第32回松談会

和宮下向と中山道沿道の村々ー信州佐久郡の実情をてがかりに

聖徳大学教授、大庭邦彦氏

2008年10月18日 東慶寺書院

NHKの篤姫の人気にあやかり、1862年3月の和宮下向が中山道の人々に与えたインパクトを大庭邦彦氏が中山道の八幡宿本陣小松勇夫が残した古文書を読み解いて2時間半に渡って解説してくれた。2006年8月、沓掛宿から和田宿まで2日かけて歩いたとき八幡宿も通過しているので懐かしく聞いた。

御馬寄村の高みから八幡宿を遠望

同様の古文書は馬込宿にも残されており、島崎藤村が「木曾路《きそじ》はすべて山の中である。あるところは岨《そば》づたいに行く崖《がけ》の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である」と書き始めた「夜明け前」を書くときに資料にしたという。

その第六章に「宿駅のことを知るには、このきびしい制度のあったことを知らねばならない。これは宿駅常置の御伝馬以外に、人馬を補充し、継立《つぎた》てを応援するために設けられたものであった。この制度がいわゆる助郷《すけごう》だ。徳川政府の方針としては、宿駅付近の郷村にある百姓はみなこれに応ずる義務があるとしてあった。助郷は天下の公役《こうえき》で、進んでそのお触れ当てに応ずべきお定めのものとされていた。

旅行も困難な時代であるとは言いながら、参覲交代《さんきんこうたい》の諸大名、公用を帯びた御番衆方《おばんしゅうかた》なぞの当時の通行が、いかに大げさのものであったかを忘れてはならない。徴集の命令のあるごとに、助郷を勤める村民は上下二組に分かれ、上組は木曾の野尻《のじり》と三留野《みどの》の両宿へ、下組は妻籠《つまご》と馬籠《まごめ》の両宿へと出、交代に朝勤め夕勤めの義務に服して来た。もし天龍川の出水なぞで川西の村々にさしつかえの生じた時は、総助郷で出動するという堅い取りきめであった。

そこへ和宮様の御通行があるという。本来なら、これは東海道経由であるべきところだが、それが模様替えになって、木曾街道の方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人が途《みち》に御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、供奉《ぐぶ》の面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。徳川政府の威信の実際に試《ため》さるるような日が、とうとうやって来た」

とある。

年々、助郷の人数や招集の回数が次第に多くなり農民は農業ができなくなり、百姓をやめる人や離散者が増えていった。日光道中沿道における武蔵、上野、下野の各地ではついに助郷一揆にまで発展してしまった例もある。1764年12月から翌年1月にかけて、当時の主要街道の一つであった中山道沿いでは伝馬騒動(てんまそうどう)などの一揆が発生した。一揆の範囲が上野国、武蔵国、信濃国と極めて広範囲に及んだこと、本来の幕府側の関係者として機能するはずの村役人が多数参画したこと、最終的には一揆の原因となった要求を幕府側が取り下げたことから、幕府の威信が低下する一因となった。

ところが和宮下向に随行する公家、武家の数は前代未聞の規模である。公家方10,000人、武家方1,500人、荷物運搬の「通し人足」4,000人、松本・高遠・上田の諸藩の警護の武士10,000人、助郷人足13,000-14,000人、遠国からの雇い人足7,000人、馬士2,000人、総数80,000人であったという。

中山道は道路が良くないので駕籠であったと考えられるが、京から大津までと、江戸入城の時は牛車が使われたという。

このようにして和宮下向はなんとか無事に出来たが、幕府はこの下向7年後に崩壊するのである。助郷制度も明治5年には廃止された。

October 23, 2008


講演会のあとは恒例の鎌倉駅前のキャロットにおける懇親会だ。ここで今回初参加のKが、憲法擁護派の弁護士と近代史解釈に関し大論争をはじめてしまった。こんな込み入った話は酒をあおっていてはらちがあかない。逆にいえば日ごろ素面でもっと論じあったほうが良いと思う。

Rev. November 23, 2008


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