メモ

シリアル番号 表題 日付

1078

エルトゥールル号

2006/10/05

鎌倉プロバスクラブ2006/9/12の例会での内閣府日本青年派遣団トルコ団団長寺下英明氏の講演。

1886年明治政府は諸列強への外交策として彰仁親王と同妃殿下を送り、明治天皇の大勲位菊花大綬章をオスマントルコ帝国第34代スルタン・ハミト2世皇 帝に伝達した。1889年、答礼としてオスマンパシャ提督を日本に派遣し、明治天皇にthe Ornate Grand Order of Ottoman Empireを送呈した。提督の搭乗艦がアリ・ベイ艦長指揮のエルトゥールル号であった。1889年7月インスタンブールを出港、列強支配下にあったイン ドと東南アジアのイスラム教徒にオスマントルコ帝国の旗を翩翻と掲げてイスラムの希望を感応させつつの1年にわたる大航海であった。しかしその帰路、 1990年9月16日、折からの台風に遭遇し熊野灘の岩礁「船甲羅(ごら)礁」に激突し沈没した。地元和歌 山県串本大島村村民の救助も空しくオスマンパシャ提督以下600人の乗員は69名を残し亡くなったのである。 記念碑は紀伊大島東端の樫野崎近くの「船甲羅(ご ら)」が見える 断崖上にある。

明治政府はエルトゥールル号と同型のコルベット型巡洋艦「金剛」「比叡」の2艦をトルコに派遣し、生存者と遺骨を送り届けた。ちなみに「金剛」「比叡」の 艦名は第二次大戦の戦艦名に引継がれ、現在の自衛艦にも使われている。特に「こんごう」は佐世保を母校とする迎撃ミサイルSM3搭載のイージス護衛艦であ る。

時は経って1985年のイラン・イラク戦争時、テヘランの野村大使が日本政府に救援機を飛ばすようもとめたが、ついに日本政府はそのような救援機を飛ばす ことはなかった。窮した野村大使は友人のトルコ大使に相談したところ、時のトルコ共和国政府とトルコ航空は2機の救援機をとばしてくれた。彼らの心の中で は「エルトゥールル号救援の恩を返せ」という発意と合意があったと後日判明した。

まことに「情けは他人のためならず」という言葉の通り。

1904年、日露戦争に日本が勝利したため1876年のセルビアとオスマン・トルコの戦争で負けたトルコが喜んで日本びいきになったことは有名である。東 郷平八郎の名をとったトーゴー通りがトルコにある。

2015年に「海難1890」という映画ができた。この映画では台風でも帆を張ったままであったという疑問が映画監督だったTからでた。

1864年就航の木造フリゲート艦エルトゥールル号は英国製のコルベット型巡洋艦「金剛」「比叡」と同型ということだから最後尾のマストに縦帆、 それ以外のマストに横帆を備えたバーク式帆走用マスト3本のある機帆船ということになる。嵐では帆を完全に下して機関全開で船首を風に向ければ横倒しにな るものではない。機関は石 炭専焼円缶6基 +横置式2気筒2段膨張レシプロ機関1基1軸推進のスクリュー船。2000馬力はあったのでやわではない。ペリーの黒船から37年後で外輪船からスクリューに進化していたのだ。機関不調で出力不足だったのか?ボイラー破裂は沈没後とどこかに書いてあったが本当なのか?

機関がなかった頃の帆船は嵐でもすべての帆をおろすことはあまりしない。船の舵は船が前後に動かなければきかないので全部帆をおろしてベアポールにするとコントロール不 能になり、横倒しになる。ストームジブなど小さな帆をフォアマストに張って舵とバランスをとる。これをヒーブツーといいう。ただ風下に陸地があるとおそかれ、早かれ 座礁するのでできるだけ沖にコースをとるのだが。

バーク式は逆風時にはスクーナーのように縦帆だけを張って航行することもできたので、適切な帆を張っていなかった可能性もある。マストが折れたとの記述があるので帆を下げていなかった可能性もある。

結論は乗組員の練度不足?艦長以下高級乗組員がほぼすべてお雇い外国人で占められ、造船・操艦能力ともに海軍に根付かなかったと指摘される。エルトゥール ル号沈没でイスラム教の盟主オスマン帝国の権威が失墜し、トルコ青年革命の遠因の一つとなったと言われている。こののち、トルコのスルタンはアラビアのロ レンスなどの工作でイラク、シリアを失しなうことになるのだ。

Rev. December 10, 2015


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