天目山

2004年1月25日、山梨県須玉町で開催される「バイオマスエネルギー交流フォーラム」に出席すべく、朝7時に自宅をラングラーで出発。折からの冬型の気圧配置を考慮し、チェーンは積んだが、富士高原経由の路は敬遠し、厚木経由、八王子ICから中央道に入ることにした。通常なら自宅から八王子までは3時間かかるところなぜか1時間で到着した。冬期、中央道を西に向かって走行するのは初めてである。圏央道とのジャンクションが建設中だった。これでようやく相模から北関東に抜ける道が半分整備されることになる。しばらく行くと左前方に相模湖越しに丹沢山塊方向にどっしりした山が見える。談合坂SAで地図と照合すると思ったとおり2003年5月に登った大室山であった。しばらく走行し、大月にかかるころ左手先方に2004年1月登った三ッ峠山が見える。そうこうしているうちに右手に2003年10月に登った大菩薩嶺から南に連なる巨大山塊が中央道にせまってくるのが見える。中央道は突然笹子峠の下を貫通するトンネルに入る。笹子峠は大菩薩嶺から南に連なる巨大な山塊の南端にあるのだ。八王子から中央道が入り込んだ谷は笹子峠で分水嶺に達し、ここから西は大菩薩嶺に発する日川が甲府盆地に向かって流れている。

目的のフォーラムは午後1時から始まる。八王子に早く着きすぎて余ってしまった2時間を何かで埋めなくてはならない。そこで急に思い立って武田勝頼終焉の地、天目山を訪れることにした。池波正太郎の小説「真田太平記」を読んで気になっていたところである。

1582年、織田軍総攻撃により包囲網が狭まっていくなかで、勝頼は郡内の小山田信茂の意見をとり、大月の岩殿城に籠城することに決め た。わずか60日余りしか住まなかった新府城に火を放ち、岩殿城へ向かう。700名余りの武士、女子供らを従え、わずか1日で甲府盆地を走り抜け、柏尾大善寺へと到着する。しかし岩殿城へ勝頼を迎え入れる為の準備といって、先に行った小山田信茂は待っても迎えをよこさず、ひそかに人質を奪って逃げ、勝頼一行に鉄砲を撃ってきた。このときようやく勝頼は 小山田の謀反を知ったのだ。やむなく勝頼は武田氏ゆかりの天目山へ向かって日川渓谷沿いに田野という村落まで登っていった。しかし織田・徳川連合軍に行く手を阻まれ、 大蔵沢より上流には進むことができなくなり、田野まで引き返した。このとき、家臣の土屋惣蔵昌恒が狭い崖道の岩陰に身を隠し、片手は藤蔓につかまり、片手に刀を持ち、せまりくる敵兵を次々に切っては谷底に蹴落としたという 。この谷川を見たかったのである。

勝沼ICで中央道を降り、甲州街道を東京方面にしばらく戻ると「かいやまと」駅前にでる。ここからしばらく進み、景徳院方向に左折して日川沿いに登ってゆく。沢水はすべて凍結し、田野を過ぎるところでチェーン無しではこの道は登れないと表示がでている。しかしアスファルトの路面は乾燥しているのでゆっくりと 木賊(とくさ)の集落にあるという天目山栖雲寺(てんもくざんせいうんじ)に向かう。日川渓谷竜門峡という石碑が立っているところまでくると日川の渓谷は次第に狭くなり、水は完全に凍っていた。

日川渓谷竜門峡

竜門峡の写真の狭まった岩盤の向こう側にある岩に隠れて土屋惣蔵が片手で千人切りをしたらしい。ちょうどその上の道路沿いに石碑があり、史跡「土屋惣蔵片手切」の看板に説明があった。

幸いにも雪に阻まれることもなく栖雲寺にたどりつけた。栖雲寺は1348年に業海浄和尚が開いた禅刹と説明板に書いてある。 境内に「蕎麦切発祥の地」と書かれた大きな茶色の自然石の石碑が建っている。そばが日本に伝来したのは奈良時代以前と言われるが,その食べ方は脱穀したそばの実をそのまま雑穀類に混ぜて煮たり,そば粉を練った“そばがき”や”そば焼餅”の形態であり,細く切って“麺”(=そば切り) の形態で食べるようになったのは室町時代のころと思われる。ここ栖雲寺が そば切り発祥の地とされる根拠の一つとして,天野信景という人物(尾張藩士・国学者)が書いた「塩尻」という随筆に、「蕎麦切りは甲州よりはじまる。初め天目山参拝多かりし時参拝の諸人に食を売るにそばを練りて旅籠とせしに、其後うどむを学びて今のそば切りとはなり・・・」という記述があることが挙げられる。他に そば切りの発祥地として “中山道本山宿”説や “木曽・大桑村の定勝寺”説もある。しかし栖雲寺説を含めいずれの説も確実な発祥地と断定できる内容ではないとされる。

無住となった寺は荒れている。村の有志が維持しているのだという。寺の境内から振り返ると谷の向こうに富士が少し顔をのぞかせていた。勝頼はここに到達できなかったので当然何の言及もない。夏ならここから嵯峨塩温泉経由大菩薩峠にゆけるのだが、又の機会とし下山する。帰路、田野の郷にある景徳院に立ち寄る。

景徳院の山門

勝頼は信玄の没後、天下取りに努力したが、長篠の戦いに敗れてのちも幾多の戦いに敗れ、武運つたなく田野の郷で自刃してはてた。この武田勝頼一族の遺骸を葬った場所である。勝頼37才、夫人19才、信勝16才であったという。後、徳川家康が勝頼以下50名の家臣の菩提をとむらうために建立した田野寺が今の景徳院である。ここに五輪塔がある。今は傾き哀れを催す。

ちょうど2時間の時間調整ができたので再度勝沼ICから須玉ICまで中央道を行く。勝沼から見る南アルプスは、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳、北岳、から赤石岳だけまで見渡せすばらしい。北には夏は雲の中に隠れている金峰山(きんぷさん)も見える。わが郷里の千曲川はこの山を源流としている。八ヶ岳もその前のニセ八ヶ岳もバッチリである。須玉では将来のバイクツアーの拠点とすべく、若神楼を事前調査する。(Hotel Serial No.274)ここからは瑞垣山の岩場も遠くによく見える。

豊科以北の長野道はタイヤチェーン必要との電光掲示が見えた。会場の須玉町ふれあい舘には12:30到着。ここからは鳳凰三山の地蔵岳のオベリスクがよく見える。

鳳凰三山をバックにしたふれあい舘

夕刻5時にシンポが終了した。帰路は逆コースを採用。大月を過ぎると葛野川(かずのがわ)の標識がみえる。東電の揚水発電を行なう葛野川発電所のあるあの川である。夕食も含め3時間半で帰れた。総走行距離は358km。

January 26, 2004

Rev. November 18, 2009


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