江戸東京博物館

1999年初冬、江戸東京博物館 (Museum Serial No.143) に出かける。JR両国駅すぐ北側にある両国国技館の隣にある巨大な空中楼閣である。バブルの時代、鈴木都政の産物である。おめあては特別展示「日米交流のあけぼのー黒船来るー」展であったが、常設展示が良かった。

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江戸東京博物館と両国国技館

日本橋が原寸大で復元されている。芝居小屋中村屋も良い。江戸城松の廊下と大名と将軍との謁見の間、白書院の段差の付いた床など今まで気がつかなかった発見があった。将軍の権威を見せつける建築物である。

22万人の農民を勢子として狩出す上房の国で行われた将軍の鹿狩の模様も将軍の権威を見せつけるために仕組まれたものという感を持った。江戸でも最大級の大名屋敷だった福井藩松平家の江戸屋模型は精巧に作られている。日光東照宮のような表門、建物群が敷地一杯に建て込んで立てられていたのは意外であった。大火の後再建されなかったというが、贅を尽くしているだけあって、徳川が徐々に疲弊しゆくなかでその余裕がなかったことがわかる。

江戸の町の模型はで良く理解できた。現在の山手線内部はほぼ武家屋敷、寺町で締められ、外が町人の町であった。日本橋が全ての街道が集まるところとなっている。現在の東海道線は江戸では海であったところを走っている。四谷から御茶ノ水、神田に至る外堀は今でも残るが、四谷から赤坂、溜め池、新橋に至る江戸城南を守る堀は失われてしまった。現在の赤坂から溜池に連なる地帯が池であったとは知っていたが、この池が南を守る堀を構成していたわけである。模型で見ると溜め池は浅いながら面積は非常に大きいものであったことが分かる。江戸の上水であった玉川上水が水道橋の近くで渓谷状の谷を渡る巨大な木製の樋の模型もわかりやすい。

江戸の下町の横丁長屋にあった共同の井戸、便所、下水道の模型も分かりやすい。徳川が制定した身分制の最下層だと思っていた非人は実は制度として組織化されており、その下に最貧層として無宿が居たということも初めて知った。「日米交流のあけぼのー黒船来るー」特別展に蘭引が展示されていた。南蛮渡来の還流付き蒸留器である。消毒用アルコールや薬草抽出液の蒸留に使われたものである。写真はグリーンウッド氏が某製薬会社の見学ルートで買い求めた複製品である。

下の本は当時のイラスト入り新聞で紹介された日本の人と風景である。写真が無い時代なので、琵琶湖から流れ出る瀬田川と川船が銅エッチング図で紹介されている。瀬田川は近江八景中「瀬田夕照」と称され、遊船客が多く風光明美であったという。

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日本の農民、瀬田川と瀬田船

明治4年に撮影された江戸城の写真が展示されていた。白壁がはげ、屋根などが波打ち、殆ど廃屋のような外見である。明治維新前からかなり荒廃していたことがうかがえる。このようなことは歴史書に書かれていない。写真のみが正直に描写している。東京となってから太平戦争後までの市民の生活状況を詳細に紹介しているが、終戦直後まで生活水準には大した進歩がなかったことがわかる。生活水準が向上したのは過去30年位のものであることがわかる。

東京を焦土と化した集束焼夷弾の破片が展示されていた。38本が束ねられている6角形の筒状のM69ナパーム焼夷弾の筒の蓋である。グリーンウッド氏も小学生の頃、同じものを友人に見せられた覚えがある。カーキ色の6角形の灰皿のようなものであるが、塗料がたっぷりと塗られた質感に不思議と畏敬の念を持ったものである。

両国に来たついでに上野の芸術大学大学美術館の秘蔵日本画を見ようと上野にでた。ここで因州池田屋敷の表門に出会った。江戸東京博物館で模型で見たばかりの大名屋敷の表門の実物である。もともと丸の内大名小路(現丸の内三丁目)にあったものを明治24年芝高輪台町に移設し、東宮御所正門となり、のち高松宮邸となり、昭和29年にここに移設されたものと説明書きにある。

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因州池田屋敷の表門

1999年11月6日

Rev. August 19, 2007


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