大学時代

 

教養学部で2年勉強している間に専攻を決めなければならない。東北大には後にサイリスタで有名になる西沢潤一教授がコンピュータに取り組んでいるという噂 も聞いたが、弱電はどうも辛気臭い。母の従兄弟が精密工学部(戦前は兵器研究)の教授をしていて、原子核工学科を創立して自らここに移っていたが、どうも 機械だけ、発電だけというのも単純すぎて面白くない。多分ホルモンの影響だと思うが、なにか複雑・多様で大きなことに取り組んでみたいという思いをいだい ていた。

ある日、本屋で石油化学に関する本に掲載されていた石油化学工場の写真が強烈なインパクトをもたらした。銀色に輝く塔が何本も青い空に向かって林立してい てなにやら複雑な配管群がうねっている。そうだこういう工場の設計をしてみたい。基本は化学で、機械工学、材料の知識、自動制御装置、建設管理など総合的 な技量を要求される。そういえば化学は好きというわけではなかったが、高校ではなぜか化学の成績は一番だった。これできまりだった。応用化学科の化学工学 コース前田研究室に潜り込んだ。

東北大の応用化学科の化学工学コースは化学工学の発祥の地、MITに留学した八田四郎次教授の創設した教室だった。一旦民間企業に就職していたのを八田先生に大学に呼び戻されて、前田四郎教授がこの研究室を率いていた。後日台湾旅行をして知ったが、先生は台湾統治時代、鳥山頭水庫(うさんとうだむ)を企画し、建設を監督した八田与一の一族である。

前田教授は多分石炭の液化プロセス開発のための基礎研究としてだろうと思うが触媒充填反応器の伝熱研究のため大学に戻 り、戦後そのまま研究室にとどまった。応用化学科には三菱合資会社にはいり、戦時中、石油精製業に従事して、戦後大学に出戻った徳久教授などが居られた。 これら実業の経験に裏付けられた、教育を授けられたので、実業の世界はどのようなものか、大学にいるときから見通すことができた。それでも教育法はかなり 日本化されていたのだとおもう。MIT留学から帰った 五味先輩が持ち帰ったドリルという問題を出されると手も足もでない。日本での教育は定義された言葉や方程式で表現される関係を教わるだけなので、この言葉 が表現する本当の物理現象を理解していないことが多い。違った言葉で質問されればもう頭の中は真っ白になるばかりである。おおいに刺激を得、また反省させ られたものである。

初志貫徹とばかり、就職は当時の日本で始まったばかりのエンジニアリング企業の千代田化工建設を希望し、希望は受け入れ られた。生産会社の方が安定した人生をおくられるだろうが、待っている退屈な人生を拒否したわけである。この決断にはかなりの勇気が必要だった。就職がき まってしまえば、残りの1年はじっくりと卒業実験に取り組み、卒論を書けば大学をおさらばできる。

応用化学科は片平町の大学構内から繁華街、東一番丁に抜ける北門に近い。時あたかも安保闘争が激化した時代で、過激派学生がデモをするべく出かける北門の すぐそばで応用化学科学生は昼休みにキャッチボールをしているノンポリの脳天気な学生達であった。ついにある日、この応用化学科の講義中、過激派から「資 本家の犬」とシュプレッヒコールを受けたのにはビックリした。教授達はかなり狼狽したようだが、学生達はアッケラカランと次ぎの日からは裏庭でキャッチ ボールを継続した。そんな時代だった。樺美智子さんが国会議事堂前で死んだのはこの時のことである。

同期生の殆どは石油精製会社や化学会社で役員まで登りつめたが、今だ現役なのは三井化学社長兼会長の中西宏幸位だろう。ゴルフを伴う同窓会が年数回開催される。 私ももたまにこれに参加して旧交を温めている。

申請書の書き方も知らず、結果、寮には入れてもらえず、もっぱら下宿生活を送った。教養部時代はインフルエンザで1週間寝込み、汗をたっぷり吸った畳にキノコが生えたことがあった。工学部時代は警官の夫を台湾統治時代の1930年に発生した霧社事件で失い、寡婦となった老婦人 が経営する下宿で世話をしてもらったことをいまでも思い出す。残された息子も柔道で首の骨を折って亡くすという二重苦をかかえた人であったこともなつかしく思いだした。

December 21, 2004

Rev. February 11, 2013

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