鎌倉宮

前に何度も来ているが、2007年4月12日、グリーンウッド氏は鎌倉市が世界遺産への登録をめざしている国指定史跡めぐりをした時に 鎌倉宮にも立ち寄った。

鎌倉宮(大塔宮)は、廃仏毀釈により廃寺となった東光寺の跡地になぜ明治天皇が明治2年(1869年)に後醍醐天皇の第三皇子である 大塔宮(おおとうのみや)・護良親王(もりよししんのう/もりながしんのう)を祀る鎌倉宮を建立したのか、また後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となった日野俊基を祀る葛原岡神社を葛原岡に建立したのか、なぜ皇居に楠木正成の銅像があるかという疑問フルベッキ群像写真に秘められているという説がある。

鎌倉宮

大塔宮護良親王は元弘の変が起きると、後醍醐天皇を援けて吉野、熊野等で鎌倉幕府討幕運動の中心として活躍した。 鎌倉幕府は滅亡し、護良親王は1333年に征夷大将軍となり軍勢を率いて入洛した。その後、足利尊氏との対立を深め、捕らえられ、1334年に鎌倉に下さ れ、足利直義に東光寺に幽閉された。東勝寺で一族870名とともに自害した北条高時の遺児・時行が1335年に鎌倉へ乱入した「中先代の乱」で足利直義が背走する時に護良親王を殺害した。その首は藪の中に捨てられ、その首を葬ったのは理智光寺の住職だった。

鎌倉宮には首塚と護良親王が社殿の背後に親王が幽閉されたという土牢がある。 グリーンウッド氏は2008年11月21日に甥を連れて鎌倉案内したとき、この首塚と土牢を訪れた。土牢の中はかなり深く掘り下げられ、床は平になっていた。ここに9ヶ月幽閉されてた末、結局殺されてしまったわけである。

土牢

理智光寺も廃仏毀釈により廃寺となった。護良親王の墓はその理智光寺跡の谷にあり、宮内庁が管理している。急な石段を登った山頂に、石垣で囲まれた中にお墓がある。

宝物殿は東郷平八郎の「機先を制する者は勝つ」、山本五十六の「至誠奉公」、乃木希典の「忠孝」らの書が展示されていて面白かった。まず言わんとする信念、そして書の上手さである。乃木希典の「忠孝」が 信念といい、書の上手さといい、他の2人に劣っているようにみえた。 山本五十六の「至誠奉公」は敗戦で終わったのでこれも的を得ていない。結局東郷平八郎の「機先を制する者は勝つ」だけが正しかったと歴史が示しているように見える。書など残すものではない。結局物笑いになるのが落ちだ。

護良親王が冑ののなかに忍ばせていたという獅子頭守(ししがしらまもり)も車の安全のお守りにはよいようにもみえた。まだ見たことはないが、毎年10月に特設舞台で演じられる「鎌倉薪能」は大イベントのようだ。

黒文字は世界遺産登録をめざしている国指定史跡

April 16, 2007

Rev. January 20, 2015


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