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881

濃尾システム

2004/10/17

日本の政治家は江戸時代の農民の文化の継承者である。なぜなら明治政府の議会の代議士は当時の納税者である。大地主を中心としていた。そのなごりが派閥のことを「ムラ」、選挙区のことを「票田」、選挙区へのサービスを「田の草取り」というところにある。

一方官僚とか銀行家はかての武士階級が引き継いだので官僚機構には武家の文化としきたりが引き継がれた。たとえばキャリアとノンキャリアなどは武家の階級意識の名残であり、中央集権もそうである。

鎌倉幕府が開いた中世封建時代の武士は一旦事あるまでは領地で農業に携わっていたため、戦争時に集まりはしたものの大将が負けはじめれば戦闘集団はアッという間に霧散してしまった。

しかし近世の初め織田信長、秀吉、家康と続く濃尾出身の武将は当時出てきた火縄銃に対応するために密集突撃軍団を編み出した。射程150m程度では密集突撃軍団が多少の犠牲覚悟で150mを騎馬で突撃すれば、従来の槍と刀が依然有効だったためである。桶狭間の戦いが中世と近世をわける戦いであった。この優位性は明治になり射程500mのライフルの出現までゆるがなかった。

こうして日本を武力で支配下に入れた濃尾出身の武将達は300年にわたり全日本を支配することになった。明治維新に貴族となった人は公家さんを除けば、皆、濃尾出身の武将達の子孫である。

ではなぜ密集突撃軍団が火縄銃の一斉射撃を浴びて、敵弾に倒れるかもしれないという恐怖をものともとせず殿を捨てずに突撃したかといえば、常日頃殿の側にいて武芸の稽古を繰り返し、結果 、醸成された人間的な絆で殿を裏切ることはできなくなっていたためである。家康が三方が原で武田に敗れても、家康だけは自分の城に逃げおうせたのはこのような忠実な家臣団を持っていたからにほかならない。武田勝頼が天目山で腹を切る羽目になったのも、このような家臣団を養成することに失敗したのだろう。

武士が常日頃殿の側にいて武芸の稽古を繰り返すこと出来るようになったのは、農業が中世の粗放農業から家族を中心とする、高密度農業になったため、余剰農産物が増え、武士は農業労働しなくても良くなったからであるという。また量を確保するために濃尾という広大な面積も必要とした。

文芸春秋11月号、茨城大助教授磯田道央(みちふみ)


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