米国・欧州技術調査旅行

1969年6月、ブルネイのルムットにロイヤル・ダッチ・シェル社が建設しようとしていたLNGプラント建設工事への応札見積もり作業の後半、フロントエンド設計担当の私はやるることが無くなってしまった。そこでこのチャンスに欧米の関連会社を歴訪して技術調査することになり単身二度目の旅にでた。

ロスアンゼルス、サンフランシスコ、オクラホマシティー、シカゴ、ワシントン、ボストン、ニューヨーク、アレンタウン、ロンドン、パリ、ミュンヘン、コペンハーゲン、ストックホルム、フランクフルトというコースであった。

ロスアンゼルスではUCLAで開催中の世界低温学会に参加、ここで人懐こい スズメをみた。日本は米作民族だからスズメを嫌うが無頓着な米国人と接しているとスズメもここまで人になつくのかと思った。しかし実はイエスズメという別種のスズメであることを後日 知ることになる。このスズメはヨーロッパ原産で麦作に伴ってユーラシア大陸を東に 向かって広がり、間宮海峡を渡り、目下サハリンを日本に向かって南下中。礼文島に達したという説もある。

UCLAには強制対流伝熱式を作った高名な教授であるディッタス・ボエルターを記念したホール があった。米国に定住をきめた小田島氏にあう。

サンフランシスコを再訪したとき、ニエダ氏のセールボートでサンフランシスコ湾のセーリングを楽しんだ。 下の写真はその時のもの。当時はまだ木造船でニス塗りのドッグハウスが暖かいぬくもりに満ちている。

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故ニエダ氏のセールボートでサンフランシスコ湾内セーリング July 1969

ニエダ氏の運転で東京に赴任中のベクテル社のエバンス氏の留守家族を訪問した。奥様はレーガン知事の選挙応援活動をしているという。俳優上がりが知事をしていることに新鮮な驚きを感じたものである。後に米国大統領になったのには大いに驚いたものだ。そして大統領としてはまずまずの成功を収めたものだから民主主義の不思議を感じたものだ。

ニエダ氏はカイザー病院の医師をしていたが、米国ではMDとPhDは別の資格だということを教わった。日本では医学博士1本でおかしいと感じた。

オクラホマシティーではアラスカのガス田でみたユニフラックス・ヒーターのメーカーを訪問した。ここで初めて米国内に時差があることを知った。担当のカルペッパー氏は終業時間を2時間も過ぎているのに待っていてくれて、夕刻に自宅までつれていって家族に合わせてくれた。当時はまだ日本からの訪問者が少なかったからかもしれない。

シカゴの天然ガス技術協会(IGT)を訪問したのち、週末をワシントンDCで過ごそうとオヘア空港で機中の人となったが、ワシントンDC周辺での豪雨のため2時間も待機し、あげくのはてに別の空港に着陸して荷物と行き別れになったこともあった。ケネディー大統領が暗殺された後だったので、アーリントンの墓地で永代供養の小さな炎が燃えていた。議事堂が日本のそれと比べて格段に巨大であったことを鮮明に記憶している。

足を伸ばして、ワシントンの生家を訪れたが、丘の上から目の前に広がる入り江の向こう岸に人口的な構築物は一切見えず、ワシントンが見たと同じ景観が保存されている。法律でそう決められているとのこと。歴史的な遺跡を大切にしていることに感銘を受けた。

エアプロダクツ社の王博士 1970年撮影

ボストンでは車をレンタルして、ローウェル・ガスというピークシェービング目的のLNGプラントを見学した。

ニューヨークではおきまりの観光をしたのちLNG液化器メーカーのエアプロダクツ・アンド・ケミカル社を訪問した。旧知のプロセス副部長のプライヤー氏が出迎えてくれた。正面玄関には日章旗が掲げてある。誰か日本からVIPでも来ているのかと聞くと、あなたがそのVIPだと言われて驚いたものである。プライヤー氏は「ルーチーンになっているのであまり気にするな」となぐさめてくれた。

気を使って日系人や中国系のプロジェクトエンジニアが付き合ってくれた。このときはまだ紹介されず、1970年のポドビルニアク・サイクルを使うオレフィン分離精製プラント試設計 のとき初めて会う台湾出身の王博文博士は液化器の設計で中心的な気液平衡、エンタルピー計算のソフトを開発した人で思い出深い。

ロンドンではエアプロダク ツ英国を訪問してスペンサー博士に液化器の構造、製作方法について詳しく教えていただいた。今夜は我が家に泊まってゆけというので、御宅にうかがった。夜の9時というのに外はまだ明るく、明るい部屋で4才の子供がスヤスヤ眠っているのも驚いたことの一つだ った。

エアプロダクツ英国のスペンサー博士夫妻

週末はパリで過ごした。時はちょうど6月。アンバリッドの脇を通り、アレキサンドルIII世橋を渡り、新緑のマロニエの並木道をシャンソンを聴きながらベージュ色の建物がならぶシャンゼリゼ大通りを通過したとき、ロンドンの灰色の町並みとの対比に新鮮な感動を覚えたものである。フランス語が話せず、英語は通じないため喉が渇いても一日中赤ワインばかり飲んでいた思い出がある。このとき、お決まりの観光コースはラテンクオーターも含め大体見て回った。

ミュンヘンに飛び、リンデ社を訪問した。ここも英語を話す人が少なく往生した。コペンハーゲン経由、ストックホルムに飛び、海水を熱源にするLNG気化器メーカーを訪問した。しかし会社自体が長い夏期休暇に入っていてこれは失敗。フランクフルト経由帰国した。

初めての調査旅行を一人でさせてもらったことは私自身の能力開発に大いなる貢献をしたといまでも感謝とともに思い出す。

February 3, 2006

Rev. October 12, 2009


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