慶応日吉キャンパス

2015/10/25 慶応義塾タンゴアンサンブルの演奏を聴きに慶応日吉キャンパスに出かけた折、ちょうど50年前の1965年の独身時代に一時住んだ日吉の山の下の会社の寮がどうなったか見に出かけた。

東横線の日吉駅を降りて慶応キャンパスに向かう。会社の寮にはキャンパスを横切って歩いたのである。当時と同じ道順で歩くことにする。記憶にある銀杏並木 は一段とうっそうと茂っていた。1965年当時、私が歩いた時間帯はだれも居なかったが、三田祭のためにものすごい人出だ。さすが人と人とのコネクション を大切にする慶応大学卒業生だ。



銀杏並木

校旗が高々と掲げられた日吉記念館にぶつかったところで右折し、メーンスト リートと直交する慶応高校の前の銀杏並木を突きたりまで歩く。一旦公道に出てすぐ左折する。左手のグランドが切れるあたりに弥生時代住居址群と見覚えのある太平洋戦争当時の高射 砲台の廃墟があった。日吉丘陵の地下には海軍連合艦隊司令部の地下壕がいまでも残っている。 コンクリート製の丈夫なものだ。赤じゅうたんが敷いてあるという伝説もある。
    
月当たりは二手に分かれる。三田会のために動員された係りに聞くと右に下れば慶応の寄宿舎に入り、そこから下の道に出られないという。左にゆけば 階段で下まで降りられるという。そこで左の階段を下りたが、まったく記憶にない坂道だ。そして新幹線が日吉の丘陵の下に掘ったトンネルから出て高架に変わる地点の上に出 る。全く記憶にはないところだ。実は昨日Googleのストリート・ビューで事前調査したが記憶にある建物は一切見つからなかった。

建物のオーナーは当時ちょうど1965年のショパン国際ピアノコンクールで、入賞者となった中村紘子(今ガンで闘病中)のお母さんの中村曜子さんであっ た。印刷会社経営で成功していて、その後、会員制サロン「サロン・ド・クレール」を采配して有名な方だった。階段下に50年住んでいるご婦人に中村曜子さ んのアパートについて聞いてもまったく知らないという。

1時間かけて下の道を日吉駅まで戻ったが、それらしい家は見つからない。逆L字型の2階建てのアパート風の建物だった。この中に個室が並んでいた。帰って地図をみていると簑輪町一丁目の文字が飛び込んだ。記憶にある地名だ。そうすると簑輪町 一丁目33番地にあったことになる。今は駐車場になっている。丁度「藤和ライフタウン日吉」の下になる。多分慶応の寄宿舎からここに下る道があったのはずだが今では通れなくなったと推察できる。ここなら新幹線の高架工事も見えなかったはずだ。

1965年当時はポルシェ博士設計の日野ルノーを中古で手に入れて、日吉の会社の寮からまだ未舗装だった狭い下の道から綱島街道、そして中原街道を通過して赤坂まで通勤していたのだ。

この日吉のとは谷をへだてて慶大矢上キャンパスがある。工科系の学部が入っている。大学院生がとばした、ドローンが新幹線の路線に落ちたとか新聞を騒がせている。

October 25, 2015

Rev. November 8, 2015


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