目黒界隈の散策

武蔵小山から東京都庭園美術館 経 由五反田まで

2016年4月22日、 萩和会の第7回歩こう会の行事「目黒界隈の散策」に参加。武蔵小山駅10:30集合。

そのコースは武蔵小山駅→林試の森→目黒不動→五百羅漢寺→目黒川→大円寺→行人坂→東京都庭園美術館→池田山公園→ネムノ木の庭→五反田駅  8km

参加者は前研を中心に8名。

武蔵小山駅

武蔵小杉で湘南新宿ラインから目黒線乗り換えたが、非常に長い通路を歩かねばならずここでの乗り換えは避けるべき。



林試の森

クスノキやケヤキなどの巨木が残り、結構立派な森である。どういう由来か調べると西ヶ原に明治11年設立の農商 務省林野整理局樹木試験所から、目黒川支流の羅漢寺川谷戸南側の北斜面の現在の地に植樹を移し、明治33年6月に「目黒試験苗圃」となった。昭和53年に 試験場はつくば市に移転(現・独立行政法人森林総合研究所)し、跡地は東京都に払い下げられて公園として整備されものだという。林試の森から目黒不動にく だる坂道は「石古坂(いしこざか)」という。



クスノキ、ケヤキの巨木


目黒不動

丘の上に建っていてなかなか立派である。江戸三大不動・江戸五色不動の一つ。江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。「目黒」の地名はこの 目黒不動に由来する。そもそも五色とは五行思想の五色白・黒・赤・青・黄である。それぞれの色目を持つ不動尊を意味した。目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不 動、目黄不動の5つある。目黒と目白は知っていたが目赤不動、目青不動、目黄不動もすべて残っている。目黒と目白はその周辺の地名にも使われることになったようだ。

目黒不動は江戸時代に観光地として栄えた。門前町には昭和18年ごろまで、何軒もの芸者屋があったという。青木昆陽の墓があるこ とでも知られているというが気が付かなかった。寺伝では、808年(大同3年)円仁が下野国から比 叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという。ただ東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明であ る。落語の「目黒のさんま」はここが舞台。



目黒不動


五百羅漢寺

建物はモダンなコンクリート造り。当初は536体あったそうだが、現在は305体の羅漢像が残っている。すべてかなり大きな木像。この寺は当初は本所五ツ 目(現在の東京都江東区大島)にあり、徳川綱吉や吉宗が支援したが、埋め立て地にあったため度々洪水に見舞われて衰退し、明治時代に目黒の現在地に移転し たという。寺は無住となった時期もあり、荒廃していたが、昭和13年安藤妙照尼が入寺して、第二次大戦前後の困難な時代に寺を維持した。安藤妙照尼は新橋 の芸者出身で、総理大臣桂太郎の愛妾として知られたが、後に仏門に入った。



目黒川

山手通りを横断し、目黒川に至る。太鼓橋を渡る。上流にアーチ型の目黒新橋が見える。太鼓橋を渡って突き当たり右手には巨大な目黒雅叙園が見える。石川県 出身の創業者・細川力蔵が、昭和3年東京・芝浦にある自邸を改築し、純日本式の料亭「芝浦雅叙園」を経営していたが、目黒坂下耕地一帯を入手し、増改築を 進めて昭和6年)に目黒に「目黒雅叙園」と名付けた料亭を開業したのが始まり。現在は米ファンドのラサール・インベストメント・マネージメント・インクの 所有。

「目黒雅叙園エントランスには「お七の井戸」がある。八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。吉三はお七 の火刑後僧侶となり、名を西運と改め、明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。明王院という寺 院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園に架け明治13年頃まであった。この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じなが ら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。



目黒川


行人坂(ぎょうにんざか)

目黒川から目黒駅に上る急坂。途中に「八百やお七」ゆかりの大円 寺や大手芸能事務所のホリプロがある。ホリプロをWikiで調べると、この芸能プロの経営方針が書いてある。私は今まで芸能人は人気度に応じてギャラが決 まっているのかと思っていたが、じつはホリ・プロは日本の企業と同じく、固定給で古参が大切にされるとあった。例えば和田アキ子。私はNHKの芸能番組を 見ていつもNHKの芸能ディレクターはどこに魅力を感じて、でくの坊の和田アキ子を起用するのか不思議に思っていたが、これで謎が解けた。NHKには何ら 選定基準はなく、無難にホリ・プロの価値観に乗っているだけだと。どうりで面白くない。日本の芸能がガラパゴスであるのもナベ・プロも似たようなもの だからだろうか?日本中のサラリーマンは終身雇用のゆりかごで太平の世の夢をむさぼっているのは自分がその渦中にいたから分かっていたつもだが、ホリプロ の巨大なビルを見るまではまさか河原乞食も太平の世の夢をむさぼっていたとはお釈迦様ではないがが気がつかなかった。どうりで国産もの芸能は面白くなく、 外国の芸能のほうに興味がいってしまう。フランス物はすでに廃れ、最近は英国製のTV映画とハリウッド映画が主たる関心時だが、きょうは2009年ボリ ウッド製の3時間もの「きっとうまくゆく」を観てしまった。インドの工科大学の寮を舞台にした青春物だが結構これがいける。スティーヴン・スピルバーグは 「3回も観るほど大好きだ」と絶賛しているとか。文明のセンターアジアを飛び越してインドに向かうのか?



大円寺


1624年 -1644年、湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。1772年2月に発生した明和の大火・行人坂火事の火元となった寺であることか ら、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。江戸時代後期の1848年になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。明 治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。大円寺石仏群 520躯(釈迦三尊像 3躯、十大弟子像 10躯、十六羅漢像 16躯、五百羅漢像491躯)1780年代、前述の目黒行人坂火事の犠牲者追悼のために作られたとされている。



東京都庭園美術館

ガラス工芸家ルネ・ラリックなどのアールデコ様式の粋を尽くした瀟洒な「朝香の宮」邸跡。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷があった。明治期には一時陸軍の火薬庫が置かれ、後に皇室財産となってい る。宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸(ただし外相は総理の吉田が兼務していたので実質的には総理大臣仮公邸)として1947年 から1950年にかけて使用された。1950年には西武鉄道に払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓公賓来日の際の迎賓館 として1974年まで使用された。1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に東京都に売却され、1983年に都立美 術館の一つとして一般公開されたものだ。白金御料地のうち「朝香の宮」邸跡以外の隣接地は国立自然教育園となって いる。



「朝香の宮」邸



全員集合 三浦氏撮影


芝増上寺子院群

東京都庭園美術館から池田山公園に向かう途中、低地に小さな寺が沢山軒を連ねている区画がある。これを芝増上寺子院群という。増上寺は、江戸時代徳川家の 菩提寺として大きな勢力を持っていた。子院群はもとは塔頭の集まりのようで江戸の防衛線も担ったようだ。


池田山公園


岡山城主池田家の下屋敷跡。付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれた。廃藩置県以降も池田氏の屋敷として使われていた。やがて、池田山付近は宅地 化され、邸宅が立ち並び池田山は山の手有数の高級住宅街として知られるようになった。


ネムの木の庭

池田山にあった皇后美智子の実家である正田家の邸宅跡、遺産の相続税の一部として2001年に国に物納された。品川区がこの地を国から借り て公園化した。

薩摩なる喜入(きいれ)の坂を登りきて 合歓(ねむ)の花見し夏の日想ふ         御歌集「瀬音」より

この歌は鹿児島に旅した時に詠んだもののようだが、正田家の近くにあった清泉女子大の敷地は明治には島津氏の屋敷があったとう記憶もダブルイメージになっているのではと察する。


五反田駅

急坂を下って五反田駅に至る。午後4:00から喉を潤したが、酒の飲みすぎで帰路の東海道線は藤沢で寝過ごし、不覚にも大磯まで行きつく。五反田から山手線に乗った友人Fも新宿を乗り過ごし上野までいって戻ったということだ。

April 23, 2016

Rev. April 26, 2016


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