トルコ



(イラン編から)

1.物がいっぱい(ドゥバヤジット、8月1〜3日)

 イラン側で出国手続きを済ませて建物の外に出るとトルコ側の古い建物の脇の扉を開けて入ると人がたくさんいた。 ところが、人に案内されるとイミグレーションに着いて入国手続きがあっさり終わってしまった。 その場で税関か?と思うと青年がこっちだと手招きしてあっさり外に出てしまった。

 外に出るとアララット山がそびえていた。 山の向こうはアルメニアとややこしい所らしい。
 そこから乗合バン、ドルムシュでドゥバヤジットへ。 車体はフォードの大型バンで、新車だった。 ただ、人は乗れるだけ、物は積めるだけというのはまだアジアなのだろう。
 トルコ側のアララット山の麓は草原で、遊牧民の羊の群れをよく見かけた。 イミグレーションから外に出てから急に犬が増えたのはそういう事なのだろう。

 30分ばかり走るとドゥバヤジットの町に着いた。 街を歩くと小奇麗な店が多く、銀行にはタイ並みにATMがあり、簡単にキャッシングできた。 街を歩く女性はヨーロッパの人みたいに被り物をしていない女性がいた。 さらにタイや日本並みに品揃え豊富なスーパーマーケットまであった。 インドから西へ向かうに連れて生活水準が高くなっていくのだろうか?

 宿は以前、旅行者から紹介してもらったHotel Saruhan(トリプルを3人でシェアして一人2,500,000TL = 2USDくらい?)にした。 宿には思ったよりヨーロッパからの旅行者がいた。 トルコは彼らにとって行きやすい所なのだろう。

2.湖畔の教会(ワン、8月3〜5日)

 国境の町ドゥバヤジットからドルムシュで3時間というそれほど離れていない所にワン湖に面したワンという町へ向かう事にした。 そこからさらに1時間ほどで中世のアルメニア教会が建っている島に行けるらしい。

 昼前にドゥバヤジットを出たドルムシュは溶岩流の跡の中を通った。 この近辺にはアララット山の他にも火山があるらしい。 いくつか遊牧民の村を通ったが、どこにもパラボラアンテナを立てた家があった。 衛星放送の普及の高さを感じる。 ベンツやBMWなど高級車と馬車が同じ道路を走っているほど貧富の差を感じるトルコだが、大抵の村には電気が通っているらしい。
 途中、いくつか軍の基地があった。 検問は2回あって、パスポートの提示を求められた。 この地域を含むトルコ南東部はつい最近までクルド人のテロ組織と軍との間で戦闘が繰り広げられた所だ。
 2時間ほど経つとワン湖が見えてきた。 深い青色で、思ったよりきれいな色をしている。

 ワン湖に沿ってしばらく進んでからドルムシュはワンの町に着いた。 トルコでは辺境の地なのかもしれないが、国境の町から来ると都会に見えてしまう。 ドゥバヤジットと同じでこの町もトルコの中では物価が低い方らしい。 最初、部屋を見せてもらった宿はトイレとシャワーが付いていて、そこそこ清潔で5百万TLだった。 およそ4USD。 イスタンブールではドミトリーでも5USDするらしい。 もっと安く済むと思い、古そうな宿に行くとタイの安宿程度の部屋にベットがあるだけの部屋が2百万TL、シャワーは百万別途かかるが、それでも節約できるのでここに決めた。(Diyarbakir Otel)

 ワン到着の翌日にアルメニア教会があるアクダマール島へ行った。 ワンの町からドルムシュを乗り継いで湖畔の船着き場に着いた。 島への船は15人ほど集まらないと出ないらしい。 30分ほど待ってから出航となった。
 アクダマール島に着いて坂を登るとアルメニア教会に着いた。 同じ島に他に修道院やあるアルメニア王朝の宮殿もあったらしいが、今は廃虚となった赤茶けた教会だけ残っている。 入口にはイランのイスファハンでも見かけたアルメニア文字でなにやら記述されていた。 建物の周囲には彫刻が施されていて、アダムとイブらしい男女の彫刻もあった。 内部にはまだ壁画が残っていたが、落書きが多いのは残念だ。 とはいえ、湖に浮かぶ小島の教会というのはなかなかムードがある所だ。

 アクダマール島観光はアルメニア教会見学の他に湖で泳ぐこともできる。 ただ、湖水は弱アルカリ性らしく、島のトイレで手を洗うと手がヌルヌルした。 かぶれることを恐れてすぐに持参のペットボトルの水で手を洗った。 肌の弱い人にはお勧めできない。 湖が澄んでいるのは藻が生えにくいということもあるのだろう。

 ワンの町に戻ってから紀元前からあるという城塞跡に行ってみた。 城塞は山の上に聳え立っていたもので、今は石垣くらいしか残っていない。 麓は遊牧の村で、羊の放牧が行われていた。 その日は日曜日だったので芝生の上で家族連れがくつろいでいた。 これも遊牧民の習慣の名残だろうか?

 山を登ると辺りが一望できた。 登り口の反対側には2〜3の古い建物の廃虚があって、その周辺には数え切れないくらいの窪みがあった。 恐らく昔のワンの町だろう。
 第一次大戦後のオスマントルコ崩壊による混乱で、もともとアナトリアに混在していたトルコ人とアルメニア人との間の戦いがアナトリア東部で繰り広げられた。 この町も戦場になり、負けたアルメニア側はアナトリアから一掃された。 戦後に今の場所にワンの町が再建したために昔の町は廃虚になったらしい。 廃虚を見ていてなんとも言えない不気味な感じがした。

3.坂の町で一休み(トラブゾン、8月5〜11日)

 日曜日にワンの町を出てオスマン朝の建築がいくつか残っているエルズルムの町へ向かった。 ところが、トルコでも博物館など文化的な施設は月曜日は休日にするので急遽エルズルムでバスを乗り換えて黒海に面した港町トラブゾンへ向かった。

 東部アナトリアはトルコでは田舎なのだろうか?道はイランの幹線道路より整備されてなく、交通量は少ない。 山がちなのでアップダウンが多い。 山には木が少なく、草で覆われている。
 ところが、トラブゾンに近づくに連れて木が増えてきた。 二つ目の峠では山に霧がかかっていた。 霧の中を進むのは中国以来では? そんな中でも日曜日だから家族連れが草地に敷物を敷いてくつろいでいた。

 トラブゾンの町には夕方に着いた。 ドルムシュで町の中心まで行って、カトリックの教会が経営しているSancta Maria Katolik Kilisesi Hostel(D、特に宿泊代金を設定してなく、寄付という形をとっている)へ行ってみた。 教会の人はあまり歓迎している感じではなかった。 恐らく混雑しているのだろうと思った。 それなら別の宿泊施設へ行っても良かったのだが、宿泊してもいいということなので宿泊する事にした。
 あとで教会の人の話しを聞くと日本人の飲酒によるトラブルがあったらしく、同じ部屋にいたドイツの人は缶ビールを飲んでいたが、私には教会内での飲酒は断られた。 パキスタン、イランと飲酒が認められていない地域に長く旅行してトルコで急に飲酒を再開したのでつい調子に乗って悪酔いする日本人旅行者が多いのだろうか?ドゥバヤジットの宿でも日本人には飲酒を咎めてもヨーロッパの旅行者には何も言わなかった。

 あまりいい感じがしなかったので2泊して出るつもりだったが、翌日急にお腹が痛くなった。 教会の人に付き添ってもらって診療所で診察してもらった。 盲腸を疑われたが、結局胃炎らしい。 インド以来、食事が合わないらしく良く胃炎になる。 最初はインドのカレーにふんだんに使われるスパイスによるものかと思ったが、慣れない食事で胃の機能が低下しているらしい。 標高が低く、海に面しているので湿度が高く環境が変わった事もあったかもしれない。
 その日から一日一回、注射を5日間連続で打つ事になった。 やむを得ずこの町で休養することになった。

 初日は動くのがやっとだったが、三日目には散歩できるようになった。 この町には第一次大戦後の混乱までギリシャ人が大勢いたらしく、石畳の坂道が今でも残っていてヨーロッパの町みたいだ。 教会もその名残なのだろう。
 今ではこの町はトルコ人の町だが、旧ソ連崩壊前後からグルジアやアゼルバイジャン、ロシアから人が訪れるようになった。 そのため、町にはロシア語の看板が目につく。 古くからの交易の町らしいがソ連崩壊で復活したようだ。

 体調を崩した翌日にテヘランで宿が同じだった韓国人の学生が部屋にやって来た。 彼もあまり歓迎された感じがしなかったらしい。 彼と夕食に出ると、パキスタンからほぼ同じルートをたどっていた日本人旅行者と出会った。 彼は教会に宿泊を断られたらしい。 理由は1週間先まで満室とのことだった。 しかし、イスラエルやヨーロッパの旅行者の出入りはあり、彼らが予約しているとは思えなかった。
 意志の疎通が難しい事、習慣の違いがあるのかもしれないが、彼らは日本人の事を誤解しているのだろう。
注射が終わった翌日、この町を出て、シリアへ向かう事にした。

4.出会い、別れ(シワス、8月11、12日)

 トラブゾンからシリア国境の町アンタクヤへは直行のバスはないだろうと思い、アンタクヤからバスで3時間の地中海に面した拠点都市アダナへのバスをサービスの良さで評判がいいバス会社、Metoroの事務所で聞いてみた。 すると、19時間かかるとのことだった。 病み上がりにバス19時間は辛いので中間の町シワスかマラテヤへのバスを聞いてみたが、適当な路線がないらしい。 とりあえず、バスターミナルでエルズルムへのバスに乗ってそこから適当なバスに乗り換える事を考えた。

 翌日、バスターミナルでシワス行きバスを聞いてみると1時間後の10時に出るらしい。 到着は午後7時。 迷わず券を買ってバスに乗った。
 このバスはアダナへ向かうものらしい。 トラブゾンからだと需要が無いのか?アダナまで途中の町はアダナ行きを途中下車する形になるらしい。

 シワスまでの道もあまり整備されてない様だった。 交通量は疎らだった。 トラブゾンを出て峠を越えると草に覆われた山が多い車窓だったが、次第に木が増えてきた。 シワス到着は暗くなって午後8時になった。 大きな町ではないのでバスターミナルから歩いて町の中心まで行けた。 特に見所があるわけではないので1泊して翌日夕方のバスでアダナへ向かう事にした。 そこで、ちょっといい部屋に宿泊することにした。 1泊一千万TLでシャワー、テレビ付きの広いダブルの部屋にした。(Otel Agul) イスタンブールのドミトリーが8百万ということを考えるとまだ安い。

 翌日、アダナ行きバスの手配をしてから昼までホテルの部屋にいた。 午後にチェックアウトして午後9時のバス会社の事務所からバスターミナルへの送迎サービスまで時間をつぶすのに苦労した。

 夕方になって町の中心の広場を歩くと10歳くらいの女の子が声を掛けてきた。 イラン以来、子供の相手をするのが面倒になっていたので最初は適当にあしらっていたが暇だったので少しずつ相手をするようにした。 すると、特にからかっているわけでもなく、珍しいだけみたいでイヤミな感じがしなかった。 とはいえ、お互い意志の疎通ができるわけではないので苦労した。 外国人が少ないこの町なので他の子供達も珍しがって寄ってきたが、少し相手をするとすぐどこかへ行ってしまう。 でも、彼女はなかなか離れなかった。
 日が暮れて夜の8時になって食事をするために女の子にお別れしたいことを身振りで告げた。 一緒にいた子と写真を撮ってから彼女と別れた。 他の子は撮影されたので満足して去ったが、女の子はさびしそうに振り向いた。

 バスターミナルでバスを待っているとある事に気が付いた。 タイトルは忘れたが40年ほど前のフランス映画で戦場から帰って精神に異常を来した男と孤児院でもう来ないだろう親を待っている女の子の触れ合いを描いたものを見た事があった。 例の女の子はその映画の子供にどこか似ていた。 ただ、彼女は友達には恵まれているらしい。 でも、ひょっとしたら彼女の家庭に何か事情があるのかもしれない。
 また、こんな事も思い出した。
時々、子連れで旅行しているヨーロッパの旅行者を見掛けるが、移動ばかりだし、子連れは珍しいので似たような境遇の子供がいないせいか、遊び相手を探している子供が多い。
 事情があって親の愛情に恵まれない、友達がいない子供はよそ者に求める事があるらしい。 彼らはまだ、我慢するという事をよく分ってないからだろう。

 そんなことを考えていたら20歳くらいの女性二人組に「どうかしましたか?」と声を掛けられた。 よほど沈んだ表情をしていたのだろう。

5.地中海の交易の町(アンタクヤ、8月13、14日)

 アダナのバスターミナルには翌朝の6時に着いた。 トイレに行って、軽く食事をしてから店の人にアンタクヤ行きのバス会社を聞くとすぐ近くにあった。 行ってみると丁度5分後朝7時に出る便があるというので渡りに船だ。 バスはどこかからの夜行だったらしく、まばらに席が空いていた。 アダナはトルコの地中海側では有数の都会らしく、アンタクヤへ向かう高速の両側に団地が建ち並んでいた。 ほとんど建設中で、数年前の韓国を彷彿させる。 しばらく進むと右手に海が見えた。 地中海だ。 左手は小高い山で、オリーブ園か果樹園らしいものが中腹まで並んでいた。 さらに進むと雨が降り出してきた。 傘いらずの乾燥気候ではなくなったらしい。 幸い、アンタクヤの町の前で雨は止んだ。

 アンタクヤのバスターミナルは大きくなかったが、国際バスの客引き、闇両替と国境の町らしい雰囲気は十分にあった。 宿はバスターミナルの裏手にいくつかあった。 その中のガイドブック「地球の歩き方、トルコ編」でも紹介されているHotel Ercanにした。 ベットだけの個室が2百万と安いが、屋根裏部屋で窓があるものの、風通しが悪いので蒸し暑い。 インド、パキスタンあたりの安宿の雰囲気だった。 お客はシリアからだろうか? 商用らしいおじさんばかりだった。 今でも交易の町らしい。 トルコではどこにでもある両替屋だが、この町ではシリアの通貨、シリア・ポンドを用意してある店があった。

 宿周辺はトルコの町にしてはホコリっぽい所だった。 町自体狭い路地の多い所だった。 今まで訪れた所とは雰囲気が違う。 もっとも、新市街というところがあるかもしれないが。
 この町は昔から地中海の交易の町だったらしく、町には古代ローマの芸術でおなじみのモザイク画を展示した博物館がある。 アジアを横断していよいよヨーロッパの文化に接する事になったらしい。 不幸にもその日は月曜日で休館日だったので見学できなかったが・・・。

 着いたその日にシリア行きの準備を済ませて、翌朝にバスターミナルでシリア北部の拠点で第二の都市、アレッポまでの国際バスに乗った。 このバスターミナルからは他にもシリアの首都ダマスカスや唯一の港湾都市ラタキアなどシリア各地と、どこかで乗り換えるかもしれないがヨルダンの首都アンマン、サウジアラビアへのチケットも手配できるらしい。

 バスは私を含めて乗客3人という寂しいものだった。 アンタクヤの市街地を出るとどこまでも畑が続いていた。 道の舗装状態が悪く、振動する中でシリアの出入国カードを記入した。
 1時間ほどでトルコ側のイミグレーションに到着。 こちらはパスポートを渡すだけで手続きできた。 再びバスに乗って国境へ向かった。

(シリア編へ)

(シリア編から)

6.田舎の国境越えの罠(アンタクヤ、8月27日)

 トルコ側でも問題なく入国できた。 しかし、問題はそこからだった。
 アンタクヤまでバスがあるといったシリアのタクシーの運転手の話しを鵜呑みにしてイミグレーションからアンタクヤまで乗合タクシー、ドルムシュがあるだろうと思い込んでいたが、これは少し違っていた。

 イミグレーションの役人から近くからドルムシュが出ているらしいことを聞いたのだが、やって来たのは普通のタクシーだった。 この運転手、非常にせこいオヤジでアンタクヤに行きたいというと「20ドル」と、とんでもないことを言った。 そんなに払う気はなかったので「2〜3ドル位なら払える。」というと「そこで寝ていろ!」という横柄さだった。 そんな横柄さの根拠は1時間ぐらいそこで待っていてわかった。 どうやら、アンタクヤへのドルムシュが出ている町までそのタクシー1台しか足がないらしい。 10分ほどしてその運転手が再び現れた時は「隣町からドルムシュが出ている。 5ドルで行くぞ。」と戦術を変えた。 「3ドルなら行く。」というと運転手は少し考えてから承諾したが、どうも怪しいので歩いて行くことにした。

 少し歩くと隣町まで5kmと標識に出ていた。 大体1時間と荷物があるときついことはきついが、歩けないことはない距離だ。 最初は人気の無い林の中を歩いた。 場合によっては犯罪に巻き込まれることも考えられる。 少々後悔したが、後には引けない。 林を抜けると畑に出て、遠くに例の町らしい集落が見えた。 町が見えたのは心強いが、日差しを浴びるので暑かった。 子供達が珍しがって「ハロー!」と声をかけるが、答える余裕は無かった。 坂を登ってようやく町に着いた。 息切れしながら町の人にドルムシュ乗り場を聞いてようやく落ち着くことができた。 田舎のドルムシュなのでさらに30分ほど待たされてようやく出発した。 田舎らしく、乗客は顔見知りが多いらしい。 そこから1時間ほどでアンタクヤの町に着いた。 事前に土地の人から聞いた1,250,000TLを運転手に渡すと向こうは当然のように受け取った。
 問題だったのはトルコ側の国境から隣町までのアクセスだけだが、やはり田舎の国境は不便ということを思い知らされた。

 アンタクヤで次の目的地、カッパドキア・ギョレメへのチケットを確保してから両替屋で余ったシリア・ポンドの処分、トルコリラの入手を済ませて食堂で3皿、4,500,000TL分の食事をした。 とにかく空腹だった。 食べ終わると食べ過ぎたかと思ったが、次の朝まで持った。

7.奇岩の里(カッパドキア、8月28〜30日)

 トルコでは新しい年度が始まるのだろうか?バスが乗客を乗せるために停車する度に大勢の人達に見送られた青年が何人か乗車した。 故郷を離れて進学、就職だろうか?それとも兵役に就くためだろうか?

 翌朝、カッパドキアの拠点都市、カイセリで乗り換えて1時間ほどで今まで見たことが無い光景が展開されてきた。 自然にできたと思われる石柱が目の前にたくさん現れてきた。 それから2つほど町を過ぎてから目的地もギョレメに到着した。
 宿はたくさんあるので選ぶのが大変だ。 最初2ドルのドミトリーを見せてもらったが、暗くて湿気が多そうな地下室だったので遠慮した。 高台に上がるときれいなホテルがあったが、案の定1泊20ドルと高価だったのでここも遠慮した。 さらに高台へ行くとドミトリーが4ドル、5百万TLというカッパドキアでは平均的らしい料金の宿があった。 眺めが良く、女性スタッフがいるので奇岩をくり貫いたものだが清潔そうな部屋だった。 少し考えたが、やっぱり雰囲気がいいのでここ、Panoramic Cave Pensionにチェックインした。

 着いたその日は疲れていたので休養し、翌日から観光を始めた。
観光第1日目は地上の奇岩をくり貫いた住居の跡を訪れた。 最初はギョレメ村近くにあるゼルベを訪れた。 バスで東へ数分の所で降りてゼルベへ向かって歩きはじめた。 道は奇岩の谷の中にあって周囲は畑だった。 トルコの地方では今でも昔の日本の農婦のもんぺみたいなズボンに被り物をした伝統的な服装の女性をみかけることができる。 畑にはそんな恰好の農婦が作業をしていた。
 30分ほど歩くと奇岩が集まっている所が見えてきた。 土産物屋が建ち並び、観光バスが止まっている所を見るとここも観光地らしい。 標識にはパシャバーと書いてあった。 ここもカッパドキアの見所の一つである。 ここも奇岩をくり貫いた住居跡が見物だ。

 カッパドキアはもともとキリスト教徒の住居だった。 そのため、所々に教会がある。
 今、人口のほとんどがイスラム教徒のトルコ共和国でキリスト教徒とは不自然な感じがするが、第一次大戦後の混乱まで今のトルコ共和国領土のほとんどのアナトリアにはイスラム教徒とキリスト教徒が混在していたらしい。 それが、西洋から来た1国家1民族の「国民国家」という思想が広まってから宗教、人種でグループを作るようになりそれぞれが対立関係になって戦闘に至り、最後にはアナトリアのイスラム教徒はそのまま、キリスト教徒はギリシャかアルメニアなど周辺諸国へという「住み分け」が出来てしまった。 丁度、今のボスニアみたいなものだろう。
 トルコ共和国成立後、カッパドキアにいたキリスト教徒はギリシャへ移住させられたらしい。

 パシャバーから歩いて10分くらいでゼルベに着いた。 ゼルベは奇岩の住居跡というより谷の岩壁をくり貫いて住居を作ったらしいところで、40年前まで人が生活していたらしい。 今は屋外博物館として公開されている。 イスラム教徒の住居だった時代があるため、ここにはモスクの跡もある。 狭い階段を上らなければ住居に入れない。 よく生活できたものだ。

 ギョレメに戻って昼食後にギョレメ屋外博物館を訪れた。 ここはギョレメ村から徒歩で気軽に訪れることが出来る。 ここは住居跡というより教会か修道院跡といった感じで、フレスコ画が目玉になる。 ところが、かんじんの目玉の所が屋外博物館の入場料とは別に外国人もトルコ人も学生も7百万TLかかる。 7百万はいくらインフレが激しいトルコでも大金だ。 したがってほとんどの人は切符売場で驚いて、がっかりして戻ってしまう。 私も入らなかった。 切符売場の窓に貼られた絵葉書から保存状況もさることながら、フレスコ画そのものが素晴らしいものだろう。 保存のコストもあるだろうが、もう少し考えて欲しいものだ。
 そのため、ギョレメ屋外博物館のそばにある博物館の半券で入場できるフレスコ画が鑑賞できる教会の方が印象がよかった。

 翌日、ギョレメの南西にある岩盤の大地を掘った地下都市を訪れた。 しかし、そこはガイドの解説がないとよくわからない所で、数分で出てしまった。
 次に岩山をくり貫いたユチュヒサールを訪れた。 ここはギョレメの西隣なので地下都市の帰りに訪れることが出来る。 そこの外観はなかなか面白かったが、中に入る道が良くわからなかった。 周辺にひしめいているカフェの案内の看板が邪魔で道に迷う。 聞けば行けただろうが面倒になって諦めた。
 ギョレメ村へはそこから歩いて帰った。 途中にある展望ポイントからの村の眺めはまずまずだった。 今まで訪れた所が不作だったのでその日は差し引きゼロといったところだった。

 人によっては1週間くらい必要というカッパドキアだったが、私には2日で十分だった。 その日の晩に次の目的地、地中海側のアンタルヤへ向かった。
 

8.遺跡での舞踏(アンタルヤ、8月31日)

 バスは地元ギョレメ社を利用した。 偶然かもしれないが、ベテラン風女性乗務員が乗車していて、きめ細かいサービスに満足だった。 やはり接客業は女性の方がいい。
 夜行バスの短所で外の様子は分らなかったが、翌朝明るくなると木がまばらに生える岩山の中をバスは走っていた。 そして朝7時にアンタルヤのバスターミナルに到着した。 到着後に旧市街のカレイチへバスで向かった。 バスを降りると目的の宿、Lazer Pansiyonの経営者で日本語が達者で陽気なエルさんが客引きをしていた。 そんなわけでここでの宿探しは非常に楽だった。

 その日は洗濯をして休養したが、夜にアンタルヤから東へ1時間ほどの古代ローマ遺跡アスペンドスの円形劇場で伝統的な舞踏を現代的にアレンジしたダンスショーが開かれるというので見にいった。
 1時間ほど前に会場に着いたのだが、すでにめぼしい席は埋まっていた。 夜9時45分開演という遅い時間のわりに人気があるらしい。 8月末はトルコ共和国成立のためにアタチュルク率いる軍隊が勝利した日らしく、休日ということだ。 休日で家族連れや旅行に来た観光客で会場は賑わっていた。
 しかし、現代でもこの古代ローマの遺跡は少し改装しただけでコンサートが開ける。 大した物である。

 ショーはトルコの歴史的背景が良く分ってないと面白くないかもしれないし、個人的には伝統的な舞踏そのものを鑑賞したかったが、ダンサー達の熱演は楽しめた。 現代的にアレンジされたせいもあるだろうが、今まで見た朝鮮、ウイグル、インドの舞踏よりもヨーロッパ的な感じがした。 トルコ人自身、踊りが好きな人達らしく、彼らが踊っているのを何度か見た。

9.遺跡の海でクルージング(アンタルヤ、9月1〜11日)

 アンタルヤ到着の翌日、Lazer Pansiyonのツアーの目玉、ケコワ島クルージングに参加した。
ケコワ島はアンタルヤから車で3時間の港からボートを貸切って行くらしい。 もともと1,800年前の古代ローマ時代に栄えた町だが、地震により土地が突然沈下してかなりの土地が海底に沈んだらしい。 その遺跡の海域をボートでクルージングして適当な所で泳いで夕日を見てから帰るのでほぼ1日ツアーということらしい。 そのためか?費用が30ドルと安くない。 しかし、海底遺跡とインドネシア以来の久々の海水浴ということに引かれて参加することにした。

 引率はエルさんのお兄さんのヒコさんだった。 この人はよくしゃべるエルさんと対称的で穏やかな人だった。 ヒコさん運転のバンに乗って宿を出発、3時間後の昼前に港に到着した。 船は漁船を改造したらしい小型船で、船長はよく飲み、よく踊る陽気な人だった。
 最初は海底遺跡訪問から始まった。 遺跡の保護のためだろうが、遺跡の海上で停船することができないのでのんびり見ることができなかった。 仕方の無いことだろう。 遺跡の海域の陸上には沈まなかった遺跡があった。 大体住居跡の雰囲気だった。

 海底遺跡クルージングが終わると浅い所で海水浴となった。 ここも周辺は遺跡だった。 海水浴の間、船長が浜辺でバーベキューをやって昼食になった。 臭いを嗅ぎ付けた山羊が寄ってきた。 山羊は草食動物のはずだが、ここの山羊は鶏肉を食べた。 辺りは緑が少ない岩場ばかりなのでいつも飢えているのだろう。 ここには他の船もたくさん係留していた。 そのせいか、土地の人が船で土産物やジュース、アイスクリームを売る海上売店をやっていた。

 次のポイントは水深の深い所で泳いだ。 熱帯の海ではないのでさすがに珊瑚礁は無いが、海水が濃いブル
ーのきれいなものだった。 ここにもアイスクリームの海上売店がやって来た。
 トルコは貧富の差がかなり激しいらしく、町にベンツやBMWが走り回っている脇にコジキがいるといういびつな社会らしい。 そのため、金になることは何でもやるし、観光地では外国人相手の悪どい商売も多いらしい。 観光地の土産物屋ならまだしも普通のトルコ人が訪れる大衆食堂まで外国人と見るとトルコ人より多めに金を請求する始末だ。 表面ではヨーロッパに近い落ち着いた町並みだが、アジアではベトナム、インドに次いで金にせこい土地柄らしい。

 第三のポイントは洞窟に船を入れて周辺で泳いだ。 しかし、すでに6時。 私は泳がなかった。 最後に夕日を見てもとの港に帰った。 その日に夜行バスで移動する人がいたので、帰りはヒコさんが飛ばして2時間ほどで宿に戻った。 疲れたが久々の海水浴を堪能できて楽しかった。

 ケコワ島ツアーの後、しばらく宿でのんびりしてもうそろそろ出ようかと思った時に同じ宿にいた日本人旅行者に誘われて9月8日に釣りツアーに出た。 この日はエルさんが出ていたので再びヒコさんが引率した。
 今回は宿から徒歩で行ける旧市街のマリーナから出航となった。 今回の船長はドラえもんに出ているガキ大将ジャイアンがそのまま大きくなった感じの恰幅の人だった。
 最初はケコワ島ツアーの時にもやった船からルアーを流してサバを何匹か釣った。 それからポイントに着いて糸を垂らした。 イワシは誰でも簡単に釣れたが、次はそうは行かなかった。 今度は子エビを餌に海底に糸を垂らして釣るというもので、ツアー参加者は皆初心者。 船長やヒコさんは次々に魚を釣り上げていたが、ツアー参加者はなかなか釣れず、糸を引き上げると餌のエビを魚に食い逃げされる始末だった。 それでもイワシを含めてバケツ一杯に魚が釣れた。
 釣った魚は宿のキッチンを借りて大調理大会となった。 北海道のツーリングでは時々やっていたが海外では初めてだった。 こうして魚はすべてフライになって皆の胃の中に収まった。

10.君たちはデブじゃない!(エフェス、9月12,13日)

 なんとなくまったりしてしまったアンタルヤを後にして、トルコ観光の目玉の一つ、古代ギリシャ遺跡のエフェスを訪れることにした。

 移動は今回も夜行バスだった。 400kmも離れてないのだが、直行は夜行しかないそうだ。 エルさんにバス会社の事務所まで送ってもらってセルビスでオトガルにたどりついた。 客引きが寄ってくるが、チケットを見せると諦める。 該当するバス会社の人なら事務所まで案内してもらえる。
 事務所でバス乗り場を教えてもらってから食堂で軽く食事をとる。 テレビは現地時間の昼下がりに起こったアメリカ同時テロ事件の報道を流していた。 バス会社の人に笑顔で「広島のアダを返せたな!」と言われて複雑な心境だった。

 バスは定刻通り夜の9時半にバスターミナルを発った。 エフェスはアンタルヤの西なのだが、バスは東に向かっていた。 もしや、と思ったがすぐに進路を北に取り、しばらく走ってから西へ向かった。 バスはエフェスの北にあるトルコ、エーゲ海に面した都会イズミールへ向かうもので、早朝に目的地に降ろされるのかと思ったが夜中に乗り換えとなった。 目的地はエフェスに近いセルチュクという大きくないらしい町で、観光地とはいえ需要が少ないのだろう。 セルチュクには朝5時過ぎに着いた。 こんな時間でも客引きがいたが、評判が良くないので振り切ってバスターミナルで明るくなるのを待った。 明るくなってからエルさんから紹介してもらったEyup Family Pansiyonで部屋を見せてもらった。 案内してくれたおじさんに少し値切ってみると朝早いこともあっただろうが、しぶしぶ応じてくれた。(W5$)

 一眠りしてからエフェスへ向かった。 最初はバスに乗って行こうとしたが、歩いても30分らしいので歩くことにした。
 エフェスへの道は国道に沿った道だったが、さすが有名観光地、遊歩道を整備中だったので歩きやすかった。 車道には観光バスが多かった。 エフェス観光にはツアーが一般的らしい。 それでも個人旅行派も何人かいるらしい。 時々観光客らしい人達とすれ違った。
 駐車場にはたくさんのバスや車が止まっていた。 人や土産物屋の多さは夏休みの観光地といった感じだった。 入場券を買って入場すると、どこも人で一杯だった。 トルコ人の家族連れが多かったが、やはりメインはヨーロッパからの団体さんだった。 その中に日本の団体さんも混じっていた。
 遺跡自体は保存状態が良く、古代ギリシャ・ローマ遺跡でおなじみの円形劇場がきれいに残っていた。 ここでもアンタルヤのアスペンドスみたいに時々催し物があるらしい。 他にオーストリアの援助で修復された図書館だった建物も人を集めていた。

 遺跡を観光後、街に戻って昼食をとってから博物館に入った。 入口にはアンタルヤの宿で一緒だった人、3人と再会した。 少し雑談をしてから博物館を見学した。 なかなか整備されていて、当時の様子を再現した写真も展示されていて面白かった。
 見学を終えて、外で4人で雑談をしていると西洋人の団体さんが見学を終えて出ていった。 なぜかトルコを旅行している西洋人は肥満が多い。 それも、日本人の肥満など問題にしないくらい肥えている。 そんな様子を見た私はついつい「デブばっかりですねぇ。」と言ってしまった。
 少し経ってから一緒にいた人が神妙な表情で「誰に向かって言ったんですか?」と言った。 丁度私がしゃべった時、妙齢の女性を含む日本人の団体さんが通りかかっていて、「日本人の団体の女の人が反応してましたよ。」とも言われた。 日本人の団体さんには肥満がいなかった。

 その時、私は日本の美容産業の宣伝の恐ろしさ?を感じた。 なるほど、新聞、雑誌、テレビとあらゆるメディアに「やせる」という宣伝が氾濫している。 その元は西洋社会だろう。 西洋人は脂肪や糖分が多い食生活をしていることと、遺伝から太ると半端じゃないほど脂肪が着いてしまう。 彼らが悩むのは理解できるが、多少贅肉がついた程度の人まで気にすることは無いと思うが。

 とにかく、「デブ」と言う言葉はめったに使うもんじゃないらしい。

11.翔んだ中年カップル(イズミール、9月13日)

 セルチュクには1泊だけして翌日にはエーゲ海に面したトルコ第三の都会、イズミールでちょっと観光してからイスタンブールへ向かうことにした。

 セルチュクからイズミールまでは頻繁にバスが出ていて、1時間ちょっとで着いてしまう。 バスは昔ながらの生活をしている農村を通っていった。 車窓が楽しめるのが昼間の移動の醍醐味だ。
 イズミールのオトガルは最近建てられたのか?近代的な建物だった。 着いてからかねてから定評のあるバス会社、Metroの事務所を探して夜のイスタンブール行きの予約をした。 古い地球の歩き方にはここに観光案内所があることになっているが、警官に聞いてみると無いらしい。 荷物を有料の預かり所で預けてから市バスで市街へ向かった。

 市街に着いてから観光案内所を探して無料の地図をもらってから町歩きを始めた。 といっても特に観光の目玉があるわけでもない町で、桟橋そばの公園でのんびりした。 ベンチにはいちゃつく中年カップルがいて、目障りだった。 一応、トルコはイスラム教徒が多い国である。 「イランの最高指導者、ハメネイ師に言いつけるぞ!」と下らないことを思ったりしたがかつてはギリシャ人も大勢いたらしいので西洋的な習慣は昔からなのかもしれない。 そう言えば、ここの女性は被り物をしている人をほとんど見掛けない。 夕方に早々にバスターミナルに戻って、カフェでテレビを見ていた。 相変わらずアメリカ同時多発テロの報道ばかりだ。

 バスに乗車するとさすがに有名な会社だけあってほとんど満席で出発した。 夜行が多い時間帯か?一度に何台かバスが出発した。 バスがしばらく走ってからロシア人に似た小太りの若い女性乗務員が「アナトリア?、ヨーロッパ?」と訊ねてきた。 イスタンブールにはアジア側のハレムガラージというターミナルとヨーロッパ側のメインのターミナルがある。 目的地、宿街があるヨーロッパ側のスルタンアフメットはハレムガラージから船に乗って行くと早いとガイドブックに書いてある。 バスはハレムガラージに着いてから大回りしてメインのオトガルに向かうのでガイドブックに書いてある通りなのだろう。 アジア側を乗務員が「アナトリア」というのが新鮮に聞こえる。 土地の人はそう呼んでいるのだろうか?
 乗務員が西洋的な顔立ちなら通路を挟んだ向かい側の乗客はモンゴル人を西洋風にしたおじさんに金髪で青い目だが、顔つきは中国人に近い若い女性と様々だ。 恐らくみんな「トルコ人」だろう。 古くから西から東から様々な民族が出入りしたトルコ。 いろんな血が混じっているのは当然のことだろう。

12.ちょっとだけヨーロッパ(イスタンブール、9月14〜19日)

 明るくなってからイスタンブールの郊外にいるらしいことが分った。 バスが進むに連れて団地が増えてきて郊外の様相を呈してきた。 バスが高速道路を降りるとすぐに港の桟橋に止まった。 そこがアジア側ターミナルのハレムガラージだった。 一応、バス会社の事務所があるものの、ターミナルというより停留所と言った感じだった。 限られた空間では仕方ないことだろう。 バスから降りてからすぐに桟橋へ向かってヨーロッパ側のシルケジへ向かった。

 船にはヨーロッパ側へと向かう通勤客で混雑していた。 バスの感覚で利用しているのだろう。 船からはヨーロッパ側旧市街と新市街の様子が良く見えた。 町は起伏があり、あちこちにミサイルみたいな塔、ミナレットが建っているモスクが点在していた。 夜行明けで疲れてなかったら感慨深いものだったろう。 船はボスポラス海峡を越えて金角湾に入り、旧市街のシルケジに着いた。 2000年4月から17ヶ月かかってアジアを横断してヨーロッパにたどり着いたことになる。

 シルケジから宿街のスルタンアフメットまで歩いても行けるが、横着をして路面電車のトラムを使った。 トラムを降りると客引きがいた。 ここは睡眠薬強盗で有名な所。 相手にしないで宿街へ歩く。
 今回の宿探しも楽だった。 最初は日本人宿で有名なコンヤペンシヨンを訪れたが、部屋が暗い感じだったので前に人から教えてもらったMoon Light Pension(D5$)にした。 コンヤペンションは宿泊しなかったが、何度か遊びに行った。

 イスタンブールは古代ギリシャ、ローマ、ビザンチン、オスマントルコとおよそ2,000年の間都だった。 今は政治的な中心はアンカラへ移ったが、大都会であることに変りが無い。 そのため、旧市街には名所がいくつかある。
 1,500年前に建てられ、1,000年間キリスト教世界で最大の教会だった大きなドームのアヤソフィア、オスマン帝国の中心、トプカプ宮殿、大きなモスク、スルタンアフメット・ジャミィ(ジャミィはモスクのこと)が主な見所で、どれもすばらしい建物だった。 旧市街から離れたところにあるカーリエモザイク博物館も古代ギリシャ・ローマでおなじみのモザイク画がきれいに保存してあって良かった。
 ここでもヨーロッパを始め、日本、台湾、韓国とあちこちからの団体さんが多かった。

 新市街は商業地区、業務街といった感じで高級ブティックやオフィスが建ち並んでいた。 ブラスバンドの元祖の軍楽隊の演奏が評判の新市街にある軍事博物館は、あいにく定休日だった。
 旧市街を結ぶガラタ橋の旧市街側のたもとには名物の焼いたサバを挟んだサンドウィッチの船が並んでいた。 この辺は露天が並んでいる。 店番をしていた東洋系の顔立ちの人は中央アジアから来た人達だろうか?

 アンタルヤ、イズミールではあまりお目にかからなかった被り物をした女性は宿の近くの下町にたくさんいた。 もしかしたら東部から移ってきた人達かもしれない。

 イスタンブールはのんびりするにはいい所らしく、1週間は滞在したかったが、日本へのチケットが水曜以降は月末にならないと取れないらしい。 夏休みが終わりに近い学生が日本へ戻るのだろう。
 出発の当日、航空券を購入した代理店で手配したエアポートバスで空港へ向かった。 マルマラ海に沿った快適な道を西へ進み、1時間ほどで空港に着いた。 マレーシア航空でチェックインを済ませ、待合室で搭乗を待っていると周囲にいたのはマレーシア経由でオーストラリアへ向かうトルコ人、旅行を終えて帰るところらしい台湾人、日本人、タイ人だった。 搭乗すると周囲は日本人ばかりだった。 飛行機は定刻通りイスタンブールのアタチュルク国際空港を発ち、東へと向かった。

(番外編・旅の終わりへ)

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