第5章 1965年

わが道をゆく

LPG輸入基地設計

 

 

常畠とT火熱との出会い

化学コンビナートの中心たるオレフィンプラント・マーケットを技術提携契約先の技術が時代遅れとなって失ってから化学プラント設計チームは暇になってし まった。営業が客から受けた要望にこたえるべく毎日特許を調べ、勉強して新設計なるものの提案を客先に持ってゆくが、なかなかこれは良いと評価してもらえ ない。まるで賽の河原に石を積むような日々を送っていたある日、いつもはシニカルな後畠課長がプロジェクトマネジャーの常畠さん(2011年故人となる) が持ち込んだ話に乗って、これチョッと担当してみないかと声をかけてきた。なにかピントきたのだろう。常畠さんはたまたま出来たばかりの労働組合役員に担 がれた時知り合った。苦楽をともにした同志だ。仕事でははじめての共闘を組むことになる。

常畠さんは1歳年上の東京工業大学機械学科出でいがぐり頭をした白洲次郎の父の文平に似た傍若無人な男であった。彼は若い ときから不良だったとのことだ。子供のころからませていたわけだが、これはマッキャベリ的知性が優れていることを意味した。父が静岡の自動車部品製造業を 経営していて豊かだったため、戦前から外車に乗っていたそうである。その父が彼に「まじめに勉強して大学に入れたら10万円(今なら100万円)やろう」 とそそのかした。金がほしいものだから一念発起、半年勉強したらもともと頭がよかったので簡単に東工大に合格して10万円せしめたという武勇伝を持ってい た。

その彼が私をおだてていろいろ設計させて客に売り込むことをはじたわけである。それがなぜか売れるというウインウインのパートナーとなった。 受注1号はLPG基地であった。そして日本初のLNG基地、液化プラントと伸びてゆくのだ。ビジネスセンスのある彼が居なかったら私は鳴かず飛ばず、会社 も現在の主力となっているLNGプラントビジネスには乗り遅れ、医薬品事業部もなく、消えてしまっていたであろう。

「人は1人では無力だがパートナーシップを組むと強い」ことを、学んだ。5年間共闘した結果、ダス島のプロジェクトのため私がロンドンに移ってこの共闘は 自然消滅した。以後それぞれの道を歩み、医薬品プロジェクトで再会することになる。

大分後のことだが、彼の傍若無人さ、権威を恐れない態度を嫌った潔癖症の阪大の応用科学出の社長に営業企画部を追われてしまった。そしてその社長が 別の営業トップに踊らされて無謀な安値受注を繰り返して会社を倒産寸前まで追い込んだのだ。そして一連托生、私も会社をやめたというわけ。 会社は潔癖症の人には経営できない。内部に多様性を許容する度量が必要だとこの顛末を見てつくずく思う。

常畠さんとはよく旅行したがロンドンのホテルに逗留してるとき火事になった。ドアをたたいても起きてこない。またガールフレンドのところに行っているのだ なと合点して避難した。翌朝どこに居たのかと詰問すると「ベッドで眠りこけていてぜんぜん気がつかなかった。おれは結局こうして死ぬのかな」といっていた くらいである。

過去のノスタルジーにふけるのはこれくらいにして話を続けよう。暇をもてあましていたので異論はない。ハイハイと受ける と常畠さんがT火熱の設計課長を連れてきた。T火熱はタンク専業メーカーだ。名前が火熱とは変だが、昔は火熱炉メカーだったが、その当時はタンクメーカー としての方が有名であった。話をうかがうと冷凍LPGの輸入基地の仕事をタンクはT火熱、タンク付帯の冷凍施設と荷役施設はわが社ということにしてパート ナーシップを組み、今後とも仕事して行きたい。手始めに水島のN鉱業の応札業務があるという。

その時は知らなかったが、それまでは冷凍タンクの設計建設に関しては両者とも米メーカーのピッツバーグ・デモイン・アン ド・スチール社(PDM)と提携していて日本市場で競合する形になっていた。両者の主力取引銀行が同じだった縁で無益な競争を排除してそれぞれの強いとこ ろで協力したらどうかといわれてトップ同士が合意したものだったそうである。

 

厚いタンクの保温壁が蓄熱効果

そのような施設の設計をしたことがなかったのでT火熱の設計課長からPDMで学んだことを教えてもらった。タンク壁を貫 通して入る熱計算をするとき、外壁の温度を何度にとるかと聞くと、驚くなかれPDMでは30Cにとるというのだ。夏の直射日光の 下では鉄板は55Cになり、目玉焼きすらできるというのにである。

T火熱の課長が帰ってからどういうことでそうなるか熟考してみた。冷凍タンクは二重殻タンクの隙間に不燃性の発泡パーラ イト粒子を充填する構造になっている。建設工事の都合上外殻と内殻の隙間は90センチある。人間がこの間に入って溶接作業を行う最低限の間隔である。保 冷の目的では10-20センチで充分だろう。このようなときは外壁の温度は最高温度の55Cにとらねばならない。しかし厚さが 90センチともなれば外壁の温度が内部のパーライトを温めてその温度勾配が内壁に達するころは日もかげり、内壁からみた見掛けの外壁温度は30C にしか見えないというわけである。厚い発泡パーライト粒子層が蓄熱効果をもっているためにほかならない。これがノウハウというものだとその時感じた。

ついでにビジネス マン時代オーバビューで説明したような経緯でタンク設計圧の一部を利用する蓄熱方式による冷凍負荷平準化も思いつき、ボイルオフガス回収部分に関 しては CBI Chicago Bridge & Iron社と提携していた他社の半値という価格で受注できた。

その経緯とは見積もり時熱収支をよく考えずに荷役終了時で熱収支を計算したのだが、荷役開始時はポンプ動力 の全量とタンカーとタンクの液面差に相当する位置のエネルギーも熱エネルギーに変換されるので熱は終了時より大きくなりボイルオフ回収系の能力が不足する ことになった。そこで苦肉の策として蓄熱方式を思いついた。詳しくは覚えていないが、多分下記のようなことであったと思う。

ここでタンカーのBOG回収系はタンカー側は液面低下で負圧になるため停止していると仮定している。また荷揚げポンプは 定 速モーターにより駆動され、荷揚げ速度は一定になるよう吐出弁を絞ると仮定している。戻りガスなどもスーパーヒートしていることまで詳細に計算したがここ では詳しくはふれない。


荷役終了時の熱収支

荷役速度  V=CargoCapacity/UnloadingTime

ポンプ動力  W= 0.00272VS(hend + hfriction)/η

ここでhfrictionはポンプ吐出弁前回時の荷揚げ配管系の摩擦損失相当頭である。荷役完了 時にはポンプ損失(1-η)と配管損失hfrictionだけが熱になり、ポンプ動力の大部分は位置のエネルギーhendに 変換され、熱とはならない。したがっ て

荷役完了時のボイルオフ  Qb1=Qtanker + 860W(1-η) + 2.34VShfriction + Qpipe + Qtank - Qreplacement

一番札でかつ競争相手のI社の半額であったことを知り、見直して荷役開始時にボイルオフ回収系のピークロードがくることに気がつき、能力の不足分は蓄熱方 式を採用することにしたのだ。潮の満ち干や気圧変動速度も関係してくることが分かり、多方面に目を配らせなければいけないことを学んだ。今考えればセレンディピティの 賜物だが、コツを飲み込むとセレンディピティはその後も何回もやってきて、会社の業績に大きく貢献できたと思っている。今まだ会社が残っているのもこのセ レンディピティのおかげであると密かに思っている。



荷役開始時の熱収支

荷役開始時にはポンプ吐出弁を絞って荷揚げ速度を一定にするため、吐出弁の絞り損失はhendに 相当するまで絞られる、したがって荷揚げ配管損失hfrictionも含め、ちょうどポンプ動力に相当する動力エネルギーのすべて が熱となる。これ に加えるに初期の位 置のエネルギーhinitialが熱 になる。だから

荷役開始時のボイルオフ Qb2 = Qtanker + 860W + 2.34VShinitial + Qpipe + Qtank- Qreplacement

ここで

Qb2> Qb1 

Qb2で温められた液は比重が軽いため、タンク上層に溜まり、逆転層をつくる。したがってQb1に 向かって次第に減少する温度の下層はタンク底部のとどまり対流が止まる。

逆転層のためにBOG量とは直接の関係を持ちえない。したがって蓄熱方式でBOGを抑制する必要がでてくるのだ。

蓄熱方式でピークシェーブする設計容量 = Qb2-  (Ptank -Ptanker )(dt/dp)Cp

ただし (Ptank - Ptanker) <10% of tank design pressure

dt/dpはクラジウス・クラペイロン式の逆数

Cpは定圧比熱

貯蔵時のボイルオフは Qnormal = Qpipe + Qtank

こうしてジャパン・エナジー(旧日本鉱業)の水島製油所内に建設したLPG輸入基地が受注第一号となった。その後、 共同石油の同様の施設ではプロパン・ブタン混合吸気オープンサイクルも提案して千代田ーT火熱グループは日本最強のチームになった。

BOGコンプレッサーの能力には直接関係ないが、荷役総エネルギー収支を考えてみよう。荷役時間中の液を温める熱はQb1か らQb2に次第に減少する。時間平均すればQb1とQb2の算術平均Qavと なる。

 Qav= (Qb1 + Qb2)/2  =Qtanker + 860W(1−η/2) + 2.34VS(hinitial+hfriction)/2+ Qpipe + Qtank- Qreplacement

一方、荷役中のシステム加熱に使われる総熱エネルギーの時間平均は総ポンプ入力から位置の総エネルギーを差し引いたもの と考えれば。

Qav = Qtanker + 860W - 2.34VS(hinitial + hend)/2+ Qpipe + Qtank- Qreplacement

となる。しかし両者は一致しない。どこがおかしいのかといえば、総ポンプ入力から総 位置のエネルギーを差し引くという熱収支は完全混合系のシステムにのみ適用できるのだ。しかるに逆転層ができてシステムが平衡状態にないときは熱収支のシ ステムバウンダリーを定義できないのでこの式は意味がないことになる。(以上の考察は本論に興味をもった堀居氏の指摘を反映したものである)

ジャパン・エナジーの水島製油所の人工衛星写真をグーグルマップにリンクし表示した。残念ながら航空写真はない。 三角形のタンクヤードの東南の角に3ヶ並んでいるのが冷凍LPGタンクで南岸に逆T字型に見えるのがLPG船着桟ジェッティーである。

 
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サウジアラビアのラスタヌラ港を出港した新造のLPG船が初荷を満載して着桟したとき、それまで間接的に取り合い条件を連絡しあった、三菱重工の設計エン ジニアと桟橋で偶然会ったことは感動であった。トレンチコートを粋に着こなしている主任技師殿の姿はまぶしかった。

こうしてそれまで冷凍LPGタンクのマーケットに君臨していたI社を抜き去り、以後 破竹の勢いで25プロジェクトを受注し、日本のマーケットシェアの60%を占める快挙を上げた。先輩の開いた道の無い場合、物理・化学の原理に戻れば設計 できないものはないことを痛感した。

「専門家というものは先祖が犯した間違いをそのまま踏襲する人種である」

と世界ではじめてガスタービンをジェットエンジンに使う特許を申請し、ガスタービン翼の根元をクリスマスツリー状にして円盤ディスクに隙間を持たせて埋め 込む方式を発明した英国の空軍将校フランク・ホイットルがいっている。ホイットルは蒸気ター ビンを手がけたことがなかったので物理の原則にしたがって溶接加工による残留応力と熱歪による疲労の問題をクリスマスツリー方式で回避しえたが、蒸気ター ビン設計者がガスタービン開発に取り組んだ時、溶接方式にこだわり、失敗した。I社の専門家も蒸気タービン設計者と同じ慣習にとらわれていたのであろう か。

でもこのような思い切った設計を買う決断をした顧客も偉いと感服した。一番札を引いた後のはじめての顧客説明会に出かけ て向こう側の席に座っている担当者をみて目が点となったものだ。大学で同じ 前田研究室の同期の倉見ではないか。そしてその上司は当時課長であった人で後、日本鉱業の副社長になった。倉見も取締役になった。そういう時代であった。

最近ではサイリスタ技術の進化に伴いあらゆるところで変速モーターが使われはじめた。LNGエキスバンダーを変速運転し、エキスパンダー直結ジェネレー ターが変速運転し てもグリッドの周波数に一致させることができる技術が実用化されている。技術的にはタンカー荷揚げポンプに変速モーターを採用し、荷揚げ速度一定になる ように速度制御すれば、タンカー側にとっても受け入れ側にとっても省エネルギーになることは確実だろう。液化基地からタンカーへの出荷ポンプも変速モー ターが普及するだろう。FPSOからタンカーへの液移送にも採用できる。そうすると蓄熱方式で蓄える熱量も減少するだろう。

 

多成分系自己冷凍システム

ボイルオフガス回収系はプロパン・ブタン混合吸気オープンサイクルを採用した。どうせブレンドするのだから同じことだと 判断した。

オープンサイクル

混合吸気オープンサイクルでこの業界に殴りこみをかけたわけであるが、米メジャー、エクソンの日本子会社、T燃料工業の 要求はエンジニアリング会社に自由な設計は許さなかった。プロパンで冷凍クローズサイクルを組み、ブタンはプロパンで冷やすという米国では標準的な設計思 想である。 これはプロパンを冷媒にする通常の冷凍サイクル(逆ランキンサイクルともいう)を組むことを意味する。出荷基地はこうしなければならないが、輸入基地では その必要はないのだ。先輩の犯した間違いをそのまま踏襲する轍を踏んでいたのだろう。子会社の技術のトップは我々の提案を理解し、我々の力量を評価してく れたが、親会社には逆らえないようであった。

逆ランキンサイクル

さてプロパンといっても市販されているものは微量成分を含む多成分系である。オープンサイクルなら1回の気液平衡計算で 済むのに、リサイクル系では何回も収斂するまで気液平衡計算を繰り返さなければならない。まだ電子計算機のない時代である。休日出勤して各成分の比揮発度 をチャート化したK-Value ChartからK値を読み取り、気液平衡をし、マックスウェルのData Book on Hydrocarbonのエンタルピー図を見ながら、計算尺とソロバンでと物質・熱収支をとっていた。これを何回も繰り返すわけだ。冷房も無い部屋で汗を かきかき計算しているとエタンやメタンなどの軽質成分は閉鎖系に蓄積してきて圧縮機の吐出圧力を上げないと全凝縮できない。ちょっとばかりコンデンサーか らガスを逃がしてやると圧力上昇が止まることに気がついた。 これを自己冷凍で再液化するという方法を採用した。以後はそのように設計することにした。無論、ベント配管も必要となるが。

ここで顧客に出向いてオープンサイクルを売り込んだのは省エネだけが目的ではない。真相を白状するとこの面倒な収斂計算をやりたくなかった省力が秘められ ていたのだ。

1968年のベネゼラのクレオール社向けLPG回収プロジェクトではじめて西川氏がIBMの当時のメーンフレーム用に フォートランで書き下ろした今のエクセルにも劣る自社開発プロセスシミュレータで自己冷凍系の熱収支計算をしたことを覚えている。

 

LPG加熱器

冷凍タンクに低温大気圧で貯蔵していたLPGは加圧タンク車に積み替えて市場に送りだすことになる。これらの容器は普通 鋼で造られているため、マイナス5oC以下になると低温脆性でガラスのように割れる恐れがある。低温LPGをどのように加熱するか 検討して最も安価な多管式の熱交換器を使うことにした。海水を比較的高速度でチューブ内を流し、シェル側の流速を抑えると、マイナス40oC のLPGをシェル側に流してもチューブ内面には氷もつかない計算になる。シェル側にはチューブを支持するためのバッフル板をつけざるを得ず、ここの流速が 上がってしまう。そこでバッフルカット部分にはチューブを挿入しないことで解決した。これは計算通りうまくいった。その後ロッドバッフルなどが発明されて ますます設計がしやすくなった。

 

荷役配管

低温LPGのように気化しやすい配管は荷役が終わって放置しておくと液が全て気化して温度も常温になってしまう。船が入 港するごとに冷却すると冷凍負荷もそのとき増えるし、配管も伸びたりちじんだり、保冷材も動いて剥離するなど問題が 多い。そこで常時冷却しておくことになる。50%の容量の配管を2本敷設して常時循環しておくことも考えられるが、建設費もかかるし循環動力も冷凍負荷に なって不経済だ。そこで配管にゆるやかな勾配をつけて敷設し、一番高いところに液面計をつけて船に送る置換ガス用配管に蒸発ガスをぬく仕掛けを考案した。 これはうまく作動し、以後全てのLPGとLNG基地に適用するようになる。

それから配管の熱応力緩和用のループは水平に設置すべきものと定めた。これも大切でそうしないと船の荷揚げポンプのヘッ ドでは配管のプライミングすらできなくなる。後日、三菱化成から鹿島コンビナートに建設したエチレン出荷設備の出荷ラインにポンプで液を送り込めないが原 因はなにかと問い合わせがきた。もしかしたらループを縦にしてはいないでしょうねといったところ、縦にしたという。それならいまさら横にもできないでしょ うから立ち上がりの高いところにガス抜きベントをつけてそこからガスを抜けばプライミングはできますよと教えたことがあった。

 

コンプレッサーの鋳物欠陥

何回目かの共同石油プロジェクトの時、完成間際のコンプレッサーの鋳物製シリンダーに”す”があることが判明した。鋳物 を作り直していては船の入港に間に合わない。詳細に検討してそのままつかっても問題ないと分かったときはホッとした。

 

創業社長の直接指導下に入る

親会社のM商事が冷凍LPG輸入基地を神戸に建設することになったとたん創業社長が自ら設計の監査をすると言い出して社 内中が大騒ぎになった、それまで独立愚連隊が勝手なことしているが問題も起こさないのでマーよかろうということであった。しかし親会社のプロジェクトであ る以上、ほうっておけなかったのだろう。設計思想と設計マニュアルを作成して提出せよという下命がまず下った。何枚か書いて提出すると直接対面の審議会を するという。役員室に呼び出されてかしこまって座っていると提出した書類が赤鉛筆の書き込みで真っ赤のいなっている。ドジを踏んだかと緊張したが社長は感 心したところには山印をつけるのだと知って一安心する。威張った態度でご下問があるが、どうもわからないところを理解しようとしているのだとわかり社長が 急にかわゆくなってしまった。

土木部長だった土連さんが予定地は埋め立て地でもあり、特に岸壁近くは地震時に海側に崩れるおそれがあるので、3基建設 する冷凍LPGタンク基礎のうち一番海側は杭基礎にしましょうという。これには誰も異議をとなえなくて決定した。

タンクは多量のエネルギーを蓄えているので最も危険な構造物である。底が抜けるか、側壁が破壊されれば大惨事になる。底 板を保護するには地盤をしっかりつくることである。これはすでに杭基礎にすることにより確保された。側壁でもっとも弱いところは液抜き出しの配管をつける タンク壁貫通液ノズルである。後年、地中式LNGタンクに採用されようになる天井から吊り下げる方式のポンプはまだよいものがなかった。それにあったとし ても各タンク毎に必要となり、コストが上昇することと 、ポンプのメンテナンスに問題があった。唯一の解決策はノズル本数を1本だけに限定することであった。

 

試運転

荷揚げと貯蔵を中心とするシステムのため、試運転は簡単である。唯一記憶に残っているのはフレアスタックへの点火であ る。ジョン・ジンク社の原始的かつ確実な方式である。マニュアルを読みながら点火するのだ。まずプロパンガスと空気を混合して1インチの配管に流し込む。 しばらくまってこの混合ガスが30m以上あるフレアスタックの頂上に達したころを見計らって点火栓のボタンを押すとヒューという音がフレアスタックの頂上 に向かって上がっていってパイロットバーナーに火がつくのである。この火入れ式は事前試験もせず、いきなりおエラ方にボタンを押してもらうことになり、 おエラ方の度胸試しのようになって心苦しかった。

船が入港するまえにタンクを予冷しなければならない。ローリーで入荷したLPGをタンクの天井に設置したスプレーノズル から噴霧すれば、内部に予め充填しておいた窒素ガスをフレアスタックに押し出しつつ温度が下がるしかけである。この窒素ガスまじりの回収しようのない可燃 ガスをフレアスタックで大気放出するとき、長大な火炎が夜空をこがす。石油精製工場では見慣れた光景であるが、ここ神戸の住民にとっては初体験の光景であ る。案の定、運転司令室では何事かと問い合わせる電話が鳴りっぱなしとなる。 顧客のT所長は

「フレアスタックの火を消すことはできぬか」

という。

「LPGは空気より重いので、焼却放散しないかぎり、かえって危険です。火を消すことはできません。たった一夜の堪忍で す」

と絶えてもらうことにした。

アラビア湾から処女航海してきた真新しい船が着桟し、スプリングロープをウィンチで調節し、あの巨船が1センチの誤差も なく定位置にぴたっと停船するのをみていた 。このときハンフリー・ボガート風に粋なトレンチコートを着た若い紳士に声をかけられた。M商事施設部経由でLPG船の設計者と設計情報の交換をしてきた のだが、この若い紳士がこの船の設計者であった。しつこく船の設計条件を問いただす男はどんな人間か興味を持っていたらしい。お互い全てが計算通りに一発 で納まることを目撃して満足感を共有したものである。

 

神戸地震と液状化を乗り越えて

この施設が1995年1月、神戸地震の激震に見舞われることになる。地震の次の日、緊急救援要請が入って、対策室を臨時 編成し、必要な専門家を現地に派遣した。岸壁が海側にセリ出し、パイプラックは倒壊し、地中に埋め込んである縦型ポンプや周りの化学品タンクも30度くら いに傾いているという。タンクを囲むコンクリート製の防油堤も横に動いて1メートル位隙間が出来てしまっているという。杭式基礎の上に造ったLPGタンク はびくともしていない。しかしパイプラックの基礎が流動化現象で流れてしまって配管がタンク貫通ノズルにぶら下がる格好となってしまい、その荷重で緊急遮 断弁のタンク側のフランジ・ボルトが伸びて、LPGが水道のように流れ出しているという。

数万人いる住民の避難を要請するかどうかの判断がむずかしい。結局派遣したベテラン社員の川島が勇気を出して志願し、伸 びたボルトを火花の出ない真ちゅう製のスパナで締めてことなきを得た。現場に出かけて指揮をとった 海野マネジャーに後で聞いたのだが、球形タンクの取り付け配管が動いてボルトが伸び、そこから漏れ出すLPGが低温用のキルド鋼を使用していない通常配管 を冷やしているのを見たときは肝を冷やしたという。そこで配管が割れ、着火してしまえば、球形タンクが爆弾になるのは過去の外国での事例が示している。逃 げだしたい気持ちを抑えて、移動してしまった配管をおそるおそるウィンチで引っ張り、ボルトを締め、危機を脱出したという。 それからもう10年の月日がたった。

現在どのような状態なのかグーグルで調べると地震の傷跡は完全に修復されて今も昔のままにそこにある。ただ地盤の液状化のために倒壊した沢山の化学品タンクは撤去され大型のタンクに建て替えられているのがわかる。

 
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December 30, 2004

Rev. August 26, 2013

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