伊吹山*・大台ヶ原山*・飛鳥・橿原

2013年5月に後期高齢者が車で登山できる大台ヶ原山車登山を 企画し、2014年5月に実行した。しかしグリーンウッド氏は身内の不幸で不参加。これに同情した仲間がもう一度一緒に挑戦してくれると いう。これには感謝。ついでに、車で登山できる伊吹山を加えた。これで百名山が一挙2つ増え56山になる。

しかし、伊吹山山頂までゆくバスは7月に入らないと動かない。タクシーで3合目ま でタクシーで行き、そこから歩き始めることも検討したが、標高差600mは時間的に無理。結局、レンタカーで米原から頂上往復とした。

飛鳥・橿原は折角遠路出かけるのでと、前回まわらなかったところを電動アシスト自転車で回るのが目的。

参加者は和田、榎本、秦、青木。


第一日 2015/5/18(月)

4:30起床、鎌倉高校前5:30発→(江ノ電)→着5:46藤沢6:08発→(東海道線)→着6:42小田原

小田原駅でひかり3号車内で東京出発組みと合流。

東京発6:26→(ひかり501号)→小田原発7:04→着8:19名古屋→着8:48米原

予定通り、米原西口のトヨタレンタカーでビッツを借りる。ナビは標準装備だが、ラ ジオはない。ブレーキがジープより効きすぎる。(滋賀県米原市下多良2-50 ・貸出店舗電話番号0749-52-1000)

9:30発米原西口トヨタレンタカー⇒米原IC⇒米原JCT⇒関ヶ原IC⇒(国道365号+伊吹山ドライブウェイ)⇒伊吹山山頂駐車場→着10:30山頂

伊吹山ドライブウェー入り口までは難なく到着。しかし伊吹山ドライブウェーは予想に反して見晴らしがよく、高所恐怖症のグリーンウッド氏にとっては緊張の ドライ ブとなった。見晴らしの良い原因は急斜面の山腹やナ イフエッジのような稜線の上にルート取りをしたことと、山体自体が石灰岩のため、巨木が育っていないためと考えられる。途中の見晴のよい場所でも一時停車 もせず、あっという間に山頂駐車場に乗り入れてしまった。

車を出ると気温は低く、山頂はガスに覆われなにも見えない。駐車場から山頂まで強い風の中を更に100m登る。3本ある登山道のうち、中央遊歩道という最 短距離のルートを登った。花は白いニリンソウ、黄色のキンポウゲ、紫色のタチツボスミレの3種しか見られなかった。



ニチリンソウ

山頂と山頂駐車場を結ぶ三相ケーブルの敷設作業をしていた。頂上に数トンのケーブル・ボビンを降ろし、ピットから埋設管の中に引き込む人力作業だ。頂上の 食堂などの電力を供給線に使うためだろうか?

山頂にいまだある深田久弥が「お気の毒くらいみっともない作り」と評した日本武尊(やまとたけるのみこと)の石像の前で記 念撮影。



山頂にて


ガスがかかっていたので同じ道を山頂駐車場まで下る。発12:30山頂駐車場⇒(逆コース)⇒着13:30米原西口トヨタレンタカー

ガソリン代は750円であった。安い!



左上のGoogleマップで見るボタンを押し左上に出る関連ツールの地形を押せば等高線がでる


米原発13:51→(ひかり513号新大阪行き)→着14:11京都

「ひかり513号」の車窓から信長の安土城のあった安土山を見ようとしたが、手前の徹山の陰に隠れて見えない。次に中山道と東海道が合流する草津宿も探し たがあっという間に通り過ぎた。近鉄はコストダウンのため、徹底して特急を忌避。

京都発14:40→(近鉄京都線急行)→着15:55橿原新宮前

橿原新宮前15:58発⇒(近鉄吉野線急行)⇒大和上市着16:48

歌藤迎車で15分 七曲がりを登ったところにある旅館 歌藤(かとう)泊 (Hotel Serial No.533)

歌藤宿の女将が鈴木の軽で豪快にヒルクライムする尾根道の右側にかなり立派な吉野神宮を発見。明治天皇が後醍醐天皇を祀るよう明治22年に創立を命じたも のらしい。神武天皇を祀った橿原神宮と同じ扱いのようだ。ただ観光に訪れる人もなく、閑散としている。

チェックイン後、2009年5月、吉野山訪問時に訪れた金峯山寺の蔵王堂まで往復の散策をした。大塔宮護良(もりなが)親王がここに 籠った時は兵火にはかからなかったが1348年、高師直(こうのもろなお)の軍が焼き払った。現在の蔵王堂は豊臣家の寄進 で再興されたもので、1592年の建立。義経も吉野に逃れている。

途中、金峯山寺の総門である黒門がある。世界遺産の「銅の鳥居」(かねのとりい)は室町時代の再興という。室町時代の 1456年の再興の仁王門は修復中であった。夕食後風呂を浴びて、すぐ眠りに落ちる。



銅の鳥居


金峯山寺蔵王堂

歌藤には18日と20日 2度宿泊  20日に大台ケ原から帰って再び泊まるので1部荷持は預 かってもらう。榎本さんの尽力で吉野町の補助金制度を利用して、宿泊費は半額。


第二日(5/19火)

夜半から雨が激しく降ったが、日が登ると小雨になる。

朝食は見晴しのよい、ログハウスで摂る。



ログハウスにて


旅館 歌藤の女将の車で8:15出発→着8:30 大和上市駅

大和上市駅発9:00→(バス 2000円)→着10:50大台ケ原ビジターセンター

バスは吉野川北岸を宮滝まで東進して初めて吉野川を渡り、熊野の山中に分け入る。宮滝は縄文時代からの遺跡があり、その後の飛鳥・奈良時代の吉野宮もここ にあったとされている。T期が天武・持統朝のもの、U期は聖武朝前後のもの、V期は昌泰元年(898年)の宇多上皇の行幸に関連するという。「壬申の乱」 はここで練られてはじまったとされる。

バスは谷間を1時間走る。大滝ダムが作る長大な湖の中程に川上村があり、ホテル「杉の湯」が隣にある。次に大迫ダムがあり、伯母谷トンネルに入る。途中伯 母谷ループ橋を渡り高度を上げる。



伯母谷ループ橋


バスは大普賢岳の登山ルートになる和佐又山ヒュッテに行く人のために新伯母峯トンネルをくぐって登山口入口までゆき、そこでUターンしてわさび谷に戻って から大台ケ原ドライブウェイを登り始め る。始めのうちは伯母ヶ峰の北側斜面を登るが、伯母ヶ峰峠を越えた後は南側の見晴しのよい尾根道を走る。西側を南北に走る大峰山脈が壁のように横たわって いるはずだ が、何も見えない。

大台ヶ原山上駐車場でバスを降り、「心・湯冶館」でスパッツを着用し、余分な荷物を乾燥室に置き、トウヒ群落を主とする「東大台」周遊に出発。昭文社「山 と高原地図」の標準時3.8時間9kmのコースだ。



大台ヶ原ルート図

長年の経験で後期高齢者は昭文社の標準時の1.3倍かかる事がわかっている。とすると5 時間かかることになる。11:20発とすればビジターセンター着16:20のはずである。「西大台」入山の為の事前受講義務があるレクチャー受講は16: 00- 16:30となっているのだから「東大台」全て回るには無理があるのに計画段階で気がつくべきだった。ところが昨年は足が遅い人がいたが今回は不参加とい うことで気が緩み、事 前検討不足のまま漫然と出発してしまった。出発時はようやく小雨も止んだがガスがかかったままである。

先頭を歩いた青木は初体験で、いきなり出会ったこの山独特のシンプルな標識を読み違えて日出ヶ岳に向かうべきところ、尾鷲辻に向かってしまった。気がつい て戻るまでに30分余計にかかっている。

展望台を過ぎ最高地点に向かって登ってゆくと下ってくる吉村隊(後で親しくなる)と行き違う。

最高点の日出ヶ岳からは大峰山脈と尾鷲の入江を見晴らせるはずであるが、ガスがか かったままでなにも見えない。運が良ければ日ノ出前に富士山のシルエットを撮影できるという。山頂の三角点を抱えて記念撮影し、物見台の下で昼食とする。 山頂で大杉谷に下ると言う若者2人に会う。



山頂にて


大正6年からは、四日市製紙が東大台の約200haのヒノキを皆伐に近い状態で伐採したという。切り出した木材を馬で引かせるため切り拓いた鉄製 のレールなどが今も西大台の登山道の脇に残っているという。1959年の伊勢湾台風で倒木となったトウヒ群落を下って正木嶺に向かう。1961年の第二室 戸台風の被害も大きかったという。ガスが 次第に晴れて大台ヶ原駐車場が見えるようになる。



駐車場の遠望


1965年に本州製紙の伐採計画が具体化してから自然林保護運動が活発化し、1974年に奈良県が本州製紙から670ha買い上げ、24haを寄付採納。 1975年には更に142ha買い上げ。1984年に環境庁に移管したという歴史があるところだ。

登り返すと正木嶺だ。正木ヶ原と下って尾鷲辻に到着。尾鷲辻の名は大 峰山脈と尾鷲の入江を見晴らせることからついたようだ。先行していた吉村隊が尾鷲辻から駐車場に戻ろうかと話しあっていたが、われわれ和田隊が大蛇ーに向 かうと聞いて安心したと言ってついてきた。

牛石ヶ原の広闊な原に神武天皇の巨大な銅像を発見。その前で記念撮影。この銅像は大台教会の設立に尽力した田垣内政右衛門氏が昭和3年に建てたものだと後 に知る。



神武天皇の巨大な銅像前にて


大蛇ー(ぐら)の岩鼻の上に立つと眼下は深い谷に落ち込み、眼前には蒸篭ー(せ いろぐら)、千石ーの絶壁とそこにかかる名瀑100選の中ノ滝を見る。



大蛇ーの岩鼻から展望した西大台ヶ原と中ノ滝


中の滝は西大台ヶ原の中心を横断している中ノ谷とナゴヤ谷の水がシオカラ谷に落下しているのだ。



大蛇ーの岩鼻の上にて 秦さん撮影


いよいよ帰路に着いたときは16:00に始まる講習会まで1時間の15:00であった。シオカラ谷に先に向かった吉村隊が間に合わないと引き返し てきた。彼らに従ったら、多分講習時間に間に合ったろう。しかし時刻と等高線の記入のある昭文社の地図を事前につぶさに見ていない青木は手持ちの絵地図で は距離的に同じだからそのままで良いのではないかと一言。結局、全員シオカラ谷に向かう。しばらくして高低差160mの標識を見て愕然と間違った判断だっ たと悟ることになる。これでは講習開始時間に間に合わない。吉村隊と話しあってそれぞれ代表が先行し講習会開始時刻を遅らせてもらうことに合意した。シオ カラ谷の谷底には吊り橋がかかっていた。ここまで160m下り、再び160m登ったのだからしんどい。

吉村隊の代表と和田隊の後期高齢者の青木が標準時間1:20を1:00で駆け抜け、かろうじて講習会開始時刻に間に合わせ、講習会開始時刻を30分遅らせ てもらうことに成功。携帯でその旨連絡する。

志賀県から自家用車で来た吉村隊の全員は和田隊より10才若いので15分遅れで到着。和田隊の残り2人はこれもまだ若いので30分遅れ で到着。しかし残りの後期高齢者1名が姿を現さない。携帯電話もザックの中にしまっているのか不通である。

講習会の講師の福島さんは残り1名を連れてくる までは講習会は開かないと宣言。やむを得ず青木が約150m戻り、大声で呼ぶも、姿は見えない。サジを投げて疲れ切って帰るとようやく行くへ不明の後期高 齢者から携帯がかかってきた。「心・湯 冶館 大台山の家」に間違ってきてしまったという。これでスワ遭難かと心配していた福島講師が肩の荷を下ろした様子。受付の岡本嬢が600m先の「心・湯 冶館 大台山の家」まで救出に向かってくれた。「心・湯冶館 大台山の家」は今は使われて居ない空家なのだが、左駐車場へ300m、右へ300mと看板が あったから建物の見える方に向かってしまったとのこと。「心・湯冶館 大台山の家」も駐車場に隣接していると期待したのだが、森の中に孤立した建物であっ た。ここで観念して携帯をザックから取り出して電話したのだと聞く。岡本嬢は看板をみてこれでは間違いますねと言ったそうだ。吉村隊とビジターセンターの 方々 に大変迷惑をかけてしまったのは申し訳ない。すべてこの登山をなめてかかった私の大失敗であった。

1時間遅れで講習開始。福島講師はたとえ開始時間が遅れても全員に話を聞いてもらうことにしているとのこと。なぜなら、西地区は自然保護のために踏み固め 道し かなく、案内標も分かりにくいためだという。西地区ではまだ行くへ不明者はでていないが、この山ではすでに4名の行くへ不明者がいるとのこと。 滋賀県から自家用車できた吉村隊の知人もそのうちの一人のようだ。西地区ではとにかく固まって行動するようにとの言葉をかみしめる。



和田隊全員と福島講師と岡本嬢


「心・湯冶館」では夕食時、吉村隊に詫びのビールを差し入れる。また前回に学び、翌日の「西大台 利用調整地区」周遊のための朝食と夕食を用意してもらう。風呂で汗を流し、熟睡。


第三日(5/20水)

西大台は自然保護のため、休日50人/日、ゴールデン、新緑シーズン期休日100人、平日30人/日、ゴールデン、新緑シーズン期平日50人とい う入場制限があり、事前申請が必要。申請はhttps: //nishiodai.env.go.jp/agreement.htmlで仮申請(予約)を行い、申請書をダウンロードし署名又は押印をし て、指定認 定機関まで送付するという手順を踏む。心・湯冶館予約は07468-2-0120  冬季休業中は090-3056-1695  4名利用の場合9,240円

朝食と昼食2食を持って6:00出発。駐車場の西からウラジロモミ・ブナ群落を求めて下り始めると、大台教会なる日本式寺院らしい建物がある。明治32年 に古川嵩(ふるかわかさむ)氏が、多くの人々の支援をうけて開設した福寿大台教会だという。大台教会の設立に尽力した田垣 内政右衛門氏の子孫が教会を守っている。



大台教会


福島講師の情報通り、早朝は管理区域への入り口には監視員がいないので、入り口のロープは自主的に外し、もとに戻す。そして推薦通り、反時計回りに歩い た。このほうが傾斜の大きい斜面を下るリスクが少ないためという。昭文社の標準時間では開拓分岐点で折り返した時は3時間(後期高齢者4時間)、展望台往 復を含め4時間(5時間)である。展望台往復を含めても時間的 には東と大差ない。しかし風邪気味の人もいるし、疲れも溜まっていることも考慮し、開拓分岐点で折り返した。

往路も復路の渡渉点が沢山ある。多くは石伝いで歩くことになる。



渡渉点


前回の挑戦時は七ツ池まで到達したが、そこで引き返したという。

明治2年、京都宇治興正寺の寺侍竹崎官治らが高野谷を開拓し、蕎麦・栗・稗・大根・馬鈴薯などを栽培したが、馬鈴薯以外は不作で開拓は失敗したという開拓 跡に着く。農耕に適する平坦な土地だ。ここからワサビ谷の湿地帯にそって歩く。バイケイソウが群生している。



開拓跡


ここから南下して開拓分岐点に着く。西地区で一番低いポイントで駐車場より300m低い。展望台往復はここで断念。



開拓分岐点 秦さん撮影


開拓分岐点を過ぎてしばらく歩くとワサビ谷にかかる錆びた吊り橋を渡る。その次はヤマト谷にかかる吊り橋だ。以降急登攀となる。



ワサビ谷にかかる吊り橋


帰路、女性の巡視員に会う。講習受講済入山者の名簿を持ってチェックされる。毎回車で下から通勤しているとのこと。



巡視員と

中ノ谷渓流にかかる木橋で昼寝。空には雲一つなく、新緑が美しい。



新緑


6時間後の12:00にゲート着。そこで前回に会った巡視員のイケメン森川君がゲート・キーピングしていた。森川君は奈良山岳自然ガイド協会の登録ガイド 資格を持ち、大普賢岳の登山口である和佐又山ヒュッテの経営が本職。福島講師の親類でもあるという。



ゲートにて


バスまでの時間がまだ3.5時間もある。そこで無事帰着したことを確認するための入山証ケースをビジターセンターに返却する前に通りかかったレストハウス に入り、「ぜんざい」を楽しんでいた。そこへ福島講師が現れた。「後発の吉村隊が帰ったので和田隊に合わなかったか聞いたところ、会わなかったというので またどこかに迷い込んだか心配になって、確認にきた」のだという。またまた失敗。勝手な行動をして周りに迷惑をかけたと反省。昨日救出された後期高齢者は 岡本嬢にチョコレートを持ってお礼にでかけた。

宿に戻り、帰り支度。それでも時間が余ったので苔探勝路も一周した。これで全部歩いたことになる。

大台ヶ原発15: 30発→(バス)→着17:20大和上市

宿 歌藤 の迎車にて15分 旅館 歌藤泊

夕食後、明日の訪問先とルートを相談。原則として昨年未訪問のところとした。加えて箸墓古墳も加えさせてもらった。電動アシストではバッテリーが空になる 可能性あるため、JRを併用することにした。

このとき、榎本さんは持参のiPadで時刻表を調べるなど大活躍。

夜は再び小雨だったが熟睡。


追加情報

2019/11/12 のTV番組で100年まえ、三重県の林業組合はトロッコやケーブルを大台ヶ原などに敷設し、林業資源を運んだという。その後は大台ヶ原山頂近くまで達して いたという。現在はトロッコやケーブルはトラックにかわった。英国の産業革命のときの運河が鉄道に変わったのと同じ。

またNHK番組は再整備された大杉谷ルートを登る番組を楽しんだ。




第四日
(5/21木)

宿 歌藤 の車にて大和上市へ

大和上市9:11発→(近鉄 吉野 急行 大阪阿部野橋行き)→着10:03橿原神宮前     

橿原神宮前ショップ⇒久米寺⇒橿原神宮⇒山田寺跡⇒聖林寺⇒桜井駅→(JR桜井線)→巻向駅⇒箸墓古墳⇒巻向駅→(JR桜井線)→桜井駅⇒御厨子山妙法寺 ⇒藤原宮跡⇒善行寺⇒橿原神宮前ショップ

久米寺の開基は聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)とも久米仙人とも伝わるが、詳細は不明である。空海(弘法大師)が真 言宗を開く端緒を得た寺として知られる。娘のふくらはぎに見とれて空から落ちたという久米仙人の伝説が残る。重要文化財の多宝塔がある。



久米寺の多宝塔


隣の橿原神宮に立ち寄るが明治政府のフィクションに付き合うつもりはさらさらなく、境内は自転車乗り入れ禁止ということなので鳥居のまえで写真を撮って御 暇する。



橿原神宮


天香久山を左に見ながら、飛鳥川を渡って東進すると道はやがて登り坂になる。そこに山田寺跡があった。舒明天皇13年(641) 蘇我馬子の孫の蘇我倉山 田石川麻呂が発願した一族の氏寺である。

折角電動アシストサイクルを借りたのに、スイッチ入れ忘れて、汗を書いた人がいた。



山田寺跡

聖林寺の訪問目的は国宝十一面観音像を見るためである。像高209.1cm。木彫りで像の概形を作り、その上に木屎漆(こくそうるし、麦漆に木粉等を混ぜ たもの)を盛り上げて造像する木心乾漆像で、奈良時代末期の作である。明治維新の廃仏稀釈の破壊を逃れて三輪明神(大神神社)の神宮寺であった大御輪寺か ら移された客仏である。明治時代に来日した哲学者、美術研究家のアーネスト・フェノロサが激賞したことで知られるようになった。和辻哲郎も『古寺巡礼』で この像を天平彫刻の最高傑作とほめたたえている。



聖林寺から見る三輪山(右手)と箸墓古墳(左手の前方後円墳)


聖林寺は奈良盆地を見下ろす丘の中腹にある。山門脇から北方を望むと三輪山と箸墓古墳が良く見える。

坂を下ってJR桜井駅まで下りここで自転車には鍵をし、サンドイッチを買ってJR線で巻向駅に向かう。巻向駅西方400mには巻向小学校があり、その校舎 の北側に纏向石塚古墳という古い前方後円墳があるが、これはパス。まっすぐ箸墓古墳にむかう。箸墓古墳は卑弥呼の墓かもしれないと言われて いるものだ。しっかりしたかなり大きな前方後円墳である。



箸墓古墳にて


纏向石塚古墳の南の溝から熱帯アジア原産のバジルの花粉が確認されたと2015/5/14の新聞で報道された。中国王朝との交流で手に入れたのだろうと推 測される。

2018/5/15には 纏向遺跡の大型建物跡近くで発見された桃の種をC14年代測定したところ西暦135-230年と判明したという。卑弥呼の時代に一致するが吉野ヶ里遺跡の 発掘をしている佐賀城本丸歴史館長は纏向遺跡からは鉄製の素環頭大刀や大きな鏡など中国との外交を物語る出土物がほとんどなく、これだけでは邪馬台国の決 め手にならないと反論している。こんな奈良盆地の奥と中国大陸との交流があったのは卑弥呼の時代に瀬戸内海経由なのか日本海経由なのだっ たのか。

桜井駅に取って返し、自転車で藤原京に向かう。途中、天香久山の北側で御厨子山妙法寺なるものに立ち寄る。西暦716年に右大臣吉備真備(き びのまきび)発願の寺とある。元西国29番霊場でもあったようだ。

そのまま緩やかな坂を下りながら西に向かうと耳成山の南側に藤原宮跡があった。この辺りはかなり低地である。



藤原宮跡


その後、善行寺前を通り、南下して飛鳥川にぶつかる。この飛鳥川は飛鳥の低地を形成した川で、万葉集(巻4-626)「君により言の繁きを 故郷の明日香の河に禊(みそぎ)しにゆく」(君尓因 言之繁乎 古郷之 明日香乃河尓 潔身為尓去)と八代女王(や しろのおほきみ)が聖武天皇(しょうむてんのう)に 献じたあの「明日香の河」だが、ただの小川である。ここで左折すべきところ、右折して土手を北西に向かい、次の橋を渡って西に向かってしまう。南下してい るつもりだったのだがと近鉄橿原線を横断して間違いに気が付く。そのまま西にゆくと神武天皇稜にぶつかってしまう。とってかえして国道169号を南下して 橿原神宮前駅に戻る。

もし方角間違えずに南下していたら本薬師寺跡を通過できたはずだ。ここにポリテクセンター奈良がある。この立て替えにともなって発掘調査をしていたとこ ろ、二世紀中頃とみられる直径19mの円形の墓がみつかったと2016/5/12に公表された。円形墓を囲む溝の南側が陸橋になっており、古墳時代に造ら れた鍵穴型の前方後円墳に似ている。この遺跡は「瀬田遺跡」と名付けられた。纏向石塚古墳より数十年古いという。3世代目が箸墓古墳となる。

神話の人物の墓がなぜ神武天皇稜として現存するのだろうか?疑問に思って調べた。

江戸時代の初め頃、神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃、幕府は天皇陵を立派にすることで、幕府の 権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが、畝傍山か ら東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった。(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の 上ではなく平地にあるので、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」というところにある小さな塚を現在の神武陵としたよ うだ。

因みに水戸光圀は「やじさんきたさん」をつれて全国を行脚したというのは俗説で実際に旅をしたのは江ノ島・鎌倉だけであったという。その旅の記録が出版さ れて江戸時代の江ノ島・鎌倉ブームを喚起したという。

橿原神宮前17:07発→(急行)→着18:18京都駅

京都18:33發→(新幹線ひかり532号)→着19:25名古屋→着20:37小田原→着21:10東京

橿原神宮前で奈良名物の「柿の葉寿司」を買ったが、時間があるため、京都駅で夕食として「天ぷら蕎麦」を摂る。

May 2, 2015

Rev. Novbember 12, 2019


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