市川先生の矛盾容認社会論に触発されて

グリーンウッド氏かっての職場仲間をメンバーとする非公開のラウンドテーブル21(一種の掲示板)に投稿した雑感と対話集です。


パイントリーさん、

ご指摘の市川先生の第1章を読ませてもらいました。http://homepage3.nifty.com/a-ichik/

さすが市川先生、よくまとめてあると感心しました。日本が矛盾容認社会であるとのご指摘はまったくそのとおりですがではなぜそうなのかとい点では小室直樹の指摘がするどいと感じますのでご紹介します。

「数学嫌いな人のための数学」という本に書いてあったのですが数学、経済学、法学を学んだ著者が縦横にその博識を披露して展開する論理学の本質をやさしく解説した本です。これを読んで日本(含アジア)と西洋の思考形態の決定的違いが鮮明になりました。グローバリゼーションの時代に世界に伍してゆかねばならないとき、日本人の必読の書とおもいました。

中国では論争は活発だが、しかしそれは西洋の論争とはちがう。いわゆる「揣摩(しま)の術」は論争で相手を追い詰めることはなくお説にしたがうようにしようという気を起させる術である。ではなぜこうなったか。インド・ギリシアの政治権力に独立に純粋に哲学を追求する階層を生んだが中国では思想家は常に政治権力者から独立ではありえなかった。というのです。その文化の影響下にある日本はいわんをやということのようです。

「揣摩(しま)の術」とは君主の心を見抜き、思いのままに操縦する術で、一種の弁論術です。司馬遷の「史記」張儀列伝第十にでてくる張儀(ちょうぎ)と蘇秦(そしん)が揣摩の術の達人として有名。合従連衡ということばもこの二人が成し遂げた偉業である。ただ彼らの弁論術は論理で相手を追い詰めることはしない。ここが政治権力に妨げられず、純粋に哲学を追求した階層があったインド・ギリシアの弁論術と異なる。中国最高の論理家韓非子は中国社会では何が正しいか正しくないか一義的にはきまらない、人間関係できまる、すなわちアリストテレスの形式論理学の基本法則を否定しております。日本の聖徳太子の十七条憲法の以和為貴も弁論術全体を否定しております。某社の社長が「和」と書いた手ぬぐいを役員に配ったことは忘れません。

アリストテレスの形式論理学(fomal logic)の基本法則とは。

「『正しい』と同時に『正しくない』はありえない・・・矛盾律 (the law of contradiction)

『正しい』と『正しくない』以外の第三の中間はありえない・・・排中律 (the law of excluded middles)

『正しいことは正しい』に決まっている・・・同一律 (the law of identity)
です。

二つの命題(文章)があって『両方とも正しいことはないが、両方とも正しくないことはありうる』このとき両命題は反対(contrariety)という 」

日本は有史以来、政治権力に独立に純粋に哲学を追求する階層を生んだことがないので無矛盾の理論も生むことなく、一神教も受け入れず、中途半端な妥協を生む土壌のままでなのでしょう。このような社会からは強いリーダーシップを生む理論は出てこないので環境の急変にはついてゆけず、適応するまでに時間がかかるのろまな社会ですが、多様性が残っているので、大破綻もない社会かもしれません。

グリーンウッド

 




パイントリーさん、

以前、私のHPで丸山真男が日本の軍国支配における無責任構造を描いて言ったことば

「日本のあらゆる組織の指導層は自ら状況に対する政策を決断する自由な主体ではなく、『非規定意識』しか持たない個人である。弱い精神しか持たないエリートは、空気に同調したことについて誰も責任をとろうとしない 」

を引用したらパイントリーさんが丸山真男の言っていることが好きだといわれました。
今、在日30年のオランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン著「日本/権力構造の謎 上下」原題:The Enigma of Japanese Power by Karel van Wolferenを読んで、丸山真男の言っていることの裏にはこういう認識もありうるのだとつくずく思いましたので紹介します。もしかしたらもう読まれているかもしれませんが。


カレル・ヴァン・ウォルフレンの本は1996年に「民は愚かに保て」と「日本の知識人へ」を読んで大変感銘をうけたので今回図書館から借りてきたものです。「日本/権力構造の謎」は1988年に英文で書き下ろされ、1990年にはペーパーバック本となり、日本語に翻訳されて1994年には文庫本になっていましたが、いまだ読んではいませんでした。この本によりウォルフレンはクライド・プレストウィッツ、ジェームズ・ファローズ、ロバート・ネフと共にレビジョニスト4人組とよばれているそうです。

この本を一言で要約すれば;

「日本の権力は、自律的でかつ、なかば相互依存的な多数の組織に分散されていて、それらは主権者としての選挙民に対して責任を明確にすることもなければ、互いの組織の間に究極的な支配関係もない。政府のさまざまな活動に、このような組織すべてが関わっているが、ある組織が他の組織に命令を下すことはありえない。どの組織ひとつとってみても、国の政策の最終責任をとったり、緊急を要する国家問題について決定するだけの力はない。

しかし日本は、たとえばアメリカ社会のような、おびただしい数の協議会や政府機関、委員会、裁判所などに権力が分散された社会とはちがう。アメリカの場合、どれだけの数の機関があっても、指令の流れる明確な経路があるし、逆に国民はその経路をたどって中心まで自分達の意志を伝え、政策を作らせたり実施させたりすることもできる。日本はまた非常に強い利益団体が政治中心の権力をそいでしまっているという点で、西欧の社会とも違う。というのはヨーロッパの政府の閣議は、政策のイニシャチブを取るし、究極的に、決定も下す。日本ではさまざまな、統治グループが、だれに支配されることもなく存在している。

たとえば日本人は満州国を「われわれの植民地」だったとは思っていない。それは陸軍の植民地だったとおもうからである」

丸山真男氏が。「弱い精神しか持たないエリート」と非難してますが、日本人みなそう思うようなシステムになっているようです。

「日本には責任の所在が明確な国家は存在せず、システム、すなわち民主的な政治の調整力の範囲を超える権力機構が存在するということになる。このシステムはそれに参加している日本人ですら概念的にとらえることもできず、変えることもできず、意識すらされない。それどころか法に照らしても正当性がない。

どうしてこうなったかというと日本の権力保持者は、これまで何世紀にもわたり、自分を脅かしうる集団を無力化するというワザに磨きをかけてきたためである。藤原氏、北条家、豊臣秀吉、徳川家康、明治の寡頭政治家みなそうである 」

となります。ということは小泉氏に大きな期待はできないということになります。
日本には西洋人が定義する責任をとるセンターをもった国家でないのでなんとなく今後も漂流するようですね。

グリーンウッド

 



パイントリーさん、

宝剣岳から空木岳まで中央アルプス主脈縦走に3日間出かけ、引きつづきフィオレンツァ・コッソットが歌うベルディーのトロバトーレ(吟遊詩人)を観劇しにオーチャード・ホールに出かけて時間がなく、返事が遅れました。

カレル・ヴァン・ウォルフレンはむろん「官僚主導政治」とか「お上依存社会組織」について沢山言及してますが、彼がいいたいのはもっと深く、我々日本の歴史が我々も含む日本人全体に与えた、矛盾を意に介しない、ホンネとタテマエを使い分ける意識に全てのルーツがあるように言っております。官僚すらホンネの省益に埋もれ、企業人もそれぞれの派閥のホンネの利益に埋もれ、グループ毎の利害を調整する機構は働かず、押し合いへし合いしながら、血は流さないようにタテマエでごまかしているだけの社会としてます。これでは話し合いによる合理的解決は不可能で有機的に連結している国家の体をなしていないと言い切っています。アジアも日本に近いが、西欧を中心とする社会は矛盾をなくするように発展してきただけで、今のままの日本には将来はないように感じます。

石原知事が誤解を生みつつも喝采を博しているのはホンネをいうからで、マスコミもようやくこういう失言癖政治家を深追いしなくなったかなとも感じますがどうでしょうか。日本にまともな野党がなかったのですが、ようやく菅さんと小澤氏の野合で、少しまともな政策がでてきたなとうれしく思ってます。かなりカレル・ヴァン・ウォルフレンの見方が浸透してきたなと感じます。

カレル・ヴァン・ウォルフレンによれば事務次官会議はそれぞれの省益を表明する場で、ここでは決して妥協はなされないそうです。強い政治家が調整することになってますが、明治政府の作った法律で政治家は官僚の人事権がないので、政治家の権力は小さく、たいした調整はできない。結局、事務次官会議で決議したものを承認するのが閣議ということだそうです。小泉さんになっても何もできない理由がここにあります。首相が法的に持っている権力は議会の解散権だけだそうです。

石原さんももっとはっきりものをいったほうがよいのではないかとおもいます。菅さんは東工大出の技術系ではないですか。永らくろくでもない文系に牛耳られてきた日本を立て直す役を彼に与えたいと思っているものです。小泉さんのこれまでの努力は多としますが、自民党はもうダメではないのですか?小泉さん。

グリーンウッド




パイントリーさん・ウエストフィールドさん、

「日本/権力構造の謎」は1988年に英文で発表されたので14年以上前の日本を描いています。カレル・ヴァン・ウォルフレン自身もその後変わったというので確かに変わりつつあるのだとおもいます。

しかしこの古い本を読んでいると根っこのところで根深いものがあるような気がします。米国など時の政府の採用した政策の半分は間違いでしょう。でもその政権は責任をとらされて結局政権交代させられています。ところが日本では失敗した政策をとった政党がそのまま居座ってよいと思っている国民の意識はどうなっているのかとおもいます。ただただおねだりする対象と思っているのでしょうか。自分が支払った税金なのに、どこか天から降ってくるとでも思っているのでしょうか。責任なんてとってもらう必要もないとどこで思ってしまったのでしょうか。

今日、旧日本真空(ULVAC)の社長を務めた 林氏と酒を飲みながら政局について雑談しましたが「80歳近くなると、米国のような急速に変化する社会などになってほしくない。日本はこれでよいのだ。デフレから脱してインフレになるのなど真っ平」と言われてしまいました。

グリーンウッド



まえじまさん、

まえじまさんの「日本の歴史でみると、時代の変わり目、例えば、王朝貴族〜武士への鎌倉時代初期とか、戦国時代〜信長の天下統一とか、幕末〜明治維新とかはホンネが強く、社会が安定・老化・固化してくるとタテマエが優先してくるように思う」という見方はその通りでしょう。

鈴木満男著、「日本人は台湾で何をしたのか―知られざる台湾の現代史」なる本は読んでいませんが、1947年に蒋介石軍が台湾で行なった二・二八事件の生き残りの台湾のタクシー運転手が日本統治時代を大変高く評価しているのを聞き察しておりました。日本の後から台湾にはいってきた蒋介石政権との対比でいっそう好感度が増したと思われます。韓国人が日本を恨むのは独立後の政権がことさら日本敵視をして人民を操縦したことも一因だと感じてます。

欧米の植民地化政策が悪かったのはその通りですが、経済の冷酷な現実は比較優位の原理が働き、仮に植民地化がなくとも一旦、貿易がはじまれば結果は似たものになるわけです。日本は欧米から一番遠くにいてリカバリーショットできる時間的余裕があったにすぎないのではとおもってます。

市川先生によれば「日本は矛盾寛容社会」であり、これが是か否かという点に関してはウォルフレンはつぎのように言っています。

「日本は矛盾寛容社会だったからこそ戦後の経済的な奇跡を達成できた。

矛盾を目前にしての精神的な麻痺、つまり矛盾を知覚すらしないという状況がある。そのおかげで特権階級はそれ以外の人々にたいして思い通り力を行使できる。日本の典型的な状況に存在する服従と支配の力学は、実際には理不尽でありながら同時に表向きは理に適っているかのように見せることと密接に関わっている」

さてまえじまさんは「あまり日本をいじめないで」といってますが、矛盾寛容社会に関するウォルフレンの巻末のまとめと提言をご紹介させてください。

「本書のなかでは一貫して、日本の一般国民の秩序を保つための巨大な統治機構、”システム”を預かる日本の権力者について見てきた。しかし、国際関係から見た日本に視点をあてると、アドミニストレーターも結局のところ被害者であることは明らかだ。彼らは前任者が作り出した環境の産物であり、慣例から逸れた議論は歓迎されない。想像力に乏しいまま、そこに縛りつけられている彼らこそ、ほんとうの意味で”システム”の奴隷である。権力を行使していないという彼らのみせかけと、権力を制御するための普遍的に認められたルールの必要性の否認と、そこから生じるあいまいな指導権という問題・・・いうなれば彼らは、徳川幕府と明治の寡頭政治の先輩たちから受け継いだ自己欺瞞の犠牲者なのである。

アドミニストレーターたちは相互扶助の上に栄える複雑な人間関係を育てあげてきた。そして彼らの重要な職務は法律と裁判所が社会を規制する最強の力にとならぬよう、制御しあう互いの関係やルールを非公式に維持しておくことであった。保身を目的として彼らは、手の込んだ理屈づけをして実際に<システム>を制御する権力の存在を否定し、すべてを日本文化ゆえの自然の成り行きと説明する。社会を規律のもとに完全に統制するというプロシャ的考えと、社会秩序の乱れに対する極度の恐れは共に初期のアドミニストレーターから受け継いだのだが、両者は彼らの動きに制限を加えるものである。欧米諸国においては、政治家や官僚や知識人は理論的な議論や知的な警告、本格的な政治討論をおこなって、政治体制がそれに相当程度反応するという利点があるが、日本のアドミニストレーターはその利点を享受できない。筆者が知っている欧米諸国の政治家や官僚や知識人のうちの一部は”システム”が事実上だれにも制御されていないことに気づくと恐怖を覚えるようである。

最後に、もっとも重要な質問がある・・・この状況を変えることができるであろうか?理論的にはイエスである。

理想的には、どうすればよいだろうか?手始めに東大を廃校にする必要があろう。そのほかには、法体系および政党制に基本的改革を起こさねばならない。多数の大学に法学部を設け、アドミニストレーターの専断から身を守る手段を個々の日本人に可能にする弁護士を養成する必要があろう。最高裁事務総局から、国の司法制度および法曹界入りを支配する力を取り上げ、法律家の数を人為的に制限するのを止めさせる必要があろう。学校および報道機関は会社などの組織に属することが重要だと強調し過ぎるのを止める一方、国民一人一人の政治意識と政治に対する責任感の涵養に努めなければならないだろう。これら全てが、人脈関係にかわって法的規制を確立し”システム”の非公式性にかわって法によって保証された手続き過程を確立する推進力となる。

日弁連や市民による教育制度審議会などの団体の存在は日本人も真の市民になり、自らもそう考える能力のあることが判る。しかし、不幸なことに、これまでの経験からすると楽観主義をとることはむずかしいといわねばならない。”システム”を導く、支配的で神聖不可侵の目的があるとすれば、それは”システム”自体の存続である。つまり現在のアドミニストレーター群の存続である。この目的があやまって日本の存続と同一視されている。国家的優先事項についての政治的討議を欠き、議会によるチェックアンドバランスが欠け、紛争を解決するための法体系がないことは、いつでも顔をのぞかせている日本主義強化の危険性を増大させる。

やがてそれは、救国という極端な感情の再出現へとつながることになりかねない。そのようなことになれば、おそらく過去と同じく、この国はさらに深刻な災難への道ををたどるであろう。敵対的な世界との対決というせっぱつまった感情が、ふたたび日本の”システム”に異変を起こす可能性があることを考えておくべきだ。このような発作が起これば、ある特定の意を決したものの集団が権力を掌中に集め、この国の新しい進路を密かに図るとも考えられる。そうなったら成り行きはまったく予想不可能である。

だがもっとも可能性の高いのは、西側世界、ことにアメリカと、なんらかの暫定的妥協を図り”システム”がなんとかお茶を濁しながら生きつづける形であろう。しかしこの場合には、欧米諸国の政府側の賢明な政策が必要となる。

”システムが真の近代国家になり、日本の国民が市民に変わるという素晴らしいシナリオを達成するには、正真正銘の革命にも等しい権力の再編成が必要である」


すなわち矛盾是認社会は欺瞞に満ち溢れ、不安定で非常に危険な存在であるとのご宣託です。プラトンがその著「国家」で「人間の魂は洞窟の壁に面して座らせられて後を振り返れない囚人だ。背後の天井にイデアの光源があって、そこで演じられる人形劇の影が壁面に躍り、囚人はその影絵を眺めているにすぎない」と書きましたが、日本人は<システム>が照らす影を見させられていたに過ぎないかもしれません。日本は二等国という位置付けですね。これがレビジョニストの意見であり、欧米の指導層が読んでいる文書です。みなさんはどう思いますか。もしこの見方に怒りを感ずるならあなたはすでにアドミニストレーターの構成員であり、危険人物の一人の可能性ありということになりますが。

グリーンウッド




パイントリーさん、

だいぶまえのこまつさんの「今朝の「日経」に、「民主党のマニフェストに、閣議にかける内容を事前に決めている事務次官会議を廃止する」と書いてありました。まさに、官僚主導政治ですね。でも、「廃止」して政治は出来るんでしょうかね。ちゃんと、考えているんでしょうか?」

に関しては私は民主党はダメ官僚に頼らないと宣言したと理解してよしとしました。

その裏づけとしてウォルフレンが1996年に書いた一文を紹介します。

「ヨーロッパでは、個人と政治的支配者との間には緊張関係が生じて当然とする考え方は、少なくとも、ソクラテスの時代まで遡ることができる。ソクラテスは、社会のそれよりも、個々の人間の理性の方が重要だと強く主張したため、アテネの若者を「堕落させる」として毒薬を飲まされた。

ソクラテスのもっとも高名な弟子だったプラトンは、権力を求める人間の衝動が諸悪の根源であることを知っていた。かれの考えでは、都市国家(ポリス)が果たすべきもっとも崇高な務めは、むき出しのままの権力に正義のタガをはめることだった。

この考え方はローマ帝国経由で中世ヨーロッパに伝わる。

北ヨーロッパのゲルマン諸族が採用していた一種の直接民主主義による民衆の政治参加は、古い時代から政治的平等の概念を政治に持ち込んだが、ローマ後期の哲学者キケロの著作を通じて中世ヨーロッパに知られるようになったストア学派の 『すべての人間は基本的に平等である』という考えと一緒になり「権力は倫理的な目的に従うべき」という考えになる。これが後に『主権在民という概念』に発展する。

法に対する現代の考え方は、さらに発展し『社会契約説』となり、国家に法的な基盤を与えた。カント、ロック、モンテスキューは自由主義の合理的な論拠として 『生取権』が存在すると断定し、スピノーザは倫理哲学を導いた。

日本では統治者を倫理の体現者として描き出すイデオロギーが強化されつづけただけである。

日本のアドミニストレーターには道徳心が欠けているなどと言っても誰の得にもならない。彼らは彼らの立場から見て正しいことをしているのだ。ここに彼らの悲劇がある。彼らは概して物事全体から自分達の立場を理解することはできない。哲学者ではないのだ。

不確定性の時代を迎えた日本に、これまでは実現しそうもなかった政治改革が必要なことは明らかだ。選挙で選ばれた日本の代議士たちは、自らその役を買ってでた官僚たちにすべての政策決定権をゆずり渡してしまった。

ところが当の官僚たちは、今、彼らが直面している大仕事をやりこなすには力不足である。結果は全面的な制度麻痺となる。国会議員の意欲の欠如を言ってもなにも解決しない。日本の政府省庁が最終的な責任をとれる統治機構としての体をなしていないということを理解しなければ始まらない。

日本の政治思想の活性化は、本来それが生じてくるべきところから生じるべきなのだ。一国の国民たるものは、自分の生活そのものに関連する議論がいかにして、どんな理由からなおざりにされているのかという根源的な疑問を呈さずにはいられない。このことからしても 『仕方ない』で済ませてしまう態度こそがつまるところ日本の政治にとっての最大の問題なのである」

なんのことはない、選挙民の責任だと言っているのではないでしょうか?

パイントリーさんの「小泉政治も、キャッチフレーズは格好よくても、官僚組織を靴の上から引っ掻いているに過ぎないような気がします。しかも、官僚政治批判がちっとも表沙汰にされていないというのは、どういうことですかね。言い古されてしまって記事にならないんですかね。(石原知事の爆弾が仕掛けられて当然というのも、分かるような気がします)」

に関しては日本のマスコミは官僚を敵にしてしまうと情報をもらえない。すなわちメシの食い上げになるためあからさまにかけないのだと思います。ウォルフレンの本の出版社が早川書房であるのは早川書房は官僚が怖くないためです。娯楽小説の出版社ですから。

グリーンウッド

 



パイントリーさん、

「役人も玉石混交」とおっしゃいましたが、そのとおりと思います。しかし個人がいくら良くても個人の力を抑制するシステム下ではたいしたことは期待できないのではとおもいます。

私もウォルフレンのいうことは表面的なものをなぞっているところもあり、完全に信服するものではありませんが、しかし外からの目は自分が気が付かないところを見ているので大いに参考になります。西欧人が日本人の心を理解しないというのも我々日本人の思い上がりではないですか?西欧の小説を読めば我々は感動するし、日本の翻訳小説を読んだ西洋人も同じく感動します。西は西、東は東という考え方がありますが、私は人間は基本的には同じであり、同じ環境、文化にうまれれば同じパーフォーマンスを示すものと思ってます。少なくとも過去数百年、西欧が良くも悪くも経済・技術でよいパーフォーマンスを実証した以上、同じ環境を作らねば同じレベルに達しないとおもいます。これを凌駕するにはそこからスタートすれば、より簡単だとおもいます。サイエンスもエンジニアリングもこの積み重ね原理を使うので有効なわけです。そしてロジック。日本は特殊だからという神ががり的意気込みでは心もとないのではありませんか?神話的世界に逆戻りです。これこそ今日本が陥っているわなのような気もします。日本の過去10年間の歴史が示していると思います。小泉さんが、前川リポートを引用して「改革なくして発展なし」というのはこのことを簡潔に言っているのだと思います。

小泉さんはゴルバチョフの役回りという見方がありますが、だれがエリツィンの役周りを演じるのでしょうか。ロシアは大きく変わりました。中国は今見かけ上経済が発展してますが、一党独裁という政治的な問題がまだ未解決で、というか日本モデルでごまかしながら生き延びていますが、いずれ、時がくれば頓挫するものと思ってます。中国の歴史をみればそう考えても間違いがないと思います。

グリーンウッド

ラウンドテーブルに投稿した雑感の続き「新聞に報道されない裏話

September 23, 2003

Rev. October 30, 2007


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