第4章 1964年

労働組合執行委員広報宣伝部長

組合新聞発行と大事故発生

 

 

爆発事故で16名の死者

私が入社した当時は従業員協議会はあったが、争議権をもち、ユニオン・ショップ制という社員である以上、組合員にはいらなければならないという強制力をも つ労働組合は存在していなかった。

私の2年前に入社した文系の立川さん、翁川さん、技術系の桂さんなどの先輩が発起人になって労働組合を結成した。ところがいざ選挙をしてみると、結成した 発起人達には人望がなかったとみえては落選してしまった。全社員に愚直にダイレクトメールを出した、ダークホースの人事部の 橋詰さんがトップ当選して委員長に就任した。私は職場委員として仲間からかつぎあげられて会合に出席するようになった。会合に出ると黙っていられない性分 のため、結構発言した。いま聞けば恥ずかしくなるようなことをいったのではないかと思う。ところが 橋詰委員長に目をつけられてしまい、三顧の礼で執行委員に担ぎ出されてしまった。

そのときの執行委員仲間には1年前に入社した東工大、機械卒の坊主頭の少し右翼ポイ、常畠さん、東大の造船を出たという小山さん、学生研修の時世話になっ た人事部の小宮さん(故人)がいる。

橋詰委員長は広報宣伝部長をやってくれという。考えて見るとこれ以外の役は勤まりそうもなかった。とはいえ完全にノンポリ学生だったため、組合運動についての知識もない。どのようなスタイルで編集しようかと NHKのエンジニアだった従兄弟に相談すると日本放送労働 組合(日放労)の機関紙を2年分送ってくれた。当時の委員長は後に社会党の代議士になった上田哲とかいう記者だった。これを通読して、自分のスタイルに近 いと思い 、編集の雛形にした。記事を人に頼むのが下手で主筆として筆を取る”吹き矢”(朝日の天声人語に相当する)以外にもインタビュー記事などを結構自分で書か なければならないはめになった。

小山さんは技術系というよりは文人風の人で気軽に原稿を書いてくれるが、組合新聞にはどうかという感じであまり多くはたのめなかった。月1回、専従の書記 を務めてくれた女性と印刷会社におもむき、紙面構成、見出しの考案、写真の割付など結構楽しんだ。校正は苦手で書記がたよりだった。 私は字が下手なので私の原稿は植字工が誤植をし、何度も校正をしなければならない。仕事の原稿をタイピストに浄書してもらうときも同じで、ついに自分でパ ソコンに入力するようになり、今に至っている。本HPも誤字、脱字が多く皆様にご迷惑をおかけしていることと思う。小山さんは達筆で、校正ではほとんど修 正したことはなかった。

ある日のこと、校了として日暮れ時、当時赤坂にあった本社に戻ると、会社の正面に新聞社旗をかかげた黒塗りの乗用車が止まっている。自分の席に行くと役員 室に来いとメモがある。何事かとその部屋に赴くと女性秘書が盛んに電話連絡している。S電工川崎工場の建設現場で爆発事故があり、作業員を含め、16名が 死亡したもようであるという。当日、労使交渉中であった組合役員と会社役員が全員死傷者が収容されている付近の病院に見舞いに出はらったという。わたしは 役員室で待機せよとのこと。たまたま労災保険に事務手続きのため現場事務所を訪問していた女性社員を含め7-8名の社員の犠牲者がでていた。

すぐ印刷所に電話して印刷を止め、明日朝、一面を死者の追悼記事で埋めることを決断した。人事部に出向き、顔写真を借り、死者にちかかった人を捕まえて思 い出を語ってもらって、徹夜で追悼記事を書き上げ、朝一番で印刷所に持っていってもらった。夕刻には全組合員に配布することができた。

数日後、組合としての弔意を表しに死亡したまだ独身の若い社員の家にでかけた、両親は不在であったがおばあさんにおあいすることができた。仕事でも面識が あった人なので思い出話しをして帰ることができた。 いまでも生前の若い、彼の姿が頭をよぎると、喪失感に襲われる。

 

溶接の火が原因との朝日新聞の誤報

翌朝の朝日新聞のトップ見出しは爆発した1号プラントの写真と横で2号プラントの工事していた溶接の火で爆発したと大きな見出しが出た。こうなると加害者 は工事をしていたわが社ということになる。後日の調査で溶接の火はまったく濡れ衣であることがわかた。

1号プラント運転中 オフスペックのエチレンオキサイドを運転員がブローダウン・タンクにブローダウンした。ところ液がオーバーフローして大気に触れ、それが着火したため、タ ンク内液が外から加熱され、内部圧力が上昇した。たまたま現場事務所の方向を向いていたブローダウンタンクのマンホールのボルトがまず千切れて蓋が飛び、 そこから吹き出た火炎が2号プラント建設事務所を直撃したのだ。その蓋は事務所を飛び越え100mくらい離れた道路に落下した。

この横方向の推力で竪型のブローダウン・タンクのシェル部分がスカート部分と切断され、横倒しになった。このプロジェクト担当ではなかったが、直後現場を 視察したS電工OBによれば破裂したタンクのシェルは下部溶接線の二番で切れていたという。通常溶接線の二番は溶接線より弱い。内部圧力に抗しきれず破断 したことが分かる。現場を見た北氏もスカートは回転モーメントにより押しつぶされていたという。

溶接の火による火災は完全な誤報であるが、爆発した1号プラントはエチレンオキサイドとこれを水和してつくるエチレングリコールを製造するプラントであっ た。中間製品であるエチレンオキサイドと副産物のオキサイド類は不安定で空気が無くとも加熱するだけで分解爆発する。空気とふれれば引火点は-18oC だ。エチレングリコールは安定な二価のアルコールで水溶液は自動車エンジンの不凍液となる不燃物質である。しかし純成分は可燃物質で引火点が111oC である。

この1号プラントは第二次大戦後米国政府がドイツ化学産業を研究して出したリポートPB REPORTSを参考にして上司大杉が設計したプラントであっ た。私はこの2号プラントの水和反応器の設計を手伝うよういわれたが担当者の楢沼が一人でしてしまった。やむなく安全弁設計担当となった。亡くなった若い プロジェクト部門の社員とは安全弁で接点があったのである。

この1号プラントのプロジェクトマネジャーは葛戸氏でその下で北氏が現場を担当していた。製品のグリコールは化粧品会社にも売るために窒素ガスによるスト リッピングで脱臭する 工程が必要となった。鮭崎が設計し、この実験運転を北氏が担当していた。この試運転中、グリコール液がブローダウンタンクからオーバーフローして、それに 火がつき、 そばに居た北氏は消火器で消し止めた。沸騰状態にあるグリコール液があふれ出て空気にふれれば溶接の火花などなくともすぐ火がつく。泡沫で真っ白になって 現場事務所に戻った姿にぞっこん惚れてしまった現場事務所の事務員が現在の奥さんだという。この火災事故は思えば後の大事故の前兆だったと北氏は述懐す る。エチレンオキサイドとグリコールとの違いがあるが同じことが2度繰り返されたのだ。

事故原因としてブローダウンタンクの容量が小さすぎたか、液面高でのアラームが付いていなかったか、オペレーターが散漫な運転をしたのかの検討がなされた かどうかは私は蚊帳の外で知らない。

運転中のプラントのすぐ隣の狭い場所に2号プラントを建設し、その建設事務所も至近距離にあるという高度成長期の無理がたたった事故ともいえるだろう。

朝日新聞はその後、誤報の訂正記事も出さなかった。社員の朝日新聞にたいする不信はその後、消えることはなかった。これがきっかけで広報部は朝日にだけは 新聞広告も出さなくなる。すると制裁として当社の記事は完全に没とするという悪循環におちいって今日に至っている。朝日という新聞はそういう新聞である。 朝日新聞の傲慢さ、正義の味方という仮面の裏はそんなものだと指摘する人が多いが、故なるかなと思う。

操業中に事故を起こしたS電工は事故原因を工事として押し付けたまま知らん顔をした。これに失望した操業社長はついに生きている間、S電工の仕事をするこ とはなかった。

 

マッチ・ポンプ

広報宣伝部長を1年担当して次の年は本店支部長になった。こうなるといよいよ政治活動が中心となる。賃上げを成功させるためには組合員の意識をいざとなれ ばストをも辞さずという思いを持つように誘導しなければならない。しかしエンジニアが中心の集団はクールなものでわれ関せずという顔でこちらのアジ演説を 聞いている。それでも継続は力なり、次第にムードが高まってくる。執行委員会を徹夜で開き、ストに突入すべきか否かを議論した。意外にも工場労働者出身の 執行委員は年もとっていてストはすべきでないという意見である。ではここら辺で矛をおさめようと決めるのだが、そこからが地獄がまっているのだ。腰抜けの 弱虫という罵詈雑言を一身に浴びることになる。マッチ・ポンプではないかという声もあった。まさにその通りとおもう。これ以上執行委員は続けられないと、 2年を区切りに執行委員には立候補しなかった。

数世代後の若い執行委員達は共産党員の介入を許すことになり、ストを打って組合員の顰蹙を買うようになる。 エンジニアという職業はストに参加していても仕事のことを考えている。結局ただ働きすることになる。遅れを取り戻すためにかえっていそがしくなり、ストな ど歓迎しないのだ。演壇に立ってアジ演説をぶった長山君は結局 わが社を辞め、独立してデータベース構築のコンサルティングファームを創業した桂さんの会社に入り、未だに常務として支えているらしい。

赤坂の本社ビルで徹夜で執行委員会を開催した後、宿直室で仮眠をとっていると守衛がやってきて、社員の奥さんが夫と喧嘩したら夫が出て行ったきり帰ってこ ない、もしかしたら会社にいるかと思い赤坂まで探しにきている。どうしようもないので朝まで一緒の部屋で寝かせてやってくれという。土木技師の貧崎さんの 金髪の奥さんであった。人生いろいろであるが、

「金髪女性は激しいものだ」

と感心したものである。

 

舌禍事件

会社人事部も創業経営者の下、労働組合を経営に取り込み良い提言をしてもらおうとしており、定期的に組合役員と協議して いた。何か言えというので何を提言したかもう覚えてい ないが、身近に経験したことをベースに提言をした。今にして思えば全ての情報を知らないで提言したのでたいしたことは言っていないとおもう。さて協議会が 終わって数時間後、 東畠部長 (故人)が真っ赤な顔をして私をよびつけ、やぶからぼうに

「お前はなにを言ったのだ、おれがやめるかおまえがやめるか白黒つけようではないか」

といわれた。会社の管理職に配布された協議会の議事録を読んだらとんでもないことが書いてあるという。こちらは議事録になにを書かれたか知らないので執行 委員長と会社の窓口に連絡した。どうも議事録には部長は積極的ではなく 、いつもにげを打つ人間であると書かれていたようだ。わたしにとって部長ははるか上の人で直接会うこともなく、その人の能力や個性など知る由もない。知っ ているのは直属の上司の 後畠課長だけである。この直属の上司は私は大変尊敬していたが、私は課長のクールさには感服しつつも、若かったから課長の消極的な姿勢には不満をもってい た。いまにして思えばこの人には先が見えていて、徒労に終わると見えたものには消極的態度をとったのであろう。自分が人生の後半でとったと同じ態度であっ た。議事録を書いた人は私のこうしたもやもやした発言を簡単にまとめて プロセス設計部は消極的な部長の犠牲になっているというような意味合いのことを書いたようだ。あれはおれの意見だったのだよと議事録をまとめた人事部の人 があとで告白していた。まあ人事部には体よく利用されたのだとおもう。議事録からその部分が削除されて一件落着したように見えた。

しかし東畠部長殿はその後しばらくして競争会社のN社に転出された。ご自身悟るところがあったのか、創業者社長がシテヤッタリと組合を利用して部長の首を 切ったのか、そのいずれでもない理由かは私には全くわか らない。ただその後、仕事で創業者社長の直接の指導を受けるようになるのだが、今にして思えば、厳しい人と社内では恐れられていたのに、

「なぜか私にはいつも気味悪い位やさしかったなあ」

と思い出す。もしかしたらひらの社員が中間管理職を飛ばしたかもしれないのだ。

この舌禍事件は「項 羽と劉邦」の後半に詳しく書いたので興味のある方はどうぞ。

 

銀座線赤坂駅に陳情

労組の幹部として会社の勤労部に銀座線の赤坂駅出口を新橋側にも設けてもらうよう交渉してくれと申し入れた。しかし会社の担当者は労組としても別途陳情し てもらえればより有効だろうという。そこで駅に陳情にでかけた。助役が応対してくれたが、新橋線と池袋線が地下で二階建てになっていて地下3階に連絡通路 を設けることしかできない。そうすると東側に出口を作るメリットがすくないが、いずれにせよそのような要望があることは本社に伝えると言ってくれた。この 要望は我々は赤坂を捨て、ローコストの鶴見に引っ越してから実現した。地下3階といえどもエスカレーターの利用で可能となったのである。

社章

米国ニュージャージー州在住の作家冷泉彰彦氏が2008年の大統領選に関する報告で「ジョン・マケインという英雄的な軍歴を誇る人物と、バラク・オバマと いうユニークな候補の組み合わせということで、この『愛国心論争』はヒートアップしています。問題は非常に小さなことから始まりました。星条旗のバッジを 背広の襟につけるかどうか、全くバカバカしいことから論争が始まったのです。911以降、高揚するナショナリズムの象徴として、星条旗のバッジというのは かなり広まっています。ですが、オバマは当初はこのバッジをつけるのを拒否していました。

勿論、リベラル的な世界観からすれば、バッジをつけるかどうかで忠誠心の有無を判定するなどという発想は、趣味の問題として受け入れられない、オバマの動 機はそういうことだったと思います。オバマ自身はそんなことは言っていませんが、そもそもこの背広の襟の『穴』は『フラワー・ホール』といって、一輪の花 を刺すための洒落た工夫でした。そこに所属集団のバッジをつけて忠誠心を表すのは、朝鮮労働党と
昭和時代の日本企業ぐらいなもので、国旗のバッジなどというのは無粋この上ないのであり、リベラルな価値観には反するものだと思います」

と書いていた。ソ連でも国旗のバッジが大好きでそれを見て内心笑っていたのだが、社章も同じようなものだとして指摘されて、そういえば他社の人々がそれを 着けているのをみて会社が社章をデザインして発表したとき、歓迎の気持ちを持ったことを思い出した。初めのうちは熱心につけていたが次第に付けなくなっ た。それが自然でよかったと今にして思う。
 

December 30, 2004

Rev. January 11, 2012

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