ノースウエスト・アース・フォーラム

東慶寺座禅会2

東慶寺の井上和尚によれば鎌倉の円覚寺では毎年12月1日〜8日まで、雲水達が1日12時間以上毎日ただひたすらに座禅を組む修行があるそうで ある。立つ時は、食事の時と、トイレに行く時だけ。古希を過ぎたノースウエスト・アース・フォーラムの面々にはとてもそんな無謀なことはできない。

とはいえ「煩悩を絶ち、平静な心境に達するに効あるか」本格座禅に挑戦してみるのも一興かと17名のメンバーが参禅した。

参加者一同

同時に東慶寺の梅を楽しんだ。

座禅をした本堂

ー記ー

場所: 東慶寺 北鎌倉駅下車5分
日時: 2010年2月12日(金)
13:30: 書院集合
13:45: 話題提供「古希を過ぎ感ずること ー人生は線香花火」土屋敬一氏
14:30: 「これまでの人生、そして今後をどう生きるか」自由討議(司会青木)
  遠藤書簡「人生道々」にて紹介の嵐山光三郎「人生十五番勝負星取表」での自己評価
  善良に生きるか、不良に生きるか、はたまたどう死ぬか
15:00:

線香1本(45分間)の座禅 井上和尚指導

16:00: 解散

17:00:

大船の「土風炉」で冷えた体を温める

ノースウエスト・アース・フォーラム代表、西澤重篤氏の「折り返し点での総括」。

これもオンライン参加の小笠原氏が「土屋氏が書いた禅宗の説明の中で『仏祖の言葉は解釈によって様々に変ってしまうので、文字・言葉によって悟りを得ることは出来ない』という部分。無数にある聖書の翻訳(今も改訂が続いている)と対比して、面白いと感じました」と書いてきた。

釈迦時代のインドに文字はあったが「釈迦の生存中にその教えを書き記したものは無い」と土屋氏が書いている。オンライン参加の遠藤書簡にも「道」のことというくだりがある。すなわち

西洋は「始めに言葉ありき」

東洋は「始めに道ありき」

どちらも深い意味がありそうだ。「始めに言葉ありき」はノーム・チョムスキーの「プラトンの問題」(Paradox Serial No.6)ではないが我々の頭の中の構造(What)を言っているようであり。 「始めに道ありき」はその構造をどう使うか(How)に重点がありそうだ。

座禅は悟りにいたる修行として始まったものであろうが、悩みなり、煩悩なりの問題意識もなく座禅しても悟りは得られない。良い智恵が湧く時と場所について江戸時代には三上という言葉があった。即ち

@枕上
A鞍上
B厠上

英語にも3Bという同様の言葉がある。すなわち

@Bed Room
ABath Room
BBus Stop

悟りとは問題を解決しようと考え抜いた末(How)に忽然と湧く智恵と同じ現象だろう。どこかのテレビコマーシャルがいうように良い智恵がわく場所は三上でも3Bでもなく、脳みその中(What)なのだ。

今回新規参加者となった一人が「慌てて『碧厳録』読んでもチンプンカンプン、全然解りません。『狂雲集』はもっと解りませんでした。夢窓、一休、沢庵…大徳寺系統の坊主に興味があり、一寸読んではいますが、ただただ恐ろしい行をヤル様な印象、昔取材した司馬さんも、生半かな気分で禅に近付いてはイケナイ!と言っていたので、ヤメる積もりでしたが、やはり、縁も大切、一寸、覗いてみたい気もします。御手柔らかにお願いします」と言っていた。田中氏の感想を聞けばお釈迦様が言葉では悟りは学べないと考えたのはやはり正しいと思う。参加後の田中氏の感想は「そんな恐ろしいことではなかった」

さてNEWフォーラムは小笠原によれば同郷の制帽とセーラー服の同期会である。その修学旅行にインドという声が田中氏からあがった。釈迦が悟りを開いた場所はインドのビハール州にあるブッタガヤ である。ここは現在世界遺産になっている。釈迦が住んだのはバラナシ(ベナレス)だが、初めて布教したのはバラナシ北方10kmのサールナート、鹿野苑(ろくやおん)である。 現在のバラナシは仏教を弾圧したヒンズー教徒の聖地となっている。入滅の地はネパール国境に近いインド東北部にかって存在したマッラ国のクシーナガラである。

お釈迦様が母の脇の下から生まれたルンビニ(藍毘尼) も訪れたいということならネパールもということになる。ネパールとなったゴルカ王国は英国の植民地時代に英国と独立戦争をして勝ったのである。山岳民族出身のグルカ兵はその時以来、英国が最も頼りとする外人部隊となった。

これら釈迦ゆかりの地を巡るのは究極の巡礼ということになるが如何。

アフター座禅でインドへの修学旅行で盛り上がっていると参加できなかった川上氏から「インドについて」の書簡が届いた。インドは多神教の国だがインドから分離独立したパキスタンは一神教の国だ。一神教の国では「世界の宗教は多神教から一神教に 進歩する」と思っているらしい。「なぜ私はイスラム教徒ではないか」の著者イブン・ワラックはふざけて、一神教はやがて、もう一つ神を取り去って無神論になるべき運命にあるという推論をしてみせた。今でも米国民の半分はまだ「ダーウィンの進化論は間違いだ」と信じる田舎者なので救いようがないが、ヨーロッパの人々は ほとんどが無神論者だ。仏教や儒教は哲学か倫理学であってこれもほとんど無神論だから我々は最も進化した宗教?を持っていることになり、まことにめでたい。

参考書:水上 勉「禅とは何かーそれは達磨から始まったー」は平易で分かりやすい。

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December 28, 2009

Rev. April 9, 2010


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