フィールズ氏との往復書簡

NHK番組、「変革の世紀」「組織の変革と個人の役割」

グリーンウッドさん、

掲題のテーマについてのNHK番組を観ましたか? 特に、「組織の変革と個人の役割」についての番組の内容についてのご感想を聞かして下さい。 もし、観ていなかったら、NHK Home Page http://www.nhk.or.jp/henkaku/ にaccess してみて下さい。

フィールズ

 

 

フィールズさん、

観ました。早速、私のHPのイノベーションにかんする檄文にも反映させてもらいました。
日本はドイツ、フランスなど大陸の中央集権制度を憲法に取り入れた影響がまだ抜けなくて英国流の自律分散の国民性が育っていない。役人もこの発想。追いつけ追い越せ時代にはトップダウンの指揮がうまく機能したがこれからは下から湧き出るがごとき頑張りを励まし育てる社会にならなければならないのはいうまでもありません。

昨日の日経かなにかでNTTの幹部がシリコンバレーのベンチャーが開発した無線LANを使った携帯IP電話を見てため息をついたそうですが、総務省の発想は電話と携帯を法律で分けてしまうので、そのいずれでもない新しい技術の開発は日本ではでてこない。今世界中に普及している携帯電話は全て交換機経由の回線接続法です。

TCP/IPを使うインターネットのパケット通信とルーターによる分散コントロールのほうが無線、有線の回線利用率が高く、普通の計算機をルーターに使うローコストには太刀打ちできない。私のような素人でも米国のクアルコム社のサイトで一年前に知って、自分のサイトでNTTの問題として紹介したくらいの技術で、インターネットを使ったことのある人なら誰でも発想できそうなものですが、役人による中央集権、縦割りの日本では誰も開発しなかった。中央集権の弊害です。日本はこのままではいつまでも米国の後塵を拝することになるでしょう。私の携帯もiモードは解約してクアルコム社のCDMAを使っているauにしてしまいました。(auはまだ残念ながら回線交換方式ですが)

グリーンウッド

 

グリーンウッドさん、

小生が番組中特に興味を持った点は、最も「統率」ということを重要視する US Militaryで、"Front-line Commander" にミサイル発射の決定をゆだね、司令部は前線への周囲状況に関する情報提供に徹する、という方針転換です。 Ford Motors でも Top-downを改め、営業・製造最前線の重視を打ち出した、と言う。 Top が Front-line からの情報を直接吸い上げ、Top の意向を重層化された中間管理職を通すことなく直接Front-line に伝える。 このシステムは、Engineering 業界では目新しいことでは無く、従って我々はFront-line の人選を誤ると大変な事になることを知っている。

それにしても、日本の中国大使館・領事館の無能力にはあきれかえりますね。 外務省全体の問題がいかに根の深いか、を物語るものでしょうが、何故日本では国・企業を問わず改革が進まないのか、という問題提起をしているようにも思えます。

いつの時代でも体制側にいる者の大半は守旧派で、法律に一番近いところにいるだけにタチが悪い。 江戸時代末期も同じで、幕府閣僚・会津/桑名等の徳川親藩を始め、薩摩・長州・土佐藩の上層部もしかり。 しかし、西郷・大久保・高杉・坂本といった、いわゆる下級武士は短期間に守旧勢力を打ち破って明治維新を成し遂げた。 明治維新は世界的な意義はともかく、”国を変革した”、という意味ではフランス革命に比される。150年前に出来たことが今はなかなか出来ない。 ドイツでも1930年代始め改革勢力はいたが、ヒットラー独走を食い止めることが出来なかった。いろいろな理由があげられているが、変革のエネルギー集中の差が一番の理由でしょう。 英国には England/Scotland/Walesの反目に加えてアフリカ/インド/アジアからの移民との対立があり、米国は民族のるつぼと言われてまとまりを欠いていながら、戦争のように国難の時は勿論、経済改革時においてすら国民各層がまとまる。 ”個の自立”と”まとまり”とがそこそこうまく行っている。 日本では国としても、企業のように小さな単位においてもこれがなかなかうまくいかない。 どうしてか?

日本人は封建時代の ”お上頼り”から抜け切っていない、と言われる。 この事例には事欠かないが、一方 60年代〜70年代には、”アメリカでは何事も Top-down で決まり、日本では Bottom-up で決まる” と言われていたのも事実。 早い話、MITI では掛長クラスが決めたことがMITI/政府方針となり、”現場での改善” が日本の製造業を世界のトップに押し上げた。 ”Kaizen” はアメリカで大いに議論され、多くのアメリカ企業が採用した。

1980年代 アメリカでは、”Japanese can do. Why can't Americans do?" というテーマが Business Week 等で取り上げられ、官民を問わず大いに議論された。 結果、政府はDe-regulation を進め、CITI Corp. をはじめ大銀行の淘汰・合併が起こり、多く
の企業において トップ交代・業態見直し・組織改革の嵐が吹き荒れた。 そして、90年代初め、世界一の座を日本から奪還した。 あれから 10年余、日米の差は大きくなるばかり。

今や、”Americans can do. Why can't Japanese do?" と問い直すべき時。

フィールズ

 

フィールズさん、

"Front-line Commander" にミサイル発射の決定をゆだね、司令部は前線への周囲状況に関する情報提供に徹する、という方針転換も情報の共有技術を伴わなければただのカオスとなるわけで、この情報の共有技術がどういうものか?兵士が掛けている眼鏡に地図が映し出され、味方と敵の情報が即時に閲覧できなければ意味がない。司令部は全てのフロントからはいる情報を分析し、データベースに入力していたら戦争はできない。多分、生情報がそのまま見えるということなのでしょう。隣の戦闘単位の兵士のスコープに移っている影像を覗き見できるとか上空の航空機が映し出す影像を勝手に覗くといった仕掛けでしょうか。無線を多用するので解読不能の暗号化のための高速演算装置も小型化して携帯するのでしょう。画像圧縮、VoIPなど全て現在の技術で解決可能。しかし兵士は少数精鋭にならなければならないわけで、まあ戦闘機乗りのパイロット位の質が要求されるのでしょう。ベトナムで苦労した米国もようやく正規軍がゲリラ相手に戦えるように進化したのだなとつくづくおもいました。それに引き換え、日本の現状はお寒いかぎりです。

"Front-line Commander" にミサイル発射の決定をゆだねるには技術問題を解決した後は情報共有の意識改革でしょう。日本の役所は愚民政策をとっているので情報の共有はご法度。現在国会で審議中の法案を見ても明らか。日本はまず情報の共有という思想を認めなければならないとおもいます。

日本では Bottom-up といわれたのは高度成長期だけです。役人も企業も下克上をやっていた若い連中が官庁や企業の中枢に上り詰めトップになった。一旦トップになると地位を守るために情報を独り占めし、下には知らせない。このような環境でBottom-up の建前をとっても、実のある提案は上がってこなくなった。下も正気のことをいうと切腹を申し渡されるので、あげることは上の気に入ることばかりにして体裁を整え、上のいうことは感心したようにして聞いで後でベロを出すという社会になってしまったのではないでしょうか。まあ恐竜が生き残っている間はダメでしょうね。

瀋陽事件も日本国家が政治亡命すら例外処置でしぶしぶ認める政策をとっていたのだから在外公館の職員が中国公安当局の国際法違反の行動を黙認したのは非難できない。ところが影像という客観的事実をつきつけられて日本国民も自らやってきたことが誤りであったことに気が付いた。利にさとい政治家がこれに乗って外務省を悪者にしている構図でしょう。このような状況のもとに外務省幹部は保身のために都合の悪い情報は領事館内のカメラを故障と偽ってでも隠して外務大臣にすら報告せず、大本営発表をする。中国の大本営発表で覆るや、山口大臣も小泉首相も是々非々に日本側が悪かったことも認めず、外務省幹部の保身の片棒をかつぎ、中国側と同じ土俵で押し合いをしている。まさに国益をそこなう行為でしょう。

アメリカが成功したのは恐竜は絶滅させてニッチにいた哺乳類を解き放ったからでしょう。日本はまず政府の官僚システムを完全に破壊しなければならない。でもこれをやろうという政治家は居ない。一般市民も恐竜のような自民党に投票し続けている。「おたかさん」のような存在が自民を助けているのは残念なことです。そのうち暴動でも生ずれば少し目がさめるのかしら。

小泉・山口など完全に官僚に牛耳られていて、見るのも嫌になりました。NTTの宮津氏もようやくきがついたようでもう政府がIT振興の旗振りをすることを止めて民間に任せて欲しいという声をあげ始めています。

最近も若い英国人と話をしましたが、日本人に何か意見をいうと、納得しなくてもさも感心したように聞いてくれるが、英国人はすぐには同意しないで自分で考えたことをはっきり言う。こん畜生と思うが、こちらもアッそうかと思うこともある。そうして共通の理解が広がってゆく。日本人は表向き同意したようにつくろっているが実のところ何も聞いていない。この小さな文化の差が一億集まると大きな差がでてくるのだとおもいます。

グリーンウッド

 

グリーンウッドさん、

第二次大戦後日本およびドイツが目覚しい発展を遂げたのは、戦前・戦中に形成された古いシステムを破壊したことに加えて、権力の中枢にいた頑迷固陋な連中が追放されて風通しが良くなったことにある、とよく言われている。 戦後の発展の基礎となった様々なシステムが、今や更なる発展の障害となっている。 その最たるものが官僚の「内向き思想」であり、官僚の提灯持ちした各種団体の指導者および有識者といわれる人達が作り上げた諸々の組織・規制であり、今の日本はこれに縛られて身動き出来ない状況にある。 この事を自覚もせず逆に守ろうとしている守旧派が多いことがより大きな問題でしょう。 常に脱皮して外界の変化に柔軟に対応して行ける「種」のみが生き残る、という生物界の法
則はまた、国家・民族あるいは企業の生存にも当てはまるようですね。

ミサイル発射を決定する権限を Front-line に委譲し、司令部は情報収集・分析・配送に徹する、という発想は、日本の官僚および政府・企業の指導者から見たらとんでもないことで、これを実行しようとすることなど狂気の沙汰。 こう云った逆転の発想は日本では出て来ないし、誰かが提案したとしても即座に潰されるでしょう。 この日米の差はどこから来るのでしょうか? 

フィールズ

 


フィールズさん、

小泉さんも自民党の重鎮を敵にまわして戦う力はないというか日本の首相にだれがなっても力を発揮できない仕組みになっているという説を今日の日経で中谷巌が披露しております。太平洋戦争敗北の原因を分析した名著「失敗の本質」 は「陸海軍が戦闘目的を共有できず、国家としてのグランドデザインを持ち得なかったこと」を敗戦の主要な理由としています。この欠陥は戦後も引き続き、歴代政府の政策策定段階で意見が対立したときの最終的な意志決定権限があいまいでいくつかの関連部署の考え方が交通整理されないといってます。小泉政権をみているとまさにその通り。米国の識者は日本をヘッドレスチキンと呼んでいるとのことですが、日本の首相は居ないも同然ということらしい。しかしそうしたのも歴代の首相でしょう。「霞ヶ関の課長級の千人以上が拒否権を持っている」そうだ。縦割りの行政組織がそれぞれの仕切りの中で合理性を求める結果、政府としては「合成の誤謬」に陥っているといえるのでしょう。(Paradox Serial No.14)

ゴーンさんが日産を救ったように外人に国をリードしてもらえば日本は急速に回復するような気もします。要は責任を一身に背負う気概のある人が日本には一人も居ないということのようです。皆、外務省の役人の悪口を言っているが、確かにあきれるほどの鉄面皮であるが、日本の会社のなかの管理職と重役の行動も大同小異の醜さです。

丸山真男が日本の軍国支配における無責任構造を描いて「日本のあらゆる組織の指導層は自ら状況に対する政策を決断する自由な主体ではなく、「非規定意識」しか持たない個人である。弱い精神しか持たないエリートは、空気に同調したことについて誰も責任をとろうとしない。」といっていますが、戦争に突っ走った指導層と今の日本のあらゆる階層の指導層のメンタリティーは全く同じになってます。

作家半藤一利 によれば更迭された東郷大使の祖父は無条件降伏をまとめた鈴木貫太郎内閣の外相、東郷茂徳氏、今回更迭されるかもしれない阿南大使の父親は同じ内閣の陸軍大臣阿南惟畿(これちか)氏というではないですか。東郷茂徳氏は軍部の抵抗を排し、和平に舵を切り、A級戦犯として病没、反対した阿南氏は自決したそうです。親二人は結果として責任をとりましたが、その子は弱い精神しか持たないエリートなのでしょうか?戦中・戦後より事態は悪化しているのかもしれません。

政府など見捨てて民間で市場原理でやればよいではないかという見方もありますが、民間企業が自由に羽ばたくのを阻止しようという政府の下ではあまり期待できない、というか民間巨大企業も政府と同じような縦割りの統治機構という問題を抱えております。これはやはりどうしようもなくなって社会が崩壊し、暴動でも起こらないと日本は救いがないのかもしれない。

グリーンウッド

 

 

フィールズさん、

1997/10/30に買って読んだフリードマン夫妻が書いた「戦場の未来」という本を読み直したら、NHK番組「組織の変革と個人の役割」にでてきた"Front-line Commander" 構想がでてました。スーパートルーパー(超歩兵)というんだそうです。

「戦場で一番みつかりにくいのが個々の兵士である。頭を働かせて身を隠すからだ。だがあまり破壊力はない。しかしこの破壊力の限界が最新式兵器システムの破壊力をもち、戦車より抹殺しにくければ戦場は再び古い戦争解釈に回帰するだろうと予言している。中世の騎士のような存在が戦闘の中心となるだろう」という。近代軍は多数の兵士が必要で、ある意味では民主的な組織だが、熟練した勇者が桁外れの力を発揮する小規模の軍隊は中世の騎士一人に領地一つと一族郎党が必要だったように騎士一人には費用がかかり、技術は深遠で、新たに発生する騎士は社会的エリートになる可能性がある。

「人類史のほぼ全期間を通じて都市国家こそ自然な政治制度であった。大砲が都市の城壁を吹き飛ばすようになり、都市国家の意味がなくなった。また兵器の命中率が低かったがゆえに現代の戦争は国民総がかりの総力戦となった。こうして国民国家がヨーロッパで発生した。しかし、騎士的兵士の出現でイスラエルやシンガポールなどの小国や都市でも大国と同じ力をもちうる。もはや大規模な軍隊、国民国家、総力戦というグローバルな帝国の論理は過去のものとなった。セルバンテスが現代というグローバルな帝国の幕開けにおいて騎士の不合理さに気付いたように第二のグローバル時代の始まりにはGIの終焉と超兵士の誕生を目にするだろう。」と締めくくっています。

アルカイダもこの理解の上にゲリラを構築したのだと思う。どうも我々は時代の大きな変わり目に生きているようです。1997年のプロジェクトマネジメントのシカゴ大会の招待講演でやはり都市国家の到来の予言をしている評論家の話を聞きました。今回英国の古城を訪ねあるき、このような発想はヨーロッパに深く根ついた思想であるとつくづく感じました。

グリーンウッド

 

グリーンウッドさん、

フリードマンの意見には興味を持っていますが、「戦場の未来」は読んでいません。”未来の戦争”は第一次・二次戦争とはかなり違った様相を呈するであろう事は想像出来るが、具体像はなかなか浮かんでこない。 先日、高校同期で自衛隊を定年退職した奴と話す機会があった。湾岸戦争で使われた兵器・中国北朝鮮の戦闘能力・自衛隊の実力・イージス艦の役割・日本の兵器開発能力、等々話題は尽きなかったが、話すのは専らこちらの方で彼の話し振りは歯切れが悪い。古巣に気兼ねしているのは判るが、本当のところは、彼のような幹部でも自衛隊内でこう云った話題を自由に話をする機会がなく、小生が提起した話題についてあまり知らないのではないか、という印象を受けた。 最後に、日本の家電メーカーが開発した電磁波を吸収するペイントを使ってステルス機を開発した米軍の例を持ち出して、最新型兵器開発に欠かせない民間技術がたくさんあり、三菱重工・IHI・川崎重工 等一部の企業だけに頼っていては自衛隊は世界に取り残される、ということには賛意を表した。

香港・シンガポールに合計で 6年半滞在したが、この間の両都市の発展振りは驚くばかり。いずれも、当初は日本のGDPの1/3〜1/2だったのが帰国時には70-80%にせまり、追い越すのも時間の問題、というところまで来た。30-40歳の人達に活力があり、自分達が国家の未来を担っている、という気負いを持っている。 彼らは好奇心に溢れ、目は日本ではなく米・欧に向いている。 都市国家という形態は現代の経済戦争においても有効に働く、ということを滞在中に実感したが、最近のシンガポールの躍進、返還後の香港の停滞がこのことを裏付けている。

70年代 Oil Crisis をみごとに克服した日本企業だが、90年代始めに起きた情報技術革新には乗り遅れた。その直前まで情報処理技術では最先端を行っていた(と信じていた)のに、次から次と繰り出されるアメリカの技術革新に付いて行くのが精一杯という有様。

どうしてこうなったのか? 少しの成功に慢心してしまい、更に悪いことに成功体験に固執する性癖が日本人にはある(?)

フィールズ

2002.5.18

Rev September 03, 2006


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