ヨーロッパはこの宗教の束縛からいかに逃れるかとう苦悩から生まれたといっても良いような気がします。

ギリシア・ローマの繁栄の中心だった地中海の制海権がルーツが同じイスラムに奪取されていた中世の辛い時代、キリスト教がヨーロッパの精神的支えになり、文化的統一の支柱になったという消極的な意味でそうでしょう。しかし、ヨーロッパの勃興は1571年10月7日のレパントの海戦を機にヨーロッパが地中海の制海権をイスラムよりとりもどしたことが契機になっているというブローデルの説がより説得力があります。塩野七生もこの説です。ヨーロッパのパワーパワーポリティックスはこのイスラムとの抗争で鍛えられたのではないかと思えます。英国が回教国だったムガール帝国を解体して回教徒をパキスタンとバングラデシュに追い出したのもイベリア半島から回教徒を追いだした延長上にあるとかんがられます。そしてその流れはまだ継続していて、米国が代表となって中近東でイスラムと対峙しているのは偶然ではなく、レパントの海戦以降継続している流れとみればすべてうなずけます。パレスチナ人はイスラエルの地を完全にうしなうことだってありえるのではないかという疑念が湧きます。

グリーンウッド

 

 

海洋史観

パイントリーさん、

戦後の日本の歴史教科書は自虐史観に立っている。これを是正するためとして「新しい歴史を作る会」を結成して大キャンペーンを展開している右派の西尾幹二氏や左派の網野喜彦の史観とはどういうものかインターネットで調べているうちに、岡田英弘氏の展開する史観を、自分に都合のよいところだけを、岡田氏の名前を伏せて引用し、手前ミソの観念論を展開しているのが許せないと憤慨しているあるウェブサイトを読みました。西尾幹二氏は体系性のない知識の羅列を都合よく組み立てて自己中な観念論をいるにすぎないという人もいました。

今日久しぶりに近くの鎌倉図書館にでかけて杉山氏の「遊牧民から見た世界史 民族も国境もこえて」を拾い読みしました。前に杉山氏の「クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道」を読んでいます。

杉山氏の本はユーラシア大陸の中心から見た世界史を遊牧民族が残した少ない歴史資料をもとに再構築したもので西洋・東洋史日本史のそれぞれタコツボ内での見方から解放してくれる好著と思います。氏の言葉で印象的な部分は歴史は軍事力によって決まる。西洋が海に乗り出す前の「陸の時代」にはモンゴルの「騎射の時代」でコロンブスにはじまる「海の時代」は「火器の時代」と喝破しております。

リヒトホーフェンが言い出したシルクロードという言葉は点と線によって西と東がかろうじてつながっていたというあやまてる史観をもたらしたが、モンゴル時代は面でユーラシア大陸が統合されていたという新解釈をまぶしく感じました。氏によれば西洋が強いというイメージも不当に拡大されていて、海の時代に西洋が征服できたのは南北アメリカ大陸とオセアニアだけで、アジアは征服できていない。

こうしてできた米国は世界最強の軍事力を持つに到ったが、いつ内部崩壊してもおかしくはないという予感を杉山氏は語っております。じつはアメリカこそが今後の世界の不安要因だという危惧は最近のガタの来た米国をみていると納得させるものではないでしょうか?まえにもご紹介した「1421 中国が新大陸を発見した年」という英国の元潜水艦艦長の仮説も出て、歴史が面白くなってきました。

同時に川勝平太の「文明の海洋史観」という本も借りてきました。これも大変面白そうなことが書いてあります。

 

 

ウエストフィールドさん、

にしのさんが感銘を受けた川勝氏の「文明の海洋史観」今読み始めたばかりです。川勝氏も西洋の成功は軍事への傾斜にあるとする趣旨のことが書いてありました。この説は説得力があります。私もキリスト教が西洋の成功とは直接関係はないと思うのです。一神教が出るまえの世界帝国、モンゴル帝国を見てもキリスト教の影響は全くないからです。ただキリスト教の神と個との関係から発する断固たるリーダーシップ、所有権、勤勉を尊ぶプロテスタンティズムの倫理などは西洋の成功と間接的な関係はあるかもしれません。まだ全部読んでませんので分かりませんが、川勝氏の史観はかなり過激でユニークな問題提起と思ってます。

さて私が「自分の属する集団以外はすべてバーバリアン」といったのは杉山氏がいう「華夷の別」とおなじことで「中華」に対し「夷荻」、中央にたいする外側という二元世界のイメージのことです。だれでも生きてゆくための本能として自尊心は持っております。これを自分の属する集団にまで拡大することも自然です。しかし歴史家が自分が現在持つ価値観を過去に逆投影して、価値づけや評価を行なうと、サイエンスとしての客観性と実証性を失い、学問としてははなはだ危険なことで、単なるデマゴーグと化すのではないでしょうか。西尾幹二氏はこの歴史家がしてはならないことをしているのではと危惧したため、あえて書かせてもらったわけです。安田氏もこの陥穽に落ち込んでいるようにおもいますが。

グリーンウッド

 

 

ウエストフィールドさん、

Nさんのおっしゃるとおり、歴史など人文科学がサイエンスになりうるかという疑問が大いにあります。残されている文献資料と考古学資料だけから、推察するだけで、再現実験は不可能だからです。でも歴史資料が書かれた時代のフィルターをリエンジニアリングして除去し、真相解明の謎解きのロジックを展開してゆく作業は結構サイエンスの仮説のようにおもしろい。依然真相はヤブのなかでしょうが。経済学も歴史もこれが真実という説が世に溢れていますが、どれが本当らしく、どれが間違っているか自分の判断を加えて読み解く楽しさがあります。

杉山氏はヘロドトスの「歴史」(ヒストリア)が描くスキタイとペルシャのダレイオス王の関係と司馬遷の史記がビビッドに描く、劉邦と匈奴の白登山の戦いにおける劉邦の体たらくな物語、そして武帝と匈奴との50年戦争から、自らの歴史を書き残さなかった遊牧民国家をキチット描いていて新鮮な驚きでした。

日本では「どの学説が有利かは力の論理で決まる」というように思われているかもしれませんが、ケインズだったか忘れましたが「権力はその時の思想の奴隷奴隷だ」というような趣旨のことを言っておりました。逆もまた真なりと私は思っております。

グリーンウッド

 

 

ウエストフィールドさん

Nさんが「教科書の書き換えなど真実が隠されつつあるように思います」と危惧しているまさにその改訂の旗を最も熱心に振っている人が西尾幹二氏と新聞報道などで理解しています。彼は現在の文部省の歴史教科書は自虐史観だといって、これにかわる教科書を自ら書いています。この疑惑報道をしているのは唯物史観に骨の隋まで浸っている東大系の朝日新聞のため、注意は必要とおもいますが。文部省もこれを認定し、一部の人々、一部の教育委員会はこれを熱烈に歓迎していると新聞報道されていたように記憶しております。若い人を洗脳して自分がよしとする方向に持ってゆきたいつよい意志をもった人ではないかと疑っているわけですが、直接氏の書いた教科書を読んだこともなく、多分不愉快になるだけでしょうから、これから読むつもりもありません。

グリーンウッド

May 20. 2004

Rev. October 30, 2007


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