第1章 1961年

初体験のプロパン塩素化プラント

試運転

 

 

エンジニアリング会社とは

エンジニアリング会社は石油精製企業や化学会社から生産設備の設計・建設を請け負うことを業とする会社である。石油精製企業は海外から原油を買って来てこれを蒸留してガソリン、灯油、経由、重油に分け、硫黄など有害な成分を除去して消費者に売る商売をしている。 石油精製プロセス技術は米国で発展したもので、戦前・戦後を通じ基本技術は米国から買っていた。敗戦でマッカーサーが石油精製業を禁止したため、工務部門で働いていたエンジニア達が独立して米軍の油槽所や石鹸や化粧品を作る工場を建設するエンジニアリング企業を創業した。私が希望して入社した千代田化工建設 (以下わが社とか千代田とよぶ)は旧三菱石油の工務部長していた創業社長ら25名が作った会社である。三菱という名前の使用も禁じられたため、三菱村があった千代田区にちなんで命名されたという。

石油精製業がマッカーサーによって解禁された後は米国の基本設計を買って来て、蒸留塔、熱交換器、分離層、反応器、配管の詳細構造を設計・製作し、ポンプや圧縮機、自動制御装置を購入してプラントとして完成していた。化学プラントもほぼ同様で独自技術はすくなく、殆ど基本設計は買ってくるところは同じであった。

さて大学で学んだ応用化学とか化学工学というものも米国で発展した工学で、基本的にはこの化学プラントの基本設計をする能力を授けるものであった。 戦前、東北大学で化学工学を教え始めた故八田教授が日本での1代目で、私は2代目の故前田四郎教授に学んだ。化学者が発見した有用な化学反応を大規模生産工程に具現化する技術である。しかし、導入技術の場合は悲しいかなただ買ってきた基本設計を眺めてそれを理解し、機器などの構造を詳細にきめるくらいの通訳のような仕事しかない。

大学で故徳久先生から石油は19年で枯渇すると聞いていたこと、人生の後半で石油プラント設計の仕事がなくなって失業するのは嫌だと思い、また皆がドット目指す方角で押し合いへし合いするのもイヤと思い、配属先は化学プラントの設計担当を希望した。面接した林常務が変な希望をする人間だと思ったようだが、無論希望者は少ないはずだから希望は聞き入れられた。

 

入社6ヶ月での出張命令

私が自ら希望して配属されたプロセス設計部の化学プロセス担当課には敗戦後東大を出てから女学校の先生をしていたという後畑課長が一人ぽつねんとして座っているだけで誰も居なかった。皆、担当プロジェクトの建設現場に出払っていたのだ。

6ヶ月間ほど毎日午後、新入社員だけ集められて寺島さんに自動制御の仕組みなどについて教わっ た。具体的に蒸留塔のコンデンサー回りの制御システムとか、リボイラーの制御とかを教えてくれたのでわかりやすかった。9月に入り、完成したK化学のプラントの試運転現場に出張命令が下った。新人のトレーニングにはこれが一番だとの判断であろう。”百聞は一見にしかず”のことわざのとおり、大変よい機会を与えてもらったと感謝している。

 

塩素化とはそしてその目的は

そのプラントとはK化学が米国のサイエンティフィック・デザイン社から導入した技術であった。フランスのPechney社に続き、実用2号機であった。プロパンに塩素ガスを反応させて、四塩化炭素やパークロルエチレンに変換する工場であった。いまではオゾン層破壊の恐れありとして使われなくなったが、当時は四塩化炭素は消化剤に、パークロルエチレンはドライクリーニング剤として売れたのである。

この反応は塩素化とよばれるが、塩素化の原理はプロパンと空気を混ぜて点火すれば燃えるのと同じものである。空気中の酸素によりプロパンが発熱して燃焼すると全く同じで、塩素を混ぜて温度を上げれば、反応速度が早い気相反応のため、触媒無しでも熱を出して燃えるように反応し、四塩化炭素やパークロルエチレンなどの混合物が炭酸ガスや一参加炭素が空気による燃焼と同じように生成する。この混合ガスを冷却して液体にして蒸留し 、純度の高い四塩化炭素やパークロルエチレンなどに分離精製するプロセスである。プロパンが燃えれば炭酸ガスのほかに水蒸気(酸化水素)が生成すると同じく、塩化水素が生成する。これが厄介者で、その腐食性のため 、石油精製装置に使う鋼製の機器が全く使えない。反応器や冷却器は純度の高いニッケル、熱交換器はカーボン入りのプラスチック製、蒸留塔と配管はガラスライニングしてあった。

勿来の関近くにあった建設現場に出かける前にこのプロセス設計担当者大杉さんに反応の化学平衡図を描くように命令されて作成したことを覚えている。 はじめて大学で教わった熱力学の実地利用の合点がいくことになる。

現場での3ヶ月間、試運転特有のあらゆるトラブルを経験したが、当時の空気式自動制御機器が一番楽しめた。先輩の計装技師である慎葛さんが親切に比例帯や微分動作、積分動作の調節法を教えてくれた。プラントの持つ動特性とあわせてこれらをどう調節すべきかと体で覚えることができた。

 

試運転で経験した初期故障など

反応器は高価な純ニッケルを使用していた。反応は大気圧であるため、板圧は薄くてよいのだが、薄いフランジのリークが止まらずに困った。川崎工場長の 低土(故人)さんが乗り込んできて、トルクレンチで均一にしめてなんとか止めてくれた。 ドーナツ型の反応容器に原料を混合して吹き込むノズルはハステロイ製であった。反応熱はドーナツ状の容器の周りに空気を強制的に流通させて空冷していた。

原料となるプロパンの純度を上げるために直径30センチの蒸留塔があり、自立できないので3本のトラを張ってあった。ある日現場をぷらぷらしていると、轟音とともにこの塔の上にある安全弁が吹いた。直接大気放出である のと、分子量が44もあるため、 分子量18の水蒸気とは比較にならない大きな音がする。この噴出ノズルに雨水が入らないように噴出口は水平方向を向いているため、噴出の反動で水平方向の力が塔に作用する。このため、塔が反動で大きく揺れ、最後の保温工事をしていた作業員数名が振り落とされないように必死で塔にしがみついているのをみた。でも彼らは降りてこない、吹き止まると平然として作業を続けている。そのプロフェッショナリズムには感嘆した。かれらなりの美学があったのだろうか。

現場が暇なとき、建設現場を渡り歩いている副所長格の門崎さんに鳶が見事な技を発揮した逸話を聞いた。今でこそ重量物は大型クレーンで吊るが、昔はジンポールというタワーを2本門型に建て、この門の梁に付けた滑車に通したケーブルを横に置いた蒸留塔の重心より上に付けたフックにかけて引き上げる工法を使っていた。ケーブルは上下の滑車に何回も通して 非力なウィンチでも時間さえかければ引き上げることが出来る仕組みである。どういうわけか蒸留塔が斜めに立ち上がったところで不幸にもケーブルが切れてしまった。スローモーションのように塔が落下してゆく。そのとき一人の鳶が落下して行く蒸留塔に飛び移り、切れたケーブルの末端をつかんで 近くのノズルに巻きつけ、見事落下を止めたという。滑車を何回も通しているので、人間の力でも塔の重量に打ち勝つことができたのだ、そして落下速度もゆっくりしたから 可能だったのである。

ペンシルカラムが強い安全弁の作動で揺れるのは当然として直径1メートル以上ある蒸留塔は揺れないだろうと架台の上から蒸留塔頂上部を親指1本で 押してみると少し動いたような気がした、その固有のリズムをつかんで周期的に力を加えると振幅1センチで揺らぐではないか。いわゆる共振現象である。

現場に居て腰を抜かす程驚いたことがある。顧客が古いスチーム配管の撤去工事をしているとき、手違いで長さ40メートルの配管がスタンション毎、一挙に崩れおちた。そのときまだ生きている蒸気配管までもぎ取ってしまったので低圧蒸気が鉄さびを伴って噴出し、もくもくと湧き上がってきた。その瞬間はスチーム配管かどうかはわからず 、異様な褐色の色から塩素など含む有毒ガスではないかと思い、息をせず3階から地上まで一気に駆け下りたものである。

試運転が進むと反応器から出てくるガスを冷却する多管式熱交換器の性能が不足していることが判明した。原因追求をおおせつかり、チャンネル部を取り外すとガスケットが30度ずれて取り付けられていて内部でバイパスしていることが分かった。これが原因であった。性能とは関係ないが、チューブ内を見とおすとニッケル製の柔らかいチューブバンドルが重力で弛んでいるのがみて取れた。

ガラスライニング配管はピンホール検査しているはずであるが、検査もれの配管が多く、腐食で毎日新しい穴が空いてしばしば塩酸の雨をかぶった。その都度、運転停止して配管の交換をするはめになる。

そのころ、配管の熱応力をしっかり事前にチェックするなどということはしていなかったらしい。ある朝、カーボン含浸プラスチック製 の吸収塔頂分から白煙が上がっているのが発見された。カーボン含浸プラスチック製ノズルがガラスライニング管の熱膨張で押され破損してしまったと判明した。配管はスプリングサポート することになった。機械工学便覧で必要なスプリング太さを計算し、町の材料屋で仕入れてスプリングサポートを自作した。うまくいった。

未反応の塩素ガス流量を計測したいと顧客が言い出し、倉庫からフロート型の流量計を探してきた。これを取り付けガスを流したとたん衆人の監視のなかチタン製のフロートが黄色いガスを発生しながら燃え尽きるのがガラス越しに見えた。そういえばチタンと塩素は常温で激しく反応するのだということを皆で思い出し、大笑いしたものである。

試運転もいよいよ佳境にはいり、蒸留による分離精製工程が動き始めた。 一番大きい、第1蒸留塔のオーバーヘッドコンデンサーとアキュミュレータを連結する水平配管に溜まる液が間歇流となって、蒸留塔頂圧力に脈動現象が発生した。これは細いガスの連通管を追加して解決した。

蒸留塔群も下流に行くに従い、流量は減少し、蒸留塔は直径30センチ位になってくる。蒸留は塔底で液を加熱して再沸させるリボイラーが設置されている。このような小型の場合は縦型の自然循環リボイラーを塔に抱かせるのが適切だと思うのだが、なぜか水平のポンプ循環型 リボイラーがはるか下の地上に堂々と設置され、太い配管で塔底に連結されている。あまりに太いので配管内で気液が分離してしまい、ガスだけ抜けてくる。 液は配管内部に残る。従って塔底の液は空になる。そのうちに今度は急に液面が上昇し、上限を超えてしまう。なんと配管内容積の方が塔底の容積より大きいのだ。これでは液面を一定にするように製品液の抜き出し量を制御しようとしても液面制御などできるわけがない。比例帯を極端に広くとり、微分動作を殺し、積分動作を利かせなんとか運転できるようにした。

後畑課長が折に触れ話してくれた教訓話がある。それは

「ポンプが一定のNPSHを要求することを知らずに大学を卒業した諸君の先輩がはじめて蒸留塔を設計したとき、ポンプがガスを引いてしまって運転できなかった。しかたがないので、塔のスカートと接続配管全てを切ってクレーンで吊り上げ、ポンプが必要とするNPSHを確保した」

という失敗談である。NPSHとはネットポジティブ・サクションヘッドの略でNPSHがマイナスになると、液体が気化してポンプが液体を吸い上げることができなくなる。このプラントではそれに学んでいただのだろう、充分過ぎる高さに蒸留塔は設置されていた。そのためと、配管の熱応力緩和のために配管を引き回すため、配管が必要以上に長くなっていたとはいえる。結果、無駄な投資をしてかえって運転特性を損なうという未熟設計であった。充填塔のため、トレイが破損することはなかったが、もしトレイだったらそれを失っていただろう。

 

所長と行動を共にする芸者

週末は森町所長(故人)の借家で彼が四日市の建設現場以降各地建設現場を渡り歩く毎に置屋を変えてついてくるという若い芸者も交えて現場チョンガー連がマージャンをしたり、ピクニックしたり、彼女の踊りの発表会を見にいったりして楽しくすごした。のどかな時代であった。

 

五味先輩のくどきを断る

3ヶ月がすぎ、試運転も完了に近くなった、暮れのある日、東北大を卒業後、MITに留学し、顧客の重要人物になっていた五味先輩に呼び出され 、

「3ヶ月ではまだ勉強不足だろうからもっと現場にのこらないか。話はつけてやる」

とと強くすすめられた。尊敬する先輩の言葉に感謝しつつも、ここで学ぶべきことは学んだと いう感じを持っていたので平に固辞して帰社した。

 

プラントのその後

南極のオゾンホールが発見されてから、炭化水素の塩化物が犯人と判明し、このプラントが製造する物質は世界的に使われなった。多分このプラントはスクラップにされたであろうと推察している。

December 29, 2004

Rev. January 10, 2006

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