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1445

フルベッキ群像写真
2014/10/10

オランダ出身でアメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキとその子を囲み、上野彦馬のスタジオで撮影された44名の武士による集合写真は「フルベッキ写真」または「フルベッキと塾生たち」とも呼ばれる。明治元年(1868年)頃、フルベッキが佐賀藩の藩校致遠館の学生とともに撮った可能性が高い写真とされている。

勝海舟、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、岩倉具視、高杉晋作、伊藤博文、大室寅之祐、坂本龍馬、他などの志士たちが写っているとされる。撮影されたのは明治 元年頃とすれば、すでに死んでいた坂本龍馬は誤認だろうし、勝海舟も相良知安の間違いだとされる。しかし大きくデフォルメされたキヨソネの西郷隆盛よりはこの写真の西郷のほうが 本物らしい。志士たちの名前と説明。

ここに大室寅之祐という謎の人物が写っていて明治天皇すり替え説がでてくる。そもそも天皇家の出であると自負する毛利家が万一の政変のために使えるのでは と長州の田布施にかくまっていた後醍醐の子孫を水戸史観に染まった吉田松陰が見つけ出し、伊藤博文に預ける。ここから攘夷派の孝明天皇の子、睦仁(むつひと)親王とすり替え論がでてくる。睦仁の母は権大納言・中山忠能の次女で孝明天皇の典侍の中山慶子(よしこ)

極端な説にはなるが戊辰戦争は睦仁の争奪戦というおかしな説もある。それは徳川慶喜は、1867年11月9日、幕府政治を終わらせて政治権力を朝廷に返上する大政奉還を 宣言する。つまり、正式に睦仁を天皇として、摂政としての徳川家の地位を宣言した。しかし、薩長の反発は強く、睦仁の暗殺を恐れた徳川慶喜と松平容保は、 12月20日、睦仁を連れて二条城から大阪城に移動する。そして、幕府軍艦開陽丸を大阪にまわし、海路で慶喜と睦仁そして(睦仁の父親である?)松平容保 が、軍艦開陽丸に乗り込み大阪を脱出し江戸に逃げた。勝海舟の江戸城を無血開場後、松平容保は、睦仁を連れて会津に逃げた。会津軍と松平容保は、睦仁を 松平家の嫡男として家の存続をするという条件で会津城を開場する。松平家の嫡男となった睦仁は「容大」と名を改め、いまの青森・岩手地方で3万石を与えら れ斗南藩藩主となり、廃藩置県後、華族として明治の時代を生きるというもの。

すり替え論にたてば、なぜ明治天皇が日野俊基を祀る葛原岡神社を葛原岡に建立した不可解な行動が理解できる。日野俊基は後醍醐天皇の親政に参 加し、蔵人となり、鎌倉の葛原岡で処刑されたからである。そして明治天皇が明治2年(1869年)に後醍醐天皇の第三皇子である大塔宮護良親王を祀る鎌倉 宮を廃仏毀釈により廃寺となった東光寺の跡地に建立した理由も、皇居に楠木正成の銅像があることも分かる。

明治天皇妃の諡号で昭憲皇太后(皇后とは呼ばれない)と呼ばれることになる人は孝明天皇の息子、睦仁の奥さんとしてお嫁にきた。幕末に大室が睦仁 にすり替わって明治天皇に成り代わったとき、伊藤・大久保・岩倉はどうしてこの女性を始末しておかなかったのか はわからない。あまりにも忙しくてそこまで手が回らなかったのだろうか。普通なら正后なら「皇后」と呼ぶべきであるが親王が死んだのだから皇太后として処 遇するしかなかった。そしてこの昭憲皇太后は表向きの妃として一生を献身的に送り、明治神宮に神として祀られるのである。したがって大正天皇の生母は昭憲 皇太后ではなく典侍・柳原愛子となる。

ちなみに田布施には秦姓の朝鮮陶工の末裔が多く、田布施および近隣出身者には大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、山形有朋、宮本顕治、河上肇、難波八 助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣岸、鮎川義介、がいる。岸信介、佐藤栄作、安倍晋三はその後継者。鹿児島市にも田布施があり、宗教 法人「最福寺」の池口恵 観の本名は鮫島正純であり、小泉純一郎の父親は鮫島純也である。靖国神社は、1869年6月29日、田布施の出身者によって建てられた東京招魂社が始ま り。

幕末維新のエネルギーは南朝を正統とする尊皇攘夷・水戸学が精神的な支えになっていた。吉田松蔭門下の連中は当然のことながら、西郷も先祖は南朝の菊池氏 につかえた家柄であり、薩長それぞれの政治的なイデオロギーが「南朝の天皇を建て、異人を追い払い、独立を保つ」という共通した基盤に立って薩長連合がで きたと理解できる。坂本龍馬なんてグラバーの使い走りにすぎない。

それではなぜ、明治元年に、伊藤・岩倉・大久保らは、「北朝系の天皇を葬り、南朝(と称する)天皇を担いだのか。正義は我々にあるぞ。」と(五箇条のご誓文 なんか出す前に)高らかに宣言しなかったのだろうか。この明治政府の基礎の基礎の部分で「大嘘」をついてしまったことが、今にいたるまでの現王朝の基本的 な性格(何かとこそこそ内輪だけで・小手先だけでごまかそうとする性格)を形作ってしまったのではないか。

フルベッキとキヨソネの墓は青山墓地の外人区画にある。

以上:第7代宮内大臣中村雄次郎(1920年)を曽祖父にもつ鎌倉プロバスクラブ会員吉野氏の2014/10/10の卓話とネットに沢山あふれる情報から。

吉野氏のアレンジで2015/2/20鎌倉プロバスクラブのメンバー20名が明治神宮と絵画館に出向いた。明治神宮の研究所長や神官、元侍従まで参加して 大変丁寧な説明を受けた。彼らは皇室を守る官僚のため当然、フルベッキ仮説を知らないはずはないが表向きそれにふれることはない。

絵画館の85画の原画はすべて二世五姓田芳柳が描いた。前半生は日本画、後半生は洋画家が描いた。日本画家選定委員の横山大観、川合玉堂、下村観山の三委員が辞職したため、画家選定は大荒れしたという。

吉野氏は絵画館を視察したのち、睦仁親王が暗殺され大室寅之祐に入れ替わった時期と場所は明治天皇が東京に行幸するとき、農民の稲作作業を視察する絵があ るが、このような時に行われたのだろうと推論できるという。下手人は伊藤博文。これを知っていたのは岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文だが皆病死か暗殺で死 んでしまった。

明治16年岩倉具視の咽頭癌による死の1日前に明治天皇が見舞う図は壮絶なものである。享年59才。

すり替えを知っていた皇女和宮は明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の箱根で塔ノ沢で薨去(こうきょ)した。32歳という若さであった。口封じのための暗殺とされる。昭憲皇太后は無論知っていたが、献身的に皇后を演じ続けた。なかでも武士階級の子女が女 工として働く富岡製糸に馬車で1週間かけて往復したのは絵画館でも出色の絵として残っている。山形有朋だけが生き残ってその成果を刈り取った。

フルベッキ写真そのものはおかしくないのだが、誰それと同定した間違いがある。例えば坂本龍馬はすでに死んでいるはずなのに写っていることになっている。

一方、フルベッキ写真について、十年程前に写真入手、写真鑑定に知識のある人に真贋を見て貰った所、完全捏造、張り合せ写真と認定した。腕が重なっている、刀の流れがオカシイとか、色々証拠を挙げていた。当時は説得力ある論証と思い、写真追跡は止めたという話しもある。

参考文献:

鹿島昇「裏切られた三人の天皇―明治維新の謎」(新国民社)

斉藤充「フルベッキ群像写真と明治天皇すり替え説のトリック」(ミリオン出版)

大野芳「伊藤博文暗殺事件―闇に葬られた真犯人」(新潮社)

落合莞爾「明治天皇“すり替え”説の真相: 近代史最大の謎にして、最大の禁忌」 (学研パブリッシング)

落合莞爾「南北朝こそ日本の機密ー現皇室は南朝の末裔だ」(成甲書房)

加治将一「幕末 戦慄の絆」(祥伝社)、「幕末 維新の暗号(下) 群像写真はなぜ撮られ、そして抹殺されたのか」 (祥伝社文庫)、「龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン」 (祥伝社文庫) 、「舞い降りた天皇(上) 初代天皇「X」は、どこから来たのか」 (祥伝社文庫)、「 幕末 維新の暗号 」

鬼塚英昭「日本のいちばん醜い日」(成甲書房)

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Rev. November 10, 2018


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