大庭城址 公園、引地川親水公園、日大付属農場

2009年5月2日(土)

グリーンウッド夫妻は藤沢のY夫妻に誘われて引地川流域の散策に出かけた。江ノ島線の藤沢本町で下車し引地橋から川に 沿って上流に向かい歩き始めた。

<引地川親水公園>

引地川は相模と武蔵の境を流れる境川の西を平行して流れ、相模湾に注いでいる川である。引地川と境川の間は小田急線が敷設されている台地となっている。西 側も台地となってその西を流れ相模川にそそぐ目久尻川と分けている。このように両側の丘の上は住宅地と工場地帯に なっているが、引地川流域 の低地は縄文海進のころは入江だったのだろう。引地川流域の低地では早くから水田が開墾された。平安時代の末期、この地は「大庭御厨」と呼ばれる伊勢神宮 の荘園であった。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉景政(権五郎、景正とも書く)によって開拓され、伊 勢神宮に寄進されたもので、のち子孫は大庭氏に改姓し、代々治めていたという。いまでも低湿地帯で引地川氾濫のときは堤防を溢流させて遊水地とするように 堤防の一部を低くし、溢流で崩れないようにコンクリートで固めてある。この一帯は引地川親水公園と呼ばれている。

河床には一羽の白さぎが魚を狙っている。草深い川岸で釣りに夢中になっている紳士がいる。

引地川の釣り師

<大庭(おおば)城址公園>

川の西側の小高い丘の上に大庭城址があるというので急坂を登る。ちょうど引地川と小糸川が合流する地点で引地川と小糸川に侵食されずに残った三角形の台地 の上である。

この城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘(たて)」 とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、その後反攻され最後まで抵抗するが捕らえら れ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ、大庭氏は滅亡したとされ ていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。

大庭氏の子孫および一族の存続を示す具体的な記録の一つとして、相模国の大庭三郎景連が中国地方、備後の新庄本郷に地頭として任命され、建保元年 (1213年)、任地で築城した事例がみえる。のち大場氏と称した。なおこれも大庭城(または大場山城、本郷城などの別称あり)との呼称が残っている。

扇谷上杉氏の家臣であり江戸城を築城した築城の名手太田道灌が鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に最新の技 術と取り入れ築城工事をおこなったと言われている。しかし相模を侵攻してきた北条早雲によって大庭城は落城する。東相模を制圧した早雲は大庭城を大改修し たが、玉縄城を築城したので利用価値は低くなった、後北条氏が滅ぶと廃城になった。

駒寄、裏門、二番構(にばんがまえ)などの地名が残っているところからも 相当な規模の城であったことが分かる。小高い大庭城址から、当時の新田「大庭御厨」を展望したいと思ったが森が深くなにもみえない。

ここで持参の昼食をとる。

<日大付属農場>

大庭城址公園のある丘を下り、引地川にもどる。秋本橋から東側の丘に登る。秋本橋は地元の食品メーカー秋本食品の創業者が寄付したものと聞く。西沢君を認めて野菜くず処理工場を任せた人だ。橋の 袂に秋本家の邸宅がある。

坂を登ると 引地川と境川の間の台地に広大な日大付属農場がある。ここで乳牛舎を見学。食品輸入商社で働きたいという来年卒業予定の学生から折からの金融危機で就職が 大変と聞く。

日大付属農場の乳牛舎

日大生物資源科学部湘南校舎の食堂で疲れを癒したのち六会日大前駅で解散。


2018年4月2日

<引地川親水公園>

歩く会が引地川千本桜を愛でた後、余力が余った有志のため用意した親水公園沿いの散策コース。六会日大前駅から藤沢本町まで総距離7.39km、累積登り116m、累積下り136mのコース。総計10kmに達することになる。

9年前には日大構内は自由に立ち入ることができたが、守衛が常駐し、一般人立ち入り禁止の看板が出現し、今回は外周道路を歩歩くことになった。

残された雑木林が芽吹く様を愛でながら引地川岸まで下り、親水公園に入ると、土手には見事な桜並木が出現していた。


引地川親水公園

公園内の芝生にはシートを敷いて花より団子のグループも見かけた。どうも最近は千本桜よりこちらの方が人気があるように見受けられた。

<藤沢>

予定通り、藤沢本町まであるいた。まだ余力が残っていたため、結局、藤沢駅まで更に1km以上、歩くことになった。藤沢でTylly'sのコーヒーショップで疲れを癒し、散会。


July 6, 2009

Rev. March 4, 2018


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