ロータリアン、タスマン海を行く

本編

ツアーメンバーの人となりとバイクとのかかわりを紹介した準備編に続き、いよいよ2002年に決行したツーリングをご紹介する。ニュージーランドでは自分達の走行をビデオ記録するというひそかな望みを成就した。

クライストチャーチ市大聖堂前でのムーア市長出席しての歓迎行事、新聞・テレビ取材、地元ハーレークラブ・ギャン グと合同の市中パレード、ポートヒルのツーリング、パブでの交歓、隊長の74才の誕生会、4回の新聞記事掲載でニュージーランド中の知るなかでのツーリン グ、元レーサーのツァーコンダクター、ビデオ撮影、地元ロータリークラブ例会参加、シェフを勤めるホテルオーナーを伴ってのピクニック旅行、セスナ機での 遊覧飛行、ヘリ2機をチャーターしての空撮の空撮、サポート車のブレーキトラブル、コースアウトによるバイクとサイドカー2台の破損・骨折など話題豊富な 旅でもあった。

走行ルートは南島のクライストチャーチを出発し、半時計回りに一周するというもの。総走行距離は1,469km。オプションでクイーンズタウン往復した人は1,629km走破。


ルート図

ヘリによるヒルクライムの空撮も含め、サーマルコネクション社が40分物のフル・ビデオを作成し、DVD-Rに焼いてくれた。

 

第1日 2月 9日(土曜日)成田発

午後4時、成田のチェックインカウンター前に全員集合。ベルトまで外してのセキュリティーチェックも無事通過。再 入国パスポート所持の徳山も問題なくイミグレーションを通過。NZ34便は成田、クライストチャーチ間ノンストップである。途中、客室内のGPS表示スク リーンにはマリアナ諸島、ソロモン諸島など太平洋戦争の舞台になった島々が次々と出てくる。日本はなんと広大なところで戦ったのかとの感銘を深くする。

 

第2日 2月10日(日曜日)クライストチャーチ泊

フィジー諸島が見えて、いよいよニュージーランドに近くなったことを感ずる。ニュージーランドは日付変更線に近 く、日本より早く日の出る国である。時差は3時間。サマータイムなので4時間の時差となる。夜も明け、はげ山を越え、羊が点在する緑の絨毯のような牧場が 見えてくると着陸である。朝の9:30である。10時間の機中もエコノミークラス症候群防止のため、持参のミネラルウォーターと機内散歩をおこなったため か全員異常なし。

ニュージーランドは北半球とは異なる植生を持ち、牧畜を主要産業とする国である。検疫は厳しい。七味唐辛子ミックスを持ち込んだ徳山は食品として申告し、無事通過。エンジニアリングブーツをスーツケースに忍ばせていた押川も申告し、無事通過。

空港では今回のツーリングをサポートしてくれるサーマルコネクションの松下社長自からビデオカメラで我々の到着を 撮影するという歓迎であった。今回のツァーのきっかけを作った「ホテル秀山」の荻野社長夫妻の顔も見える。過去1年間eメールで連絡を取り合ったマルイア スプリングズ・サーマル・リゾートの荻野多賀子社長の懐かしい顔も見える。今回PRビデオ撮影と編集をする藤熊監督も同じ便で到着。

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石原隊長夫妻と押川の到着

サポート車となる10人乗りのフォード・トランジット・カスタムに乗り込んでダウンタウンのクラマー広場にある シャトー・ブラン・スーツ・アパートメント・ホテルに向かう。クライストチャーチはニュージーランド第3の都市で人口30万人、ガーデンシティーと呼ばれ る美しい町だと聞いていたが、そのとおり。労働党政権が降りて国民党政権になり 、移民を受け入れ初めてから経済的にも発展したと荻野社長が説明してくれる。このような経済発展に伴い新規開発された郊外の住宅地が美しい。どの家も平屋 である。クライストチャーチ中心部の西側にはハグレー公園という手入れの行き届いた広大な公園がデンと鎮座している。北西の空港からダウンタウンにアプ ローチするとこの広大な公園の外周から公園内をみながら走るという都市設計である。公園内を流れ出るエイヴォン川を渡ってホテルに到着。(International Hotel Serial No.211)老人ハウス用に設計されたものだそうで、部屋にはキッチンがついているが、バスタブはなく、シャワーだけだ。部屋が広すぎ、身の置き場に困る。

日本から送った中本のサイドカー1台、斎藤、押川、グリーンウッド氏の単車、追加レンタルした1台の計5台はサー マルコネクションにより事前にホテルの庭に運んであった。サーマルコネクションの契約整備工のジョーが事前チェックしてブレーキパッドの残存厚が薄い場合 交換し、潤滑油やブレーキ油の補充を行ってある。斎藤の1台だけ輸送中にエンジンキーが紛失していたのでこれは盗難防止ケーブルを使うことにする。

レンタルする残りの4台を受け取るため、石原、飯塚、菅原父子4人がグロセスターストリートのレンタル会社に出かける。

全車そろったところで、ミーティングルームで松下さんから本日の午後の予定のブリーフィングを受ける。なんと大聖 堂前でクライストチャーチ市長のギャリー・ムーア氏と地元ハーレークラブのメンバーでもあるクライストチャーチ・カンタベリー・マーケティング社(CCM 社)の代表取締役のダリー・パーク氏が我々を歓迎することになっているというのだ。

新聞社、テレビ局の取材もあるという。歓迎式のあと、目抜き通りのコロンボストリートをパレードするという。そう いえば今回の企画を伝え聞いた地元新聞社が「このツァーを紹介するから写真を送れ」と言っていると多賀子さんが伝えてきたことがあった。浅間山山麓で撮影 したツーリング写真をeメールしたところ、8日付けのクライストチャーチ・スター紙の一面記事になってしまった。日本からバイクを持ち込むということと、 平均年齢が64才であることがニュース性があったようだ。CCM社のアジアー日本マーケッテイング部長のジェイソン・ヒル氏の「彼らは普通の日本人観光客 とは異なり少数派であろうが、ニッチ・マーケットとしてリピートが期待できる」とのコメントも紹介されている。なにせ日本には17,000人の世界第二の HDオーナーがいるのだ。ここらへんの裏話はここをクリック。

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大聖堂前のムーア市長、石原隊長、ムンヒ氏

近くの中華料理屋で飲茶の昼食をかきこみ、11台連ねて大聖堂前に乗り込むともうそこには沢山のハーレーダビッド ソンが観光客に取り囲まれて勢ぞろいしていた。車椅子に乗った身障者の姿も見える。市長はジーパン姿だ。さすがTPOを心得ていると皆が関心する。市長を 中心にして右側に石原隊長、左側に地元ハーレークラブ代表のゲアリー・ムンヒ氏が立っての新聞社の撮影があった。市長はついに近くのバイカーから差し出さ れた皮ジャンまで着てしまう。記念品の交換後、全員の記念写真撮影をする。イージーライダーでピーターフォンダ扮するキャプテンアメリカが乗っていたパン ンヘッドのチョッパーを買わないかと見せに来た人もいた。日本円にして約200万円の言い値であった。ひとしきり歓談の後、我々の11台に地元参加の25 台が加わって仲良くコロンボストリートをパレードした。

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大聖堂前で市長も加わり記念撮影

これで予定行事終了と思ったら大違い、近くの丘に登り記念撮影しようという。距離がありそうなので、給油して36 台に騎乗したギャング達は更に南下し、市の南側にある丘に登り始めた。木が生えてない草原の丘のため、見晴らしがよく、ガードレールもない。風が強いので 高所恐怖症で寝不足のライダーにはきつい山道である。この丘はポートヒル(海抜450m)とよばれ、クライストチャーチとリトルトン港の間に横たわってい る。クライストチャーチの海岸は砂浜で遠浅のため港は構築できないが、リトルトン港は深く切り込んだ入り江にある天然の良港である。

「150年前、リトルトン港で荷揚げされた物資はこの丘を越えてクライストチャーチに運び込んでいたのだ」と同行 した現地ハーレー乗りの一人が説明してくれる。その道はブライドル・パスと呼ばれていた。今ではトンネル(鉄道と道路)が港と町を結んでいる。丘の上から は港とは思えない湖水のような美しい入り江が垣間見える。クライストチャーチの東南に突き出ているバンクス半島はもともと火山の噴火で出来たものである が、リトルトン港のある入り江はその火山の噴火口なのである。入り江の真ん中にある島は中央火口丘か。ということは我々の登った丘はその外輪山ということ になる。ここで全員で記念撮影。我々が走った道路はサミット・ロードと呼ばれているそうである。丘を下って海岸線に出ると海を見下ろす丘の上に高級住宅が たちならぶサムナーというまことに美しい街にでる。多賀子さんに聞くとサムナーの地名は1850年頃クライストチャーチのあるカンタベリー平野開拓に貢献 したアングリカン教徒のリーダーの名前に由来しているという。

散会する前に全員でパブに立ち寄る。ニュージーランドも飲酒運転は違法のため、我々はアルコール類は自粛したが、 地元バイカーはアルコール耐性が強いため、ビールで乾杯。ひとしきり談笑し、まだ呑み続ける地元バイカーをパブに残し、我々は早々に退散。クライスト チャーチのハーレークラブには150人のメンバーがいるそうである。

ニュージーランドは日本と同じ左側通行のため違和感はない。しかし、基本的に大きな違いがある。日本では直進車優 先であるが、こちらでは右から入る車に優先権がある。船の航行の国際ルールと同じである。英国からはるばる海をわたってきた人々が作った国という感を深く する。しかしこのようなルールの下で36台のハーレーがまとまって交差点を通過することはできない。有志が交差点の中で停車し右から来る車をブロックし て、全員が渡るという便法をとる。

夜は元学校であった伝統的石造建築のグリムズビーズのプリンシパルズ・オフィス(校長室)で奥様同伴の石原隊長の 74才の誕生パーティーを開催。石壁が荒々しく、天井の高い元校長室に74才の誕生おめでとうと書いた風船で飾ったテーブルを置き、シャンパンを開け、バ イクに跨る隊長の張子の人形をプレゼントした。人形の顔には事前に送った顔写真が貼ってある。松下さんと多賀子さんの苦労の傑作。アット驚いた隊長は人生 最大の幸せと唱和する。

今日は目の回るような忙しさだったと振り返る間もなく、夜9:00には深い眠りにつく。

 

第3日 2月11日(月曜日)テカポ泊

ホテルの各部屋に配られるザ・プレス紙の朝刊を見てビックリ。今日欄に菅原父子が大聖堂前でロードキングに跨って いる写真がでている。しかし名前は石原隊長の名前となっている。実は昨日大聖堂前からコロンボストリートにパレードにまさに出発しようという時、グリーン ウッド氏が若い女性記者に菅原の名前を聞かれた。口で言っても耳慣れない名前は頭に入らない。スペルを言ってもエギゾーストノイズにかき消されて伝わらな い。紙に書いてくれと言われても手を離せば立ゴケだ。動き出した隊列を乱さないように振り切って出かけてしまった。記者はやむを得ず、隊長の名前を使った のだろう。

多賀子さんがクライストチャーチ・シチズン紙にも市長と隊長の写真が出ているといって持ってきた。昨日市長が借りた皮ジャンを着て取った写真である。

取材を受けたテレビは昨日の夕刻放映予定だったが、マーガレット王女の追悼番組のためボツになったようだ。

さてクライストチャーチでの喧騒に押し流された時も終わり、いよいよ出発だ。朝食後、9:00ホテルを出発。鉄道 に平行に走る一号線をアッシバートンに向け時速100kmで走行。ラカイア川を渡ったところで右折して田舎道に入る。マルイアスプリングズで7年間マネ ジャーを勤めた人が独立して開いているホワイトハウス・カフェに立ち寄る。街道筋から離れた閑静な場所にあり、庭のテーブル上に悠然と昼寝していたかわい いネコが人気者だった。菅原は大のネコ好きでほおずりしている。石原隊長は今朝の朝刊をしげしげと読む。

対向車の来ない田舎道で早速走行中の隊列のビデオ撮影を行う。サイドカーにカメラマンを乗せ、走行しながらの撮影である。そうこうしているうちに11:30にはメスベン村に到着。

メスベン村は冬季間、近くのマウントハットのスキー場の基地となるところである。大勢の若い日本人がここに1ヶ月 位滞在してスキーを楽しむのだと荻野社長が説明してくれる。マウイアスプリング・リゾート社はここで長期滞在家族に貸し室を提供している。また日本人は温 泉好きのため、銭湯も経営している。ここで一休みしお茶をいただき、給油する。

72号線に入るべく田舎道を走っている時、メイフィールドの近くでサポート車の前輪右のブレーキが加熱し、作動し たままになり走行不能に陥る。じたばたしてもしょうがないと空き地に乗り入れ小休止。12:30であったため荻野社長自ら作った押し寿司をトレーラー上に 広げ、賞味。まるでピクニックだ。米はオーストラリア産だそうだが、なかなかうまい。煮たにんじんをトッピングした押しずしは人気だった。腹ごしらえが終 わり落ち着いたところで、徳山がとある提案をする。ブレーキのマスターシリンダーの作動油を少し抜いて熱で膨張した作動油の逃げ場を作ればなおるだろうと いうのである。台所用のティシュペーパーで液面が最高面より下がるまで吸い上げた。これが正解で以後ブレーキトラブルが再発することはなかった。フォー ド・トランジット・カスタムは10人分の荷物を載せたトレーラーを引いて怪力だがエンジンは意外に小さい。ターボチャジャーで出力を確保しているようだ。

メイフィールドで小休止。ブレーキが過熱するくらいだから人間も暑い。脱水症状にならないようにパブに入りコークと水でのどを潤す。この間、サポート車は念のためショップで点検してもらうが異常なし。

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テカポ湖畔で (中本氏撮影)

ジェラルディンで79号線に入り、森林地帯を走る。紫色の花を付ける菜の花畑がある。フェアリー手前でミドルバ レーを見下ろす丘の上で小休止。8号線に入り、バーク峠に向かう。峠を越えニュージーランド最高峰、標高3,754mのマウントクックが遠くに見えはじめ る高原で再度走行中のビデオ撮影をする。サイドカーでは視線が低すぎると室井夫妻のマツダ・カペラ4WDのサンルーフから頭を出しての撮影に切り替える。 室井さんは我々を評して「歩く姿は年相応だがバイクに乗るとずっと若くみえますな」とおっしゃる。

午後4:30分頃、カーブをまわると突然テカポ湖が眼前に広がる。事前に日本では見られない色ときいていたが、折 からの晴天を写してエメラルドグリーン色をしている。なんという色だ。マウントクックから流れ出すカルシウムの微小結晶が空の色を映すためであるという。 遠くには雪をいたただくマウントクックがみえる絶景の場所である。

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テカポ湖とマウントクック山 (中本氏撮影)

本日はここが終点。本日の走行距離は284km。

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よき羊飼いの教会で

暮れまでの時間しばらく湖畔のジャリ道を使ってスチル写真やビデオ撮影をした。近くの観光名所、「よき羊飼いの教会」で献金、教会前で全員の集合写真を撮影。

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よき羊飼いの教会前で

今夜の宿舎はこの湖畔のウォーターフロントにあるザ・シャレー・ブティック・モーテルだ。(International Hotel Serial No.212)ただここだけでは部屋数が不足するので分散宿泊となる。石原隊長に当てられたユニット5は独立家屋で寝室が幾つもありバス、トイレ、キッチンが完備する長期滞在型のすばらしい部屋であった。外の部屋はシャワーだ。

午後6:30まだ明るい湖をみながら夕食を湖畔の日本食レストラン、コーハンでとる。

この地は天体観測の適地だそうで山の上に米国の観測施設が見える。菅原が南十字星はどれだと聞く。残念ながらかっ てアルゼンチンで見た南十字星は雲に隠れて半分しかみえない。南半球では北極星周りの星が地平線の下に沈んでしまい見えない。そしてオリオン座の三ツ星の 上にアンドロメダ星雲が見えている。日本では下に見えるはず。ちょっと気が付きにくいがオリオン座が上下逆さまとなっているのだ。

お星様を見ていた菅原とグリーンウッド氏は体が冷えてしまった、斎藤と飯塚の入っていた湖側の眺めの良い部屋にテラスから押し入り、斎藤が沸かしたコーヒーをご馳走になってからベッドに入る。

 

第4日 2月12日(火曜日)ワナカ泊

窓を開け放して室内灯を点灯したまま寝た人は巨大なウンカの来週に悩まされた。宿の管理人も頭を抱える。朝食は朝日に輝く山と日陰に静かに横たわる湖を見渡す二階でいただく。

昨夜、小さなベッドでよく眠れなかった菅原は昨年心筋梗塞を経験している。用心して今日はバイクに乗らないと言い出す。バイクをトレーラーに乗せて出発。道路に出たところで立ゴケの押川がいきなり立ゴケ。

「よき羊飼いの教会」前の走行をビデオに撮影する。ガソリンを供給して9:30本格的に走り出す。8号線から外れ てテカポ湖の水をプカキ湖に送る運河沿いの道に入る。運河は丘の中腹の土を削って盛土した土手で造られている。トヨタ自動車がこの土手道でソアラの撮影を したという。木の生えていない荒涼とした丘陵地帯の等高線に沿った運河の流速は意外に早い。ここに落水したらバイクは回収できないだろう。運河の下を別の 谷から流れ出た沢水が立体交差している。ここからの景色は日本では見られないものだ。トヨタがここでロケしたわけが理解できる。遠景に雲をいただく山を背 景にスチール写真の撮影をする。

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運河沿い道路で (松下氏撮影)

撮影後、この土手道を120kmで走行。再度8号線に入りやがてプカキ湖に至る。ここで小休止後、マウントクック に至るプカキ湖沿いの80号線に入り、マウントクックと湖の景観を楽しみながらドライブし、ビデオ撮影をする。ここはトヨタに対抗して日産がそのフラグ シップ・カー、セフィーロのCMを撮影したところだと松下さんが話す。

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マウントクックを背にビデオ撮影 (松下氏撮影)

8号線に引き返してトワイゼルを通過する。ここにはダムがあり、テカポ湖とプカキ湖の水を集めて水力発電している。道路際に水車が展示されているのでそれと分かる。水力発電はニュージーランドでは重要な一次エネルギー源となっているという。

オマラマを通過してリンディス峠にかかるころ雨が降ってきた。念のためカッパを着用。雨中走行となる。峠を越えれ ば晴れる。しかし行けども行けどもレストランも給油所もない。一番ガソリンを食う中本のサイドカーはついにリザーブに切り替えての走行となる。リンディ ス・ヴァレーでようやくモービルのマークを見つける。

給油後は昼食も取らずただひたすらワナカまで走る。午後3:00にようやくワナカに到着。湖畔のエッジウォーター・リゾート・ホテルにチェクイン。(International Hotel Serial No.213)モー テル形式でバイクは自室前に駐車。ここも部屋がめっぽう広い。部屋にはバーのようなつくりのキッチンがついている。バスタブなので久しぶりに湯船につか る。この浴室はすぐれものだ。ドライヤー機能付きの自動洗濯機が付属しているのは秀逸。旅の汚れを寝ている間に落とせる。

荻野社長夫妻が作るラーメンを食し、空腹を満たす。横飯を受け付けない世代のための特別サービスである。食後は二 班に分かれて行動する。ロータリアンの石原夫妻、飯塚、斎藤、菅原、中本、荻野社長、通訳役の松下さんは午後6時開催の地元ロータリアンの例会に参加する ため、2時間程の休憩を取る。

その他の徳山、押川、グリーンウッド氏、浩人君は200km走ってワナカークイーンズタウン間を往復した。午後 4:00出発。ここからはガイドなし走行だ。事前に勉強してきた押川が先導する。40km近道のクラウン・トレイルという山道をゆく、ここは主要道路とし ては最高点が1,121mある難路である。最高地点から霧が出て雨が降り始める。カッパを着て七曲の急な下り坂を下る。急カーブでは時速15kmまで下げ なければならない。雨で濡れた路面はギヤダウンすると後輪がスリップする。ようやく6号線に合流したときはホットした。

さらに雨の中を走って午後5:30ワカティプ湖畔のクイーンズタウンに到着。町の雰囲気はちょうどレマン湖のイ メージだ。湖畔のチャーチ・ストリートのパブ、マックネイルで一休みし、帰路につく。スリップする山道は避け、6号線をとる。バンジージャンプの名所、カ ワラウ渓谷で一休みする。旧道の使われなくなった橋の中央から飛び込むようになっている。徳山が「バンジージャンプをやっていなくて良かった。もしやって いたら飛び込みたくなっただろう」とおどけていう。徳山は吉本興業でも勤まるような強烈なギャグを良く飛ばす。大阪から来た若い日本人観光客が徳山はチャ ンプの実の父親と知り、記念撮影とサインをねだっていた。

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パブ、マックネイル前で押川、浩人君、徳山

あとはただひたすら時速120kmで走り、午後7:10に帰着。グリーンウッド氏は雨で無線機を水浸しにし、オシャカにする。一晩中乾燥機で乾燥させたが、ついに生き返ることはなかった。

クイーンズタウンにも行かなかった室井夫妻と多賀子さん組に湖畔の日本食レストラン、笹の木で合流。そうこうするうちに、ロータリー例会に出席した連中も食べなおしだといってやってきた。例会で常食となっているローストビーフとジャガイモは苦手のようだ。

本日の走行距離は241km。クイーンズタウン往復した人はこれに160km追加の401kmとなる。

 

第5日 2月13日(水曜日)ホキティカ泊

朝9:00に地元新聞社、オタゴ・デイリー・タイムズの取材を受ける。取材撮影用にバイクを整列しようとして浩人 君が砂利敷きの湖畔前広場で立ゴケ。取材撮影後、給油。ここで中本が持ち込んだサイドカーのリアタイヤに空気圧を入れようと菅原がサイドカーをとりまわし て、押川と徳山のリア・ウインカーを破損し、高価な手書きペイントを施したサイドカーのフェンダーに引っかき傷をつける。ファッション性の高い眼鏡が目測 を誤らせたらしい。

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ハウエア湖の左岸で (松下氏撮影)

準備整って南島のウェストコーストに向け出発。ハウエア湖の左岸沿いに北上し、谷を西に向かい今度はワナカ湖の右 岸沿いに北上する。ワナカ湖の右岸沿いでもカペラと並走しながらビデオ撮影を継続する。ワナカ湖の右岸沿いの景色はオアフ島北岸の雰囲気がある。ワナカ湖 がつきるマカロアのレストランで小休止。レストラン前の草地には遊覧飛行用の黄色いセスナ機が客を待っている。中本はレストランのウェイトレスと仲良くな り、肩を組んで記念撮影。新聞のおかげで皆、我々のことを知っている。

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マカロアで

ここからハースト峠に向かって森林地帯を通過する。ハースト峠から見上げる海抜2,423mのマウント・ブリュースターは全山巨大な岩石の塊で、岩石の劈開面を拡大したような斜面の迫力は日本では見られないものである。

ハースト峠を越えたところにある滝で一時休止。押川がエンジンをかけて、車が飛び出し再び立ゴケ。すでに小さくなっていたガソリンタンクをますます小さくする。

あとはハースト海岸までノンストップで走る。ハースト海岸で給油後、ハースト河の河口にかかる唯一の橋を渡り、し ばらく海岸沿いに北上する。ここタスマン海沿いの海岸の植生は明らかに太平洋岸と異なる。より熱帯的な植物が多いと感ずる。また全く自然のままで人の手が 入っていない。海岸の砂岸段丘を越えて少しくぼ地になったり、湿地帯となっている所は草地や潅木の茂みだけであるが、少し内陸になるとこの潅木の上にもう 一層のキャノピーをかける高木の林が突然現れる。

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タスマン海沿いの海岸の植生

6号線からジャリ道に分け入り、砂浜を見ながら、昼食をとることにする。ここで荻野社長お手作りのおにぎり弁当を いただく。これも今回限りの特別サービス。道路ではよく数人でマウンテンバイクで旅している若者を見かける。休んでいた人にどこから来たか問うと英国の ダーラム地方から来たという。シーズン中、日本―ニュージーランド間は夏の間、安い切符が手に入らないが、英国―ニュージーランド間は割安切符があるのだ という。ヨーロッパの方が旅行者の数が多いため。日本人は高くとも来るのか。多くのヨーロッパ系の若者がバイクによる安価な旅を楽しめる秘密はここら辺に ありそう。

小休止の後、再び北上を開始する。道は山間部に分け入り、蛇行を繰り返す。総じて時速100kmで走れるが、急 カーブが多く、しばしば65km、55km、45kmに減速しなさいというサインに出会う。これに10kmプラスしたくらいが普通の腕でコースアウトしな い限界だろう。こまめに速度調整する。また西海岸では交通量が少ないため、ほとんどの橋は相互通行が出来ない。橋に入る前に減速して橋の上に対向車が入っ ていないことを確認しなければならない。鉄道と共有の橋もある。路面電車のある道路と同じ舗装をしてあるが、ハンドルを取られないように、角度をもって レールを横断する必要がある。

カランガヌア川近くの小川を渡った後の65kmのカーブを過ぎた地点で猛スピードで先行していた菅原父子が道端に 停車して手を振っている。何事かと停止してみると浩人君が65kmのカーブを廻りきれずにコースアウトし、溝に落ちたという。幸い本人は軽い打撲傷を負っ ただけで元気である。本隊が到着する前に通りががりの人が協力してバイクを溝から引き上げてくれたという。車のほうは風防がはずれ、ハンドルが180度曲 がり、エンジンガードが少し曲がっている。エンジンは動くが、ハンドルが曲がりすぎて運転できない。直してもクラックが入りそう。日本のように溝がコンク リート製でガードレールがあればけがでもしだろうが、ここは路肩や雨水を集める溝は草で覆われた柔らかい土で出来ている。若く体が柔らかいことと敏捷さに も助けられて何事も無かった。父親の話によると65kmのカーブに一緒に110kmで突っ込んだそうである。バックミラーから息子の姿がスッと消えたそう である。物損だけなので、皆ホットしている。大破したバイクはトレーラーに乗せ、浩人君はサポート車に乗ってただちに出発。

チェリー・ガラードも言っている。

冒険とは知的情熱の肉体的表現

フォックス氷河は通過し、フランツ・ジョセフ氷河に向かっている山道で今度は飯塚が65kmのカーブで路肩に飛び出る。一定間隔で立っているゴム製の標識を避けようとハンドルを切り更に外側に出てしまう。

どうなるかと見守るうち、縁石にサイドスタンドを触れつつもかろうじてアスファルト道路に戻った。しかしサイドス タンドのスプリングが外れてサイドスタンドが垂れ下がってしまった。道路傍でサイドスタンドを針金で固縛し、出発。フランツ・ジョセフ氷河に立ち寄ってい る間にメカに自信ある松下さんと心臓に負担を強いることを避けるため残った菅原がサイドスタンドを外してスプリングを掛けなおしてくれた。

残る全員はジャリ道を砂塵巻き上げて4km走行し、さらに小高い丘に徒歩で登ってフランツ・ジョーゼフ氷河を見物 した。10年前は氷河を眼下に見れたそうだが、この10年で数キロ後退したそうだ。しかしマウントクックとマウントタスマンに発する氷河は依然として一見 の価値はある。

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チャンプのTシャツ着てランツ・ジョーゼフ氷河の前でポーズする徳山

当初の計画ではここで一泊の予定であったが、シーズンたけなわのためホテルが予約できず、ゴールドラッシュの町ホキティカまで更に北上しなければならない。フランツ・ジョーゼフで白亜のマウントクックをながめながら、レストラン、パッドでコーヒーをすすり充分休養をとる。

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レストラン、パッドから見るマウントクック

ホキティカまでは最高時速120kmを出しながらのノンストップ走行をし、全員無事に午後7:00頃ホキティカ 着。本日の走行距離は432km。中本は忘れてきた風防を回収すべく浩人君をサイドカーに乗せて事故現場にもどったのでこれに60km加え492km走っ たことになる。

ホキティカの町は金、ヒスイ、グリーンストーンの細工師の町として発展したところだそうである。夕食はホキティカの中華レストランで中華料理を賞味。店主は中国語なまりの英語を使う。

石原隊には正式な名前がない。それがよいということであったが、徳山が「どうも皆よたよたしているのでオットットというのはどうか」と提案する。中本と押川が「それではあまりにかわいそうだ。おとうさんにかけてオットーではどうか」などとたわいない話をしている。

宿舎は2軒に分散宿泊。南十字星はここではその全貌をあらわしていた。(International Hotel Serial No.214)

 

第6日 2月14日(木曜日)マルイアスプリングズ泊

6:30起床、7:00荻野社長が炊いたお粥と梅干を賞味。このような旅では絶対に味わえないものだ。昨日の疲れか定刻に起きてくる人は少ない。石原夫妻と中本が少し離れたモーテルに泊まったこともある。

8:00出発。ホキティカのダウンタウンのデリカテッセンのベランダでサンドイッチとコーヒーの朝食をとる。飯塚 はいつものミルクである。朝食をとりながらなにげなく町をみていると東西南北2ブロックしかない町ながらインターネット・カフェがある。無論、主要産物の 宝石類の店が一番多い。しかし、まち全体の感じはゴールドラッシュ時代の西部の雰囲気である。いまだに近くには露天掘りの金鉱山があるというのでそうなる のだろう。

さて昨日のハードな走りを今日も続ければ、疲労で不測の事態が発生するかもしれず、安全を考えてパンケーキロックや土ホタルの名所の洞窟を見物するためチャールストンまで北上することをやめ、時々休みながらゆっくりとマルイアスプリングズにゆくことに予定を変更する。

30分位走ってグレイマウスに着く、ここで30分間ショッピングと休憩を入れる。ここからは6号線を北上することを止め、7号線を東進してスティルウォーターに向かう。スティルウォーターから鉄道に沿って南進し、ブルナー湖を訪れた。

湖畔のモアナ駅近くの桟橋で記念撮影。

桟橋で松下さんが立ゴケ。磨き上げたショベルヘッドのフットブレーキのコネクティング・ロッドを折損する。そもそ もこのショベルヘッドは荻野社長が赤倉で乗りまわしていたものを、もう乗らないと多賀子さんに払い下げたものだそうだ。それをニュージーランドで完全にリ ストアして使っているのだ。ブレーキが使えなくては乗れない。松下さんは溶接してもらうため地元の鉄工所にでかけた。その間、全員モアナ駅前の湖水を見下 ろすステーション・ハウス・カフェで昼食を楽しむ。モアナ駅構内を歩いていて気が付いたが、日本と同じ狭軌である。昼食中、客車を牽引した列車がけだるく 通過する。

昼食後はブルナー湖畔に係留されていたフロート付きセスナ機で中本を除くほぼ全員が遊覧飛行を楽しんだ。中本はあとでヘリに挑戦したいらしい。

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セスナ機の向きを変える機長

充分昼寝をむさぼった後、来た道をスティルウォーターまで戻り、再び7号線を東進する。リーフトンで休憩し、給 油。更に東進する。森林内の走行で次第に高度も増し、涼しくなる。スプリングジャンクションで小休止。あと本日の目的地、マルイアスプリングズまでは 17kmを残すのみ。各自好きなスピードで気ままに走ることにする。途中ゆっくりしたためマルイアスプリングズに到着したのは午後5:00であった。本日 の走行距離は220kmであった。(International Hotel Serial No.215)

マルイアスプリングズは ルイス峠の少し西側の谷川沿いにあり、高度があるため気温はかなり低い。電気も自家発電、電話も衛星電話で全くの秘湯である。用意した携帯電話も全く役に たたない。もともとニュージーランド政府が開発した温泉保養地だが、政府経営ではうまく行かず、10年間前、民営化方針のもと売り出されたものを荻野社長 が買い取り、日本の温泉経営のノウハウを使って3億円の追加投資をして成功させ今日に至っている。

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マルイアスプリングズのプライベート浴室

荻野社長の長女の多賀子さんが社長として経営している。多賀子さん以外は全て現地人スタッフでの運営だ。我々のよ うな日本人顧客は少数派で、ほとんどの顧客はニュージーランド人とのこと。ルイス峠で終わるセントジェームズウォークウェーを縦走した人々が疲れを癒すた めに使っているという。ホテルの外に若者用のユースホステルも用意されている。このユースホステルも結構オバンが使っている。

早速、露天風呂に入る。デザインは日本と同じ自然石で作った湯船である。湯は硫化水素の臭いのする典型的な硫黄泉である。湯質は非常に良い。混浴なのでこちらのルールではスイミングパンツを着用しなければいけない。しかし持ってくるのを忘れてしまった。

貸しパンツもあるが、面倒と手ぬぐいで前を隠したまま入ってしまった。入ってから気がついたが、隣の風呂から男性 用脱衣所で出会った男性の奥さんと思しき人が女性用脱衣所に帰ってゆくではないか。また別の女性が来ては面倒とほうほうの体で逃げ出してきた。この露天風 呂には問題が一つある。ブヨがしつこくまとわり着くのである。前を手ぬぐいで隠しただけであるから追い払うことができない。思う存分くわれた。1週間たっ て後が赤斑となって残り、痒い。

浴室を使えばブヨの問題はない。有料のプライベート浴室は夫婦者に人気があるという。温泉を使った床暖房も快適である。

夕食はマルイアスプリングズの和食レストランでシャブシャブパーティー。酒代は誕生会のお返しと石原隊長持ち。

徳山は隣席のニュージーランド人夫婦の奥様に「あなたは、今までに私が出会った最も美しい人だ」と俄か勉強の英語で言って奥様に抱きついてもらう余得を得た。

飯塚は日本から持ってきたビックリ眼鏡と変装用マスクを若い夫婦にかけさせて喜ばれる。大いに国際交流しながら盛り上がった。

 

第7日 2月15日(金曜日)クライストチャーチ泊

マルイアスプリングズの朝は視線を下げれば日本の谷あいのようであるが、視線を上げて山頂を見るとはげ山で荒涼とした感じがする。多賀子さんと松下さんが朝5:00起きで雨中や砂利道走行で汚れた全バイクの洗車してくれたことに感激。

ルイス峠から東側が撮影用の絶好のロケーションということで、朝9:00、隊列を組んで時速60kmでルイス峠に 向かって出発。ルイス峠で一旦停止し、隊列を整えて時速60kmで出発した。時速35km制限の左カーブを廻っていると荻野社長が乗っていた玉虫色塗装を 施したサイドカーを借りて先頭を走行していた菅原がサイドカーもろとも山側の路肩から溝に落ち、山に突っ込んでいるのが目に入った。一人で必死に押し上げ ようともがいている。バイクを失った浩人君に自分のロードキングを与え、荻野社長に借りた車である。時速35km制限の左カーブを時速60kmでまわろう としたため、船側が浮き、修正できずにコースアウトしたのだという。船がいつも乗っている車と反対側についていたため経験が役に立たなかったのだという。 皆で押し上げる。風防が壊れ、エンジンガードが多少曲がっているが、問題なく走れる。松下さんがこれを運転し、菅原は松下さんのショベルヘッドに乗り換え てしばらく走る。そして先行していた本部車に合流した。サイドカーは荻野社長が再び騎乗。ここで菅原は足が痛くもうバイクには乗れないと言い出した。次第 に痛みが増してきたようだ。捻挫か骨折かわからないが、山の中でなにも出来ないため足に添え木して固定し、本部車に移ってもらって出発。

ホープ川沿いの7号線は風光明媚で快適なドライブを楽しむ。200kmにわたって信号などない。

途中小雨が降ってきたが構わず走っているとやがて降り止る。カルバーデンで給油し、菅原の足の痛みが更に増しているので、休まず走り続ける。

いままで快適に走っていたのが急に渋滞に陥る。何事かと前を見ると羊の大群が道路を横断している。皆あわててシャッターを切る。このようなことはここでも珍しくなったとのこと。

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道路を横断する羊の大群

雨が再び降りはじめるが、構わず走っているとまた止む。アンベリーのノーウェスター・カフェでピツァの昼食をと る。数年前にニュージーランドのカフェで1番になった小さいながらも有名なカフェだそうだ。店の名前は一風変わっているが、北カンターベリー地方の夏に吹 く北西のカラカラに乾いた熱風ノース・ウエスタリーが名の由来とのこと。

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ノーウェスター・カフェで石原夫人と

昨年、室井さんがファームステイした北カンタベリーの盆地、ワイカリの大牧場主のジョン・マクミランが奥さんの ジュディーを連れ立ってやってきた。1930年製のサイドバブルエンジン搭載のハーレーダビッドソンを我々に見せるためである。昔20ドルで買ったものだ という。たまたまジェネレーターが故障したのでトレーラーに乗せてきたのだ。マクミラン氏の牧場の広さは530ヘクタール。530ヘクタールというと、ハ グレー公園の約3.6倍。東京ドームの1,370倍だ!!羊2,500頭、牛100頭飼育しているとのこと。

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1930年製ハーレーダビッドソンとジョン

いよいよクライストチャーチも目前である。黙々と走ってクライストチャーチ市内に入る。午後5:00からはじめる 予定の空撮の打ち合わせとヘリの予約のため、ガーデンシティー・ヘリコプターズ社に立ち寄る。松下さんがかって日本人スタッフとして、日本人向けのヘリツ アーの企画、ガイドをした会社である。ヘリ操縦免状を取得してからは自家用,事業用のフライトを担当し、ついにはインストラクターにまでなった。日本の景 気が悪くなってからは食うためにニュージランド航空のパーサーになったが、今でも観光ビジネスで協力関係にある会社である。

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空撮に使うヘリコプター

彼は19才のころの1974年、富士の1,000キロ耐久レースでレーサーとしてデビュー。その後、ラリーに入り 込み、ナビゲーターの使うラリーコンピューターのデザイン開発、そしてイギリスのRACラリーを見に行くことになり、海外に移住に関心を持った。1984 年から1年半はFJ1600というフォーミュラカーで筑波サーキットのシーズンを戦い、結果はシリーズ6位の成績を収めた。30歳になった時、競技車とは すっかり縁を切り、海外移住を決意。候補地にイギリスとアメリカにしたが、ライバルの日本人があまりいなかったニュージーランドを選び、ラリーのコネを 使ってクライストチャーチに1986年始めにやってきた。移住後、すでに17年という。

菅原を病院に運び、同時に壊れたバイクをレンタルショップに返還するために松下さんが本部車を運転して出かける。 残りのメンバーが多賀子さんの自宅兼事務所で時間調整のため小休止していると松下さんから菅原の足は骨折と診断が下ったと連絡が入る。ニュージーランドで は英国と同じく、旅行者の医療費は無料である。新聞の威力は絶大、病院のスタッフも白いあごひげが印象的な菅原のことはよく知っていた。まことに照れくさ い。後、「菅原、一生の不覚」と述懐。

4:30多賀子邸を出発。松下さん、多賀子さん、藤熊監督、中本は先のヘリコプター会社へ向かい、残り全員はサイ ドカー騎乗の荻野社長の先導でダウンタウンの駐車場に向かう。駐車場で整備工のジョーに会う。物好きなら垂涎物の彼の時代がかったピックアップに先導され てサムナーに向かう。ここから10日の逆コースでサミット・ロードを登り、事前に打ち合わせたヘリとの合流地点に向かう。

ヘリを待っている間に菅原を見てくれた女医さんから携帯に電話が入る。石膏の固まり具合をみたいのと航空会社向けの診断書を書くため、航空券を持って明日11:00にもう一度病院に来いという。

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中本の操縦するヘリ (松下氏撮影)

そうこうするうちにヘリが2台やってきた。大きなヘリは中本の操縦で藤熊監督が後部座席から我々の隊列を撮影し、 小さなヘリは多賀子さんの操縦で、松下さんがドアを外してスチル写真撮影とまるで007撮影なみの豪華さだ。ハンドルさばき一つ間違えば崖から落ちそうな 山道をヘリのローターの巻き起こす強い風の中で隊列を乱さずに走るのは難儀であった。いずれにせよめでたく撮影完了し、あとはホテルに向かってゆっくりサ ミット・ロードを引き返す。本日の走行距離はマルイアスプリングズからクライストチャーチまで200km、空撮のための往復は92kmであった。

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ポートヒルを登るギャングと空撮ヘリ (松下氏撮影)

壊れたロードキングの修理代は28万円と出た。ここのレンタルバイク保険の免責額は30万円のため、全額菅原が支払う。

夜はダウンタウンの日本料理屋サラ・サラで打ち上げ式をおこなった。

 

第8日 2月16日(土曜日)オークランド泊

本日は帰国準備の日である。

全車そろってレンタルショップに行き、残りの3台を返却。バイクショップの前を花で飾った路面電車が走る。ここでは今が花のシーズン。そういえば、ここに着いた日にはクラシックカーのパレードもあった。

次に松下さんがリストアした赤いフェアレディーを展示しているクラシックカーディーラーを訪問する。徳山が 1956年物のトライアンフを見つけて昔の恋人に会ったような気持ちになる。若い頃乗っていて今は友人に譲ってしまったものと同型だ。つい衝動的に買って しまう。持ち込みバイクを持ち帰るリトルトン港を3月9日に出港し、3月30日に川崎港着の予定のトランス・パシフィック3号に一緒に積載して持ち帰るこ とになる。

次にはハーレー・ショップにチョッと立ち寄り、小間物を買う。イタ車もけっこう展示してある。

中本は奥様を乗せて再度挑戦とサイドカーを多賀子さんのガレージに置いて行くことを決断。保管中にシッシーバーの 追加と傷ついたフェンダーを整備工のジョーに治してもらうことにする。こちらは免責額3万円なので、保険給付が期待できる。押川は立ゴケで容量が小さく なってしまったガソリンタンクを交換、グリーンウッド氏は磨り減ったスタンドのカムプレートを交換してもらう。全員ポストツーリング・チェックやオイル・ フィルター交換もお願いする。こちらの方がローコストである。

全ての手配が終わってから近くのレストランで昼食をとり、同店内で羊毛製品のショッピングをする。13:00レストラン発、多賀子邸にもどる。

松下さんと多賀子さんが共同で1994年に設立したサーマルコネクション社は手広く観光事業を展開しているが、 ローズガーデン・ウエディング・セレモニーもそのひとつ。セレモニー用の小道具、フォードT型モデルのクラシックカーや、オパール塗装したオースティンの ビンテージカーを見せてもらう。ヘリも当然小道具の一つだ。そもそも松下さんがマルイアスプリングズが売りに出ているのを荻野社長に紹介したのが協力関係 の始まり。多賀子さんはクライストチャーチの北にあるウェカパス保存鉄道A428パシフィック型蒸気機関車のリストアにも資金協力しており、SL運転体験ツァーもサーマルコネックショ ンのメニューの一つである。

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フォードT型モデルのクラシックカー

多賀子さんが案内して中本が日本で展開しているローズガーデン墓地と花コンテストで優勝したお宅のお庭を拝見に出 かける。中本は何かヒントを得たようで盛んにデジカメを使っている。引退したご夫婦が丹精こめて造園したお庭はプロ並の出来。夫は芝刈り、妻は花植えと分 担しているそうである。そういえば多賀子さんの腕もなかなかのもの。昨年応募しなかったのに、賞をいただいたそうである。馬糞は園芸用の肥料としてすぐれ ているという。道を走っていると農場の入り口によく馬糞を袋に入れて売っているのが見える。

帰る時になってわかったのだが、借りたと思った携帯電話は返却する必要がないのだという。要するに163ドルで買い取ったことになるのだそうである。プリペイドカードを買えばまたいつでも使えるのだ。使わなくとも基本料金を支払う必要がある日本とは格段にちがう。

午後3:30空港に送ってもらう。荷物は先に空港に届いている。ここで最後のビデオ撮影。菅原のおかげで全員特設カウンターでチェックイン。菅原は航空会社職員により車椅子で一足先にどこかに消える。

NZ532便は午後5:50分オークランド着。赤道にちかくなったせいかさすがに暖かい。ここは夏だとようやく実感する。

10名全員とその荷物を載せることができるトレーラー付きバンをチャーターしてダウンタウンのシティーライフ・オークランドにチェックイン。(International Hotel Serial No.216)オークランドはサンフランシスコのように坂の町だ。ダウンタウンはビルが密集してクライストチャーチとはイメージが大分異なる。

夕食は徳山の空手の後輩、上原さんの経営する居酒屋、「日本」でとることに衆議一決。午後7:30に上原さんの運 転するバンで出かける。上原さんも観光案内業を兼業でなれたもの、近くのイーデン山の山頂に連れて行ってくれる。オークランドにある沢山のコニーデ型の小 高い丘は全て死火山である。イーデン山もその一つ。山頂からのオークランド市の眺望は絶品。夏時間で午後9:00までは明るい。夕暮れの360度パノラマ を堪能。オークランド市観光は完了するというきわめて生産性の高い旅であった。

まことに人と人のつながりは大切とロータリークラブの精神を改めて確認したものである。

それにしても荻野社長とマルイアスプリングズ・サーマル・リゾート社長の荻野多賀子さん、サーマルコネクション社長の松下さんには大変世話になってしまった。

 

第9日 2月17日(日曜日)成田着

トレーラー付きバンをチャーターして6:30ホテル発。NZ33便は予定通り9:00離陸。午後4:00には小雨の中、無事成田に着陸。石原と中本の手荷物はオークランドに残ってしまったようだが、あとは全て無事。流れ解散。

2002/2/26

Rev. June 21, 2013


後日談

菅原氏は4月21日妙高高原の池の平ホテルで開催予定の反省会に参加すべく治癒速度をあげるため、入院して骨を金属で固定する手術を受けるという。

荻野社長は今度の旅でかって乗っていたサイドカーを乗り回し、すっかりハーレーダビッドソンの楽しみを思い出してしまった。またクラシックなハーレーダビッドソンを買って乗り回そうかと思案しているそうだ。

3月23日に横浜アリーナで行われる徳山昌守のWBC世界スーパー・フライ級タイトルマッチ防衛戦を応援に行こうという話もでている。

バイクを何台も持っている中本を除き、1台しかない、斎藤、押川、青木の車はポストツーリングの点検と修理も終わり、徳山の買ったトライアンフともども、3月はじめにはサーマルコネクションから運送業者に渡った。押川の車など帰国時の方が綺麗になったそうである。

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日本への帰国準備完了した愛車 (松下氏撮影)

諸手続き、サポート、費用に興味のある方は資料編を見てください。

2008/5/28追補


2011/2/23の直下型地震はクライストチャーチに大きな被害をもたらした。大聖堂の塔も上部が倒壊した。ニュージーランドは日本列島と同じく、プレートが沈み込むところに出来た島である。南島ではインド・オー ストラリア・プレートが太平洋プレートの下に沈み込み、北島では逆に太平洋プレートがインド・オーシトラリア・プレートの下に沈み込むという捩れ現象が生じている。このため 、北島のウエリントンから南島のマウイア・スプリング西方を西南の方向に走る活断層があるという 。マグニチュードは6.3であったが震源がクライストチャーチ東南6マイルの山の麓のため1,800ガルの加速度が測定されているという。 堆積層に隠れていた活断層が動いたらしい。多賀子さんは当日マウイア・ホテル関係者とクライストチャーチの中心部のレストランで昼食中だったそうだが、間一髪で逃れることができたそうである。郊外6マイルの自宅には歩いて帰ったが被害はなかったという。 マウイア・スプリングも被害はなかったという。

不幸にも日本人語学留学生が大勢下敷きになって亡くなられたもようである。

March 2, 2011


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