別所温泉と塩田平

2010年の2月23-24日、急に誘われてミニ「笹の実会」に出席した。足の故障でしばらく「笹の実会」に出席できな かった長田さんを囲む仲良し4人組みが別所温泉に出かけようということになった。ミニバンを所有する矢沢にアッシー君になってくれと持ちかけたところ一人 ではいやだと女4人、男4人で出かけることになっていた。しかし突然 、矢沢の都合が悪くなって、ピンチヒッターとして呼び出されたのである。

丁度帰郷しようと思っていたのでこの話にのった。東京からの参加組はグリーンウッド氏とスーチーだ。

第1日

上田駅で11:47に落ち合い、宮沢のミニバンで別所温泉に向かう。塩田平の中央で手打ち蕎麦屋を見つけてそこでそばの昼食をとる。

次に古安曽(ごあそ)の無言館に向かうが休館。

無言館

すぐそばの弘法山前山寺(ぜんざんじ)を訪問。ここも休みであったため参観料なしで参観。信州四ヶ林に数えられた径学の殿堂であり、塩田城の鬼門に位置した祈願寺でもあった。そもそもは独股山を護摩修行の霊場として創立。鎌倉時代に讃岐国善通寺の長秀上人が伽藍建立をした。奥の院独股山(弘法山)には、弘法大師を祀った岩屋堂がある。

境内に室町時代の建立といわれる三重塔があり、重要文化財となっている。裏山は独鈷山だ。 この山には2008年登って途中で放棄したが、現在の最短距離の登山路がある裏側の宮沢口から登ったので前山寺の奥の院がある関係とは思いもよらなかった。

前山寺・三重塔

前山寺にて

次に中禅寺にゆく。ここには「方三間の阿弥陀堂」形式の薬師堂がある。この形式は平安時代の終りごろの形式で平泉の中尊寺・金色堂が代表的なものである。長野県最古の建物であるばかりでなく、中部日本最古の建物である。

中禅寺・薬師堂

別所温泉に向かう。

北向き観音 2002/9撮影

北向観音前を右折して今日の宿「七草の湯」に着く。(Hotel Serial No.475)女性向けとのことで茶菓子がふんだんに用意されている。しばしの談笑後、温泉を楽しむ。

大塚は2000年の「あぶらや」以降10年ぶりの再会であった。引退後カラオケに凝ってついに演歌の大会ではギャラをもらって歌う腕前になったそうである。残念ながらカラオケ・マシンがないためその美声を聴くことはかなわなかった。

宮沢がもう忘れてしまった思い出を沢山話してくれた。全てではないが、一部を回顧録に収録した。

第2日

安楽寺にゆき、国宝三重の塔を参観。ここは2007年11月6日にきている。

安楽寺の三重の搭 2007年11月6日撮影

次に青木村にゆく。大法寺の国宝の三重塔を参観に立ち寄る。大法寺・観音堂には平安中期の十一面観音像がある。

大法寺・三重塔にて

とってかえして再度塩田平を横断し、上田女子短大、長野大前を通って丸子に抜ける。大学のキャンパスはやけに立派だが、経営に不安はないのか心配となる。大屋駅経由海野宿に向かう。白鳥神社近くの駐車場に入り、海野宿を散策。

海野氏は海野郷を根拠とする豪族である。平安中期国司・牧官として中央より下った名門滋野氏と関係を結んだ。「保元の乱」では源義朝につき、鎌倉時代はそ の地位を保った。しかし信濃国は、室町時代より守護による統制が取れず、戦国時代も守護家小笠原氏の支配力は限定的で、海野氏・村上氏など地域単位で勢力 基盤をもつ国人領主が割拠していた。こうして村上氏と海野氏が地域支配をめぐって抗争することになる。村上氏が甲斐の武田氏と組んだにより「海野平の合 戦」で海野の正系は滅亡した。海野の支族の真田氏は武田氏に仕えて宿敵村上氏を討ち、命脈を保ち、江戸時代は松城藩主となった。

白鳥神社まえから海野宿

海野宿は江戸時代の北国街道の宿として栄えた。現存する家屋は明治期に養蚕で富を築き建築されたものが戦後まで残ったものである。「福嶋屋」など立派な「ウダツ」をもった家が多い。海野一族の氏神、白鳥神社近くの蕎麦屋で手打ち蕎麦の昼食とする。

上田駅に仕事のあるスーチーを降ろし、残り全員は長野に向かう。途中「(こうがい渡し」の前を通過 。路傍にささやかな木立があり石碑が1個立っている。右手の山は葛尾城(かつらおじょう)だ。

葛尾城は戦国時代、北信で最大の勢力を誇った村上氏の居城であった。 守護権力の弱体化による争乱が隣国甲斐でも起こっており、諏訪を領する諏訪頼満を制して甲斐の覇権を握った武田氏は次第にかっての同盟相手の村上氏と攻防 を繰り広げるようになる。村上氏に滅ぼされた海野氏の支族である真田氏が武田 側について村上氏を攻めた。1553年村上氏の背部を支える北に位置する支族の屋代氏や雨宮氏、塩崎氏らが真田幸隆らの調略によるとされる離反が相い次 ぎ、背後の戸倉方面からの攻撃を受けるようになった。危機を感じた村上氏は仇敵の間柄であった中野の高梨氏の仲介を得て長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち 延びた。これが12年にわたり5度に及ぶ川中島の戦いのきっかけになったとされる。

葛尾城の落城の際、奥方は義清と別れ、ばらばらに落ち延びた。千曲川の対岸の力石に渡る際に奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭の心に 打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡した。義清夫人を偲んでそれ以降はその渡し場を「笄の渡し」と呼ばれるようになったとされる。

川中島の古戦場の辺りで心地良い睡魔のとりこになる。武田は滅び上杉は米沢の地においやられるその後の有為転変を邯鄲の夢のごとくみている内に高田の庄につく。

おかげさまで信濃の歴史を省みる旅となりました。 それぞれ長野の自宅前で宮沢の車から落としてもらう。ありがとうございました。

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February 27, 2010

Rev. March 8, 2010


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