大慶寺・寺分・梶原

鎌倉プロバスクラブで郷土史家の内海恒雄氏より鎌倉市寺分にある大慶寺は鎌倉時代創立の大きな寺で室町時代には鎌倉五山に次ぐ寺格として関東十刹として制定された格式ある寺であると聞いた。この界隈は寺分という地名を持つがこれも大慶寺の寺域で大慶寺分と言われていたものである。

関東十刹と聞いて知る人はあまり多くない。現存する寺は鎌倉では瑞泉寺、禅興寺の塔頭として残る明月院と、ここ「大慶寺」だけである。

大慶寺は臨済宗円覚寺派の寺である。大休正念の開山と伝えられるので鎌倉時代の開創である。1512年北条早雲によって焼き払われたが、ご本尊の「釈迦如 来」の頭部だけ焼け残ったとされている。長尾影虎(上杉謙信)の乱などによって寺勢は次第に衰えた。この寺は長く無住の時代が続き、円覚寺の管理となって いた。この寺は固く門を閉ざし境内には竹が生い茂っていた。参道は短いながらも竹林が覆い被さり、昼なお暗い雰囲気であった。

地元の人からも忘れられかけていた寺であったが、1943年に大慶寺の塔頭だった「方外庵」を改称して再興した。近年大がかりな境内整備・本堂新築を行い、全く別の寺のように面目を一新したという。

2009年、8月22日、梶原に住む椿氏から暑気払いの会を開くので氏の邸宅に集まれという檄が昔の仕事仲間に飛んだ。当日は総合知学会の例会の日であったが、学会は休んでこちらに出席することにした。梶原と寺分は隣接して一つの大宅地を形成している。それならついでに大慶寺と大規模宅地造成前の面影が残っているという深沢中学の南斜面を見ようと思い立った。

冷えたお茶500CCを60円の特価で仕入れ、モノレール湘南深沢駅下車、徒歩7分という大慶寺に向かって炎天下を歩く。地図を持ってこなかったため通り 越し、寺分2丁目から3丁目という丘の上の住宅地に入り込んでしまう。住民に大慶寺までの道を聞き、もどる途中、かって車でとおりかかったとき見た Garden Architecture Designのを見つける。ここから丘の下にある駒形神社にかけての斜面にサンプルとしての庭園がしつらえてあってすばらしかったことを思い出す。

Garden Architecture Design

来た道を下り、ようやく大慶寺にたどり着く、事前に閲覧した地元史家のページでは古い茅葺の山門が本堂左手のすり減った石段の上にある写真があったが、そ の山門も石段から下ろされて平地の道路際に復元されて真新しくなっていた。立派であるが歴史の香りは消えうせていた。墓地販売資金が投入されて建物一切が 更新されたようだ。檀家の大きな駐車場が整備されている。

大慶寺

次に深沢中学に向かおうとしたが再び道を間違えて寺分2丁目に入り込む。戻ることは時間的に無理と判断。そのまま寺分3丁目梶原3丁目とすすみ、15: 00椿氏宅に到着。2時間ばかり、寺分と梶原の宅地のなかをウロウロしたことになる。 椿氏宅では午後18:00に総合知学会参加後遅れて参加した大杉氏ともども22:00まで思い出話やするどい時評に花が咲いた。

寺分の北側の山崎から深沢の間の洲埼で第16代執権赤橋守時が率いる6万騎の北条勢は新田義貞の軍と一昼夜に65度戦うが、最後は300人に減って、大将の守時は千代塚で自刃したところだ。


梶原景時

鎌倉に住んで40年、彼の墓所も知らニアミスで時を過ごした。たまたま、NHKの売りの日曜びのよるの番組で丁度梶原景時の最後がとりあげられた。

梶原景時の墓所は深沢小学校裏のやぐら内にある4基の五輪塔が、景時一族の墓と伝えられていと初めて知った。ここなら散歩である距離だ。


August 23, 2009

Rev. August 30, 2022


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