読書録

シリアル番号 1061

書名

日本辺境論

著者

内田樹(たつる)

出版社

新潮社

ジャンル

文化論

発行日

2009/11/20発行
2010/3/20第14刷

購入日

2010/08/16

評価

新潮新書

旅のつれづれにと買い求めたが、面白く、一挙によむ。

辺境とは中華の対概念。辺境人は「状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私達はつねにその受動者である」と自己認識する。

この本の論旨はほとんど全て引用で構成されている。まず梅棹忠夫の「文明の生態史観」より日本人全体としては「本当の文化は、どこかほかのところでつくられるもの であって、自分のところのは、なんとなくおとっている」という意識をもっている。

川島武宣(たけよし)の「日本人の法意識」より「日本社会の基本原理・基本精神は、『理性から出発 し、互いに独立した平等な個人』のそれではなく、『全体のなかに和を以って存在し、・・・一体を保つ{全体のために個人の独立・自由を没我する}と ころの大和』であり、それは『渾然たる一如一体の和』だ、というのである。

ルース・ベネディクトの「菊と刀」より、「場の親密性を自分のアイデンティティーの一貫性よりも優先させる傾向」の例として、日本 の兵士たちが進んで敵軍に協力すること。これは田中克彦の「ノモンハン戦争  モンゴルと満州国」で ロシア軍も同じ見解を持った。

丸山真男が「超 国家主義者の心理」で「おのれの思想と行動の一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度」を定式化した。これは辻政信参謀の戦後の政治家と しての動きを日本人の典型としてとらえることができるかもしれない。だから日本人一般は彼の責任を問題にしなかったのであろうか?「ある政治的判断につい て、その意図を説明し、それを指導的に遂行し、それがもたらす功罪の全てについて責任を取ろうという人間がいない。既成事実の前には際限なく譲歩し、個人 としての責任の引き受けはこれを拒否する」。日本人は侵略相手の国民にさえ、空気の共有や場の親密性を求めてしまう。

著者は「日露戦争と第一次世界大戦後戦勝国となったとたん、日本は周辺であることをやめて中華になってしまった」という。 国民は日露戦争にかてたのはギリギリのところだったということに気がつかなかったのだろうか?著者は「いやそんなことがあるはずがない。国民的規模での無 知が政府の管理によって達成されることはない。人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままでいることを欲するばあいだけである」 という。 ではなぜ国民は無知のままでいることを望んだのだろうか?日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれど も、先行者の立場から他国を領導することが問題になると途端に思考停止に陥る。「諸国の範となるような国に日本はなってはならない」という国民的な決意が あるからである。なぜならそのような国はもう日本ではないから。日露戦争後、満韓で日本がしたことは「ロシアが日露戦争に勝った場合にしそうなこと」を想 像的に再演したものだ。これは「キャッチアップ」に過ぎない。帝国主義列強に「伍す」ことは国民に悲願であったが「領導する」ことは国民は誰も望んでいな かったし、できるはずがないと思っていた。

「私は被害者です」という自己申告だけではメッセージに倫理性を与えることはできない「私たちは人間としてさらに向上しなければならない」という、一歩踏 み込んだメッセージを発しうるためには、被害事実だけではなく、あるべき世界についてのヴィジョンが必要。けれど我々にはそれができない。

日本人は世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない。なぜならそれが辺境人だから。私た ちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているためではなく、「保証人」を外部の上位者に求めてしまうからで ある。

日本語はメタ・メッセージの支配力が強い。メタ・メッセージとはメッセージの読み方について指示を与えるメッセージである。日本の政治家の討論ではこのメ タ・メッセージの伝達に殆どの時間がつ いやされ、メッセージは後回しになる。自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私達はネゴシエーションできない。

ヘーゲルは「学び」は本質的には自己発見だという。ハイデガーは「自らが根本においてすでに手にしている」ものを取ることを「学び」と定義した。しかし日 本では自分が学ぶべきことを先駆的に知ってはいるが、「いまだ持っていないこと」についての切迫が学びを起動する。「自分の中にもともとあるもの」を把持 しても、それは自分の資産目録には加えない。資産は「外から来たもの」に限定される。そういう感じ方は地政学的に規定された心性なのだとい うことすら忘れてしまう。

日本では自分は開祖にはなりたくない、なれないと思っているから。人間的資質の開発プログラムを本邦では「」とよぶ。おのれの未熟、未完成を正当化できる概念 だ。元祖だといえばおのれの卓越性を証明しなければならないが、弟子なら気楽である。

養老猛氏は日本語は表意文字と表音文字を併用する言語で中華の辺境の特色を残している。これは右脳と左脳を同時平行で使うため、漫画という絵とセリフの同 時進行を理解するマンガ脳が発達した。これは進化の袋小路で、我々は世界でただ一人この道を進むしかない。

August 21, 2010


以上要約したが、感想は

私の総合知学会の「巻頭言」 など日本人には不可能なことと椿氏にコメントされた。そういう考えもあるなとは思っていたが、本著を読んで椿氏の言わんとしたことを納得した。1500年 間中華帝国の辺境として生きてきて、日本語までハイブリッド言語化させ、脳の使い方も マンガ脳になってしまった日本人の思考回路は変わりようもないということか。

自分は一般の日本人とはチト違うと思っていたのだがこの本を読むと典型的な辺境人であると認識させられた。これからずっと日本は中華の辺境としておこぼれ 頂戴で生きてゆくのか、はたまた国を失い、ユダヤ人のように流浪の民になるのか?欧米の出現はただ別の中華に過ぎず、一過性のものであったのか?

JAPAN AS NO.1の頃も今も大部分の日本人は辺境人のままで世界標準を作ろうという大それたことを考えた人も居ないし、これからも出てこない。 ウオークマンやウオシュレット止まり。

ただ欧米の技術やビジネスの開発にはユダヤ人が深く関与している。日本人は彼らのようになれるのか? 地政学的には日本はスエーデン、デンマークかもしれないが、どうだろう?私はユダヤ人的であって欲しいと思うのだが。

Rev. December 9, 2011


著者は評論家とおもっていたら凱風館という合気道の道場経営者だという。

最近、「資本主義末期の国民国家のかたち」という講演で日本の伝統文化の「のれん分け戦略」批判を展開している。

人間は一度有効だった戦略に固着する傾向があります。「待ちぼうけ」という童謡があり ますね。元ネタは韓非子の「守株待兎」という逸話です。畑の隅の切り株にたまたま兎がぶつかって首の骨を折って死んだ。兎を持ち帰った農夫はそれに味をし め、次の日からは耕作を止めて終日兎の来るのを待ち続けた。ついに兎は二度と切り株にぶつからず、畑は荒れ果てて、農夫は国中の笑いものになった。「小成 は大成を妨げる」と言いますけれども、日本はこの農夫に似ている。戦後の二つの成功体験によって、この成功体験、この戦略に居着いてしまった。国力をじっ くり蓄え、文化を豊かにし、国際社会における信認を高めて、独立国、主権国家として国際社会に承認されるという迂遠な道を避け、ただ対米従属していさえす ればよいという「待兎」戦略に切り替えた。

対米従属をすると、「いいこと」があるという、シンプルな入力出力相関システム、いわゆる「ペニー=ガム・メカニズム」のようなものとして日米関係を構想 する人たちがしだいに増えてきて、気がつけば多数派を形成するようになった。日米関係が一種の「ブラックボックス」になってしまって、「対米従属」という 「ペニー銅貨」を放り込むと、「なにかいいこと」という「ガム」が出てくるという単純なメカニズム幻想が定着してしまった。そんなふうに日米関係が現実か ら遊離して、幻想の領域に浮き上がってしまったのが、だいたい80年代なかばから後ではないかと思います。

面従腹背のポーズもそれが二世代三世代にわたって続くうちに変質してしまう。「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまう。対米従属がそのまま日本の国 益増大であると頭から信じ込む人たちが増えてきた。増えてきたどころではなく、政界、財界、メディア、学会、どこでも、対米従属・日米同盟機軸以外の選択 肢を考えたことがある人がいなくなってしまった。

対米従属が国家戦略ではなく、ある種の病的固着となっていることがわかったのは、鳩山さんの普天間基地移転についての発言をめぐる騒ぎのときです。鳩山さ んは、国内に米軍基地、外国軍の基地があるということは望ましいことではないと言ったわけです。当たり前ですよね。主権国家としては、当然、そう発言すべ きである。沖縄の場合は、日本国土の0.6%の面積に、国内の七五%の米軍基地が集中している。これは異常という他ない。この事態に対して、基地を縮小し て欲しい、できたら国外に撤去していただきたいということを要求するのは主権国家としては当然のことなわけです。けれども、この発言に対しては集中的な バッシングがありました。特に外務省と防衛省は、首相の足を引っ張り、結果的に首相の退陣の流れをつくった。この事件は「アメリカの国益を最大化すること が、すなわち日本の国益を最大化することなのである」という信憑を日本の指導層が深く内面化してしまった、彼らの知的頽廃の典型的な症状だったと思ってお ります。アプローチは拙劣だったかも知れないが、首相の主張は正しいという擁護の論陣を張ったメディアは僕の知る限りありませんでした。

アメリカのリベラル派のオリバー・ストーンが日本にはすばらしい文化がある、日本の映画もすばらしい、音楽も美術もすばらしいし、食文化もすばらしい。け れども、日本の政治には見るべきものが何もない。あなた方は実に多くのものを世界にもたらしたけれども、日本のこれまでの総理大臣の中で、世界がどうある べきかについて何ごとかを語った人はいない。一人もいない。Don’t stand for anything 彼らは何一つ代表していない。いかなる大義も掲げたことがない。日本は政治的にはアメリカの属国(client state)であり、衛星国(satellite state)である、と。これは日本の本質をずばりと衝いた言葉だったと思います。

特定秘密保護法というものは、要するに民主国家である日本が、国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約しようとする法律です。国民にとっ ては何の利もない。なぜ、そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐのか。理由は「このような法律がなければアメリカの軍機が漏れて、日米 の共同的な軍事作戦の支障になる」ということでした。アメリカの国益を守るためにであれば、日本国民の言論の自由などは抑圧しても構わない、と。安倍政権 はそういう意思表示をしたわけです。そもそも国家機密というのは、政府のトップレベルから漏洩するから危険なわけです。けれども、今回の特定秘密保護法 は、世界が経験した史上最悪のスパイ事件については全く配慮していない。キム・フィルビー事件のようなかたちでの機密漏洩をどうやって防ぐかということに 関しては誰も一秒も頭を使っていない。そういうことは「ない」ということを前提に法律が起案されている。つまり、今現に、日本で「キム・フィルビー型の諜 報活動」を行っている人間については、「そのようなものは存在しない」とされているわけです。彼らは未来永劫にフリーハンドを保証されたことになる。いな いものは探索しようもないですから。

集団的自衛権もそうです。集団的自衛権というのは、何度も言っていますけれども、平たく言えば「他人の喧嘩を買う権利」のことです。少なくともこれまでの 発動例を見る限りは、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、自分の「シマ 内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。

対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増え る、そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、政策を起 案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。ふつう「こういうこと」は主権国家では起こりません。これは典型的な「買弁」的な行動様 式だからです。植民地でしか起こらない。買弁というのは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいいという考え方をする人たちのこと です。

安倍さんという人は、一応、戦後日本政治家のDNAを少しは引き継いでいますから、さすがにべったりの対米従属ではありません。内心としては、どこかで対 米自立を果さなければならないと思ってはいる。けれども、それを「国益の増大」というかたちではもう考えられないんです。そういう複雑なゲームができるだ けの知力がない。だから、安倍さんは非常にシンプルなゲームをアメリカに仕掛けている。アメリカに対して一つ従属的な政策を実施した後には、一つアメリカが嫌がることをす る。ご存じのとおり、集団的自衛権成立の後に、北朝鮮への経済制裁を一部解除しました。沖縄の仲井真知事を説得して辺野古の埋め立て申請の承認を取り付け た後はすぐに靖国神社に参拝しました。つまり、「アメリカが喜ぶこと」を一つやった後は、「アメリカが嫌がること」を一つやる。おもねった後に足を踏む。 これが安倍晋三の中での「面従腹背」なのです。日米の国益のやりとりではなく、アメリカの国益を増大させた代償に、「彼が個人的にしたいことで、アメリカ が厭がりそうなこと」をやってみせる。主観的には「これで五分五分の交渉をしている」と彼は満足しているのだろうと思いますけれど、靖国参拝や北朝鮮への 譲歩がなぜ日本国益の増大に結びつくのかについての検証はしない。

僕たちが最終的に「くに」を立て直す、ほんとうに「立て直す」ところまで追い詰められていると思うんですけれども、立て直すときに僕らが求める資源という のは、結局、二つしかないわけです。一つは山河です。国破れて山河あり。政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残ります。そこに足場を求める しかない。

これは長く稽古してよくわかったことなんですけれども、実際には、我々は今、存在するもの、そこに具体的に物としてあるものを積み上げていって、一つの組 織や集団をつくっているのではなくて、むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、組織や身体、共同体というものを整えている。これは、僕は実感としてわ かるんです。今、日本が主権国家として再生するために、僕らに必要なものもそれに近いような気がします。存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本 という国を整えて、それをいるべきときに、いるべきところに立たせ、なすべきことを教えてくれるようなもの。そのような指南力のある「存在しないもの」を 手がかりにして国を作って行く。日本国憲法はそのようなものの一つだと思います。理想主義的な憲法ですから、この憲法が求めている「専制と隷従、圧迫と偏 狭を地上から永遠に除去する」ことはたぶん未来永劫実現しない。地上では実現するはずがない。でも、そのような理想を掲げるということは国のかたちを整え る上で非常に有効なわけです。何のためにこの国があるのか、自分の国家は何を実現するために存在するのかということを知るためには、我々が向かっている、 ついにたどりつくことのない無限消失点なるものをしっかりとつかまなければいけない。それなしではどのような組織も立ちゆきません。

Rev. December 7, 2014


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