パラサイト気分

グリーンウッド氏かっての職場仲間をメンバーとする非公開のラウンドテーブル21(一種の掲示板)に投稿した雑感をご紹介いたします。


小学館の広瀬氏がファックスで「円の支配者」および「虚構の終焉」の著者、リチャード・ヴェルナー氏が草思社の宣伝本 に書いた一文のコピーを送ってくれました。「オオカミは良い牧羊犬にはならない」ー新日銀総裁についてメディアが報道しないことというエッセイを書いてます。小泉首相になにがあったかという思わせぶりなかきかたです。冒頭から;

「代表制民主主義では、有権者は政治家とその行動について入手できる情報をもとに判断をくだす。したがってマス・メディアは客観的で偏見のない報道をしなければならない。ジャーナリストは嫌がられる批判的な質問をし、矛盾を突いて支配体制に挑み、それによって市民社会を支えるべきことを知っている。にもかかわらず、福井が総裁に任命されるとわかった時点で賢明なマスコミはその義務を放棄した。なぜか?もし福井に批判的な記事をかけば以後、日銀から情報をもらえなくなることを恐れたからである。と断定している。それを可能ににしているのが、日本の記者クラブ制度であると。記者クラブ制度はナチ・ドイツのヨーゼフ・ゲッペルスが効果的にしかも国民の抗議を呼ばないように隠避に民間メディアを操作し、ジャーナリストに影響を及ぼすために始めたもので、このようなものがいまだに日本に残っているのは驚だ。日本はまだナチの権力維持メカニズムに支配されているといってもよいのではないか?小泉氏の 『構造改革なくして景気回復なし』という文句は前川リポートから借用した文言である。前川リポートは日銀プリンス達が作成した政策文書である。そして福井は前川、三重野、福井と続くプリンスそのものである。すなわち小泉は日銀プリンスとその後継者が演じるマネーゲームの繰り人形だということになる。小泉がなぜ福井を任命せざるを得なかったはしたがって不思議ではない 」

となかなか過激です。我々は権力に迎合するマスコミの繰り人形になっているようです。ところで先日、瑞垣山にとあるNPOの技術顧問としてマキカートのデモ運転にでかけましたら日テレが取材にきてました。どうしてこんなものにと疑問をもちましたが、山梨県庁が呼んだようです。やはりマスコミは行政に弱いと感じました。つきあっておかなければ情報をもらえなくなる恐怖があるのだと察します。なんとなさけない。どうもニュースを自分で発掘する能力を磨いてないのではと察します。記者クラブ制とは居心地の良いものなのですね。

東大法卒、長銀入行、執行役員になったが、経営陣を批判して辞任したという経歴の持ち主の箭内昇氏が著した2002年中公新書刊「メガバンクの誤算ー銀行復活は可能か」を読んだ小松さんの読後感を興味を持って読ませてもらいました。小松さんの要約によれば著者は克明に歴史的事実にもとづいて、米銀の復活、邦銀の没落、金融行政の規制の実体、キャリア制度の落とし穴、銀行の人事制度などが克明に書いた後、ハーバード大学サマーズ学長(前財務長官)が、「日本経済復活のカギは勉強することにあり」と強調し、「これからは知識の時代です。長期的に見れば経済を強くする上で土地や機械以上に知識が必要です。そして知識社会の中心に位置するのは大学です。一生学びつづける環境がなければ経済戦争に勝てません」と語っていることを紹介しているそうですが、日本の知的社会は勉強不足はなぜそうなったかということに関し、私は先のメールでサラリーマンも国民も漫然と船に乗っている気分だからと断定させてもらいました。その後、司馬遼太郎の「オランダ紀行」を読んでいたら、なぜベルギーのアントワープを舞台にした児童文学「フランダースの犬」が日本で生き残り、本場ベルギーでもこの物語を書いた著者ウィーダの国、英国でも誰も知らない物語になってしまったかについての司馬遼太郎の考察が案外マトをついていて、日本人の考えない、学ばないという悪弊の気分のもとになっているのではないかとおもいましたのでご紹介します。

少年ネロとその飼い犬パトラッシュとが、寄り添って慰めあいつつ生き、結局は疎外にうちひしがれて死ぬ物語なのですが、ネロ少年は十五にもなっているのに、なぜ雄々しく自分の人生を切りひらこうとしなかったのか、という点でヨーロッパで不満が出てきたから忘れ去られてしまったのだそうです。十六世紀以来、自律と個人の独立を説き続けたプロテスタンティズムがその根元にあるとの推測です。英国では十八歳で親から自立する。二十歳でなお母親につきそってもらって部屋をさがす青年には家主は気味わるがって部屋を貸さないそうです。ではなぜ、「フランダースの犬」が日本人に好まれるか?パトラッシュは西洋流に鍛えられた犬ではなく、主人に忠実なだけがとりえの、いわば忠犬で、かって命を助けられた恩返しをするという忠義の動機まで持っているのがその一つの理由ではないかという見方を紹介してます。

このような、自律と個人の独立をみとめず、忠義をれいさんする物語を読んだり、テレビアニメでみて育つ日本人に自ら考えて学べといっても無理でしょう。一応大学に進学はしますが、勉強する動機も目的も見つけられないようです。まず社会的気分が変わらねばなにも変わらないと思います。皆様もお読みになったかもしれませんが、2003/8/13の朝日新聞の「ナショナリズムを問い直す」という特集で評論家宮崎哲弥がパラサイト・ナショナリズムというお話を展開しています。これも日本人の「フランダースの犬」びいきと同根とおもいますが。以下紹介します。

「『自分の国に誇りを感ずる』日本人は54%しかおらず、調査した74国中71位で、66%が『国民皆が安心して暮せるよう国はもっと責任をもつべきだ』と考えている。かかる人々が安易に国家に依存する風潮を評論家宮崎哲弥はパラサイト・ナショナリズムと呼ぶことを提唱。彼によると政治学者故藤田省三は1980年代に 『安楽への全体主義』としてパラサイト・ナショナリズムを見通していたという。ケネディー大統領の『国が諸君に何ができるかを問うな。諸君が国に何ができるかを問え』という近代ナショナリズムの高邁な理想とは大きな差がある。ケネディーの言葉を実践するとは例えばバーナード・ショーの 『悪魔の弟子』が言わんとするととだろう。『悪魔の弟子』ではある男が別の反逆者に間違われるのだが、一言の抗弁もせずに捕らまる。処刑される運命とは知りながら従容と連行される話である。男が身代わりになったのは 『仁とか義とか、そういうものとは違う別の或るものなのだ』と森鴎外は評釈していると藤田は紹介し、今日本で失われたのは『これだな!』と思ったという。この『或るもの』の存在を鮮烈に実感させる事件を宮崎哲弥は紹介している。フツ族とツチ族の部族対立がジェノサイドに発展したルワンダで実際に起きた事件である。事態がようやく収拾に向かい始めた1997年、ジェノサイド実行者の残党が寄宿舎を襲い、十代の女子学生17人を捕らえた。襲撃犯が少女達にツチ族とフツ族に分かれるように命じたところ、彼女らは 『自分達はただルワンダ人である』とこばんだ。そして無差別に射殺された。宮崎哲弥は特攻隊員は死後の顕彰を期待して死んだとは思えず、その死がただの犬死にだということを知った上で出撃したのは、この 『或るもの』によるのではないかと言っている」

というものです。自衛隊は安全が保証されないかぎりイラクへ派遣しないという国会論争もこのパラサイト気分から出てくる考えなのでしょうね。ドイツ・フランスが兵を送らないというのとは全く次元の異なる話しだとは思いませんか?国際的にはまったく恥ずかしい話ではないでしょうか?貯めこんだ金を全て失えば日本は国際的には見放されるのではという予感がします。そして心ある日本人も日本を捨てるでしょう。かってスペインの支配に甘んじたアントワープからスペインと戦って自由を得たアムステルダムに商人とユダヤ人が大挙して引っ越し、結果としてアントワープは沈滞の海に沈んだように。私の英会話の個人教授の米国人がかって語った「日本に興味を持ったのは、特攻隊が米艦船に突っ込む姿を自分の目で見た時だった」という言葉を思い出します。そういう彼の遠くを見るような目をなつかしく思い出します。少なくともこの時、日本人は尊敬されたのだと思います。

ビートたけしのギャグ「赤信号、みんなで渡れば怖くない」もこのパラサイト気分を見事に言い当てているのではと思います。国民にこのようなパラサイト気分を醸成したのは支配階層の「よらしむべし、知らしむべからず」の指導理念ではなかったかと思うものです。元通産審議官、天谷直弘氏の定義した「ピーターパン症候群」も同じものでしょう。

リチャード・ヴェルナー氏が指摘する日本の記者クラブ制度はナチの権力維持メカニズムそのものだという指摘も含め、我々は戦後60年、何も変えずにここまで来てしまったのだという感を深くします。自律と個人の独立をみとめず、忠義をれいさんする気分が日本の一時的成功に貢献したが故にでしょうか?ヒポクラテスも「王のいるところには、必ずやもっとも臆病なる者がいる。なぜなら、魂を売り渡した家臣は、他人の権力を強化するためには、何のためらいもなく自らの命を危険にさらすようなことはしないからである。しかしながら、誰のためでもなく自らのために危険を冒す自立した人々は、その危険に喜んで身を投じる。なぜなら、勝利という褒美を享受するのは他でもない自分自身だからである。」といっているではないですか。

皆様はどう思われますか?

August 30, 2003

Rev. October 30, 2007


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