読書録

シリアル番号 858

書名

高瀬舟

著者

森鴎外

出版社

集英社

ジャンル

小説

発行日

1992/9/25第1刷
2007/3/25第12刷

購入日

2007/06/06

評価

高瀬舟、阿部一族、山椒大夫、寒山拾得(かんざんじっとく)、堺事件、最後の一句、じいさんばあさん、遺言などを収録。

朝日新聞の編集委員の星浩が年金の過誤に関して日本社会は、官僚を含めて「お上」は間違わないという虚構の上に立っていると書いたことに関し、そのようなことを森鴎外が短編小説に書いていると 家人が思い出し、その短編、「最後の一句」を 収納した文庫本を買ってきた。

「最後の一句」は 父の助命を16才になる「いち」という娘が奉行所に願い出て、ながながと取り調べられた後に、最後に「お上の事に間違いはございますまいから」という一句を言い足したために献身の内に潜む反抗の鉾先を感じた奉行所の役人一同の胸を刺し、死罪御赦免となった話である。 本書を買わなくてもタイトルさえわかれば鴎外の小説は最後の一句もふくめインターネットで読める。

「山椒大夫」は安寿と厨子王で子供の頃から知っている話だ。中世から伝承する復讐譚である説教節、さんせう大夫を敷衍した小説だが、勧善懲悪物を安寿の自己犠牲の物語に作り変えている。「最後の一句」も含め、 鴎外は西洋のキリスト教的な自己犠牲の献身という概念の無かった日本にも歴史の自然性ともいう作用が自己犠牲にも似た行動を呼び起こしていると書きたかったようだ。

安楽死をテーマにした「高瀬舟」や殉死がテーマの「阿部一族」はNHKの朗読で知っていた。とにかく重く暗い話で覚悟なしには読めない。

指揮者としては無能だった乃木大将が明治天皇の大葬の時に殉死したがために社会に大きな衝撃を与え、鴎外に「阿部一族」、漱石に「こころ」を書かせたという。若いとき 「こころ」を読んだときは強い衝撃を得て二度と読み返すきにはならなかった。しかし殉死と関係あるとは記憶していなかった のでインターネットで読み返してみる。友人の死に殉ずじて自殺するという話であったことが分かったが、この歳になっては必然性を感じない。

阿部一族の行動は鎌倉時代の開幕以来の功臣三浦一族とこれに加担した島津、毛利を含めて500人が、法華堂で自害した歴史とも重なる。原因が別でもその後の展開は非常に似ている。自己犠牲を越えた自己放棄とも言える行動である。人間とはこういう風にできているのだろう。

しばらく別の本を読んでいたが久しぶりに東京に出かけた折に電車の中で「寒山拾得」「堺事件」を読んだ。寒山拾得は水墨画で観たことはあるがどういう由来のものか知らなかった。 寒山拾得縁起でこれらの絵は寒山が作った寒山詩にインスピレーションを得た作品だと知った。それにしても鴎外のこの作品は世の俗物性を高みから見下ろしているようですざまじい作品だ。

「堺事件」は史実だという。これも無駄死にの空しさを徹底的に描いている。それにしても読者である私はすでに登場人物たるフランス人なみになっているのだろうとおもう。

「じいさんばあさん」はおだやかな作品だ。若かりしころの激情と老後の平穏の対比がいい。

鴎外が描いた世界は太平洋戦争に向かう日本の流れを予言または助長したものだろうという感慨がふかまる。

鴎外の「舞姫」は郷ひろみの映画で観たし、「イタ・セクスアリス」も拾い読みした記憶はある。 陸軍の軍医総監にも上り詰めた鴎外が作家と二足のワラジを履いていたとしても不利となる自分の恥をさらけだした小説を公表した理由が分からなかった。

インターネットを検索すると 帰国後結婚した妻登志子への挑発説(結局離婚した)、個人の愛を蹂躙してまで国家のために尽くせという日本の官僚機構への恨みが動機との説 がみつかった。しかしもっとも説得力があったのはエリス事件が陸軍省に知れ渡り、鴎外の立場が苦しくなるのを心配した友人の賀古(相沢のモデル)が、山県有朋(天方伯のモデル)に事情を打ち明けて、陸軍内部の批判を抑えるために敢えて書いたという保身弁明説である。そのためエリスとは妊娠させた関係であることにはしながらも、発狂し、鴎外を追って日本に来ていないことにしたという。なかなかの策士だ。ただ鴎外は死ぬまでエリスとは文通していたというし、エリスが唯一の女性だったという説もある。

林望は江戸の一儒医に関する小説「澀江抽斎(しぶえちゅうさい)」 が鴎外の一番の作だという。名文なので一読をすすめるといっている。三島由紀夫もほめているという。しかし インターネットを検索すると脚気の問題が出世主義者の鴎外のトラウマとなっていて、晩年に罪滅ぼしに「澀江抽斎」などの考証史伝ものを執筆したという見解を見つけた。林 や三島は文学の面からみているだけで鴎外の官僚としての行いを考慮に入れていないと感じた。

鴎外はドイツ留学から帰ってすぐ当時の陸軍で基準となっていた白米中心の食事内容を栄養学的に肯定した「フォイトの立場からみた日本兵食論」を書いた。これを書いたのは白米中心の陸軍食の支持者であり、ドイツ留学のため尽力してくれた直接の上司石黒忠悳の意に沿うものであったという。陸軍幹部たちは軍隊に入った下士官兵たちが「折角だから白米を食べたい、麦飯は囚人食か貧乏人の食事だ」と切望したため白米食を支持したのだ。

英国に学んだ海軍は高木兼寛が比較実験をして栄養障害と実証して麦飯やパン食や肉食などの洋食を採用したのに、ドイツでは脚気は細菌が原因だという説をとっていた。陸軍内でも現場では麦飯が脚気予防に良いと経験的に分かっていたが、陸軍中央にいた鴎外は 論文を書いただけでなく、麦飯弾劾の講演までして軍幹部の意向を支持し、おぼえめでたく軍医総監にまでのぼりつめた。この鴎外の組織における従順さと無能な乃木の指揮で日清・日露戦争時に何万という兵が犬死したという説をよみ、彼の 文才も私にとっては巧妙でむなしい自己弁護に費やされたのではなかったのかという疑念が生じたのである。

鴎外が陸軍を去ってはじめて白米中心方針は撤回されたという。その後、鈴木梅太郎がビタミンB1を単離した。

Rev. July 2, 2007


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