吉良上野介義央上屋敷跡と浅草寺

2005年7月3日、 友人の原氏と両国と浅草に遊んだ。まず手始めに腹ごしらえと汐溜駅から都営大江戸線で築地市場に向かう。地上に出ると目の前には朝日新聞社が建っている。東京都中央卸売市場場外の「寿司大」という店の前に立った。(Restaurant Serial No.262)場外で一番人気のため、路地で立ったままの待ち時間は1時間であった。開店時間は06:00-14:00である。おまかせコース3,650円で大満足。

都営大江戸線で両国に出て江戸東京博物館で開催中のシルクロード展を見る。高松塚古墳の壁画様式は西域の影響大と分かる。

折角両国にでてきたのだからと両国三丁目の吉良上野介義央(よしなか)の上屋敷跡を訪れる。もとは8,400m2の広大な屋敷であったのだが、今は格式を表す海鼠壁(なまこ)長屋門を模した造りの塀で囲まれた狭い一角が保存されているだけである。両国三丁目の上屋敷跡には清水修一郎氏がオーナーの三国機械の本社ビルなど今は一般の会社や民家が占有している。三国機械の社員となったT君と偶然路上で会う。

吉良上野介が民衆に人気がないのは、彼の個性のしからしめるところと安易に理解していたが、実は吉良上野介は高家(こうけ)であったという。司馬遼太郎の「歴史と視点 ー私の雑記帖」によれば、徳川家康は高家という儀典専門の旗本を置き、江戸城を荘重な儀礼の場にして将軍の権威を守る仕組みを作ったという。赤穂の若殿は家康に逆らったから切腹を申し付かったということが分かる。

吉良上野介義央上屋敷跡

都営大江戸線で蔵前に移動し、坂東三十三ヶ所霊場第十三番札所の浅草寺 (浅草寺)に徒歩で向かう。浅草寺は立派な仲見世があるが、山門、五重の塔、本堂などコンクリート造りのため、風情がないのが玉にきず。仲見世裏の蕎麦屋で蕎麦を食して散会。

浅草寺山門にて

坂東三十三ヶ所霊場は現在の東京都には浅草寺一つしかない。鎌倉時代は現在の東京、かっての江戸の地はススキの生える低湿地に過ぎなかったことがわかる。

July 5, 2005

Rev. December 1, 2005


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