番外編・旅の終わり



(トルコ編から)

1.2泊3日空の旅(イスタンブール→成田、9月19〜21日)

 イスタンブールから成田まで直線距離で9,000kmだろうか? しかし、搭乗したのはマレーシア航空、クアラルンプール(以下KL)経由なのでイスタンブール→KL8,000km、KL→成田5,500kmくらいで合計13,500kmとなる。 イスタンブール→KL、KL→成田ともに夜行で飛ぶので2泊3日の空の旅になってしまった。
 なんでそんな不便な便にしたかと言うと、この時期はシーズン、しかも学生が帰る時期にぶつかったので格安券がマレーシア航空だけなのだ。 普段なら$400くらいでヨーロッパ経由の便があるらしい。 こちらはヨーロッパの空港で数時間待つだけで翌朝着の便に乗り換えができる。

 飛行機はイスタンブールを発ってから1時間ほどで砂漠の上空を飛んでいた。 シリアの上空らしい。 もう少し経つとサウジアラビア上空に達した。 さすがにイラク上空は避けていたらしい。
 日が暮れて外が薄暗くなるとドバイに到着した。 砂漠のなかに突如現れた近代的な町だった。
 ドバイではツアー客がここで買い物をするのだろうか? ブランド物が多かった。 飛行機の乗務員も利用するからか?日用品まで売っていたが思ったより品数は多くなかった。 売店の番をしていたのはフィリピン人らしい女性とトルコ人らしい女性だった。 待合室にもほとんどアラブ系らしい人は見掛けなかった。 ドバイは職を求めていろんな国の人が集まっているらしい。

 飛行機はドバイを発つと夜通し飛行して、翌朝6時過ぎにKLに到着した。 成田行きは深夜11時に発つ予定だ。 そんな場合、大抵の航空会社はトランジット・ホテルを用意するのだがマレーシア航空のエコノミークラスにはそのサービスがなかった。
 到着してから1時間ほど空港内をうろついてみたが、やはりエコノミークラスの乗り換え客のための無料サービスは用意されてないらしい。 仕方ないので、前に人から聞いていた、シャワー、インターネット、食事サービス付きの有料ビジネスセンターで休憩することにした。 18米ドルだが、6時間の時限制だった。 それでも、KLの町に出るのも面倒だし出国税が10米ドルくらいかかるらしいのでここでシャワーを浴びて、朝昼食をとることにした。 そこで時間をつぶしても9時間余る。 ほとんど、空港内をうろついたり、店を冷やかしたりして過ごした。 似たような人が多いらしい。 空港内の長椅子で横になったりしている人、同じ便でイスタンブールから来たらしい見覚えのある人が結構いた。 機内のサービスはまずまずだったが、この扱いではお客が逃げるだろう。

 出発時間の1時間前に搭乗ゲートに行って、しばらく待つと搭乗待合室に入れる案内となった。 しかし、アメリカの同時多発テロの影響でチェックがあって、出発が延びた。 そこで初めて日本のパスポートの最初のページに紫外線を当てると浮き出る顔写真があることを知った。 もっとも、格安で発行できるミャンマーの日本大使館ではそのサービスは無いそうだ。
 成田行きということで乗客はほとんど日本人だった。 座席の近所は学生ばかりだった。 この路線には最新の機材、ボーイング777が就航されていたので、エコノミークラスでも座席の前に液晶画面が付いていて映画やゲームで時間をつぶすことができた。
 飛行機は翌朝7時過ぎに成田に到着した。 約1年5ヶ月ぶりに日本に戻った。
 

2.そのまま北海道へ!(成田→札幌、9月21日)

 成田に着いて、普通なら帰宅だろうが、どうしても帰る前に寄りたいところがあった。 北海道の礼文島だ。 旅の終わりをここで過ごしたかった。 礼文島には桃岩荘というユースホステルがある。 そこは毎晩歌って踊る時間やいろんなイベントがあって北海道で経済的な旅行をする人達の間では有名なところで、時々マスコミが取材に訪れる。 礼文島は冬が厳しいのでほとんどの宿が季節営業だ。 桃岩荘も毎年6月1日から9月30日までの季節営業だ。
 私の性格上、どうしても旅の終わりの日を作っておきたかった。 さもないと、帰っても予定の無い私はダラダラと旅行が延びてしまう恐れがあった。 そこで、海外旅行保険を10月20日くらいまでにして、帰国を桃岩荘の閉館日、9月30日に間に合うようにした。

 そんなわけで、成田からとりあえず札幌へ向かうことにした。 国際線乗り継ぎ便が成田から札幌まで出ているが、適当な時間の便が無かったので羽田へ向かうことにした。 幸い朝食は飛行機で出たので空港内の郵便局で軍資金を調達して羽田へ向かった。

 JR浜松町駅のANAの窓口で予約をしてモノレールで羽田へ向かった。 金曜日の昼間だが、空港は人でごった返していた。 もっとも連休にはもっと人がいるのだろうが。
 昼食を調達するために空港内をウロウロして、損をしたことに気が付いた。 一応、KLの空港でインターネットから日本の航空3社のホームページを見て、当日では割り引きが適用されないということを知った。 新潟県の直江津港から出ている北海道へのフェリーは夜中の出航なので池袋からの高速バスで十分間に合うのだが、2泊3日の飛行機の旅でほとんど寝てなかったので成田に着いた時点で羽田から飛ぶことにしていた。 それで正規料金\28,000を払った。 うっかり忘れていたが、すでに航空3社の他に羽田→札幌間にはエアドゥという会社も就航していた。 そちらは正規でも\20,000。 次の便はすでに満席だったが、待てば乗れたかもしれない。
 搭乗するとほぼ満席だった。 何をしていたのか?チェックインしてから遅れて搭乗した人がいて、念のためその人の荷物を降ろそうとしたところで駆け込んだらしい。 待合室から感じたことだが、周囲はほとんど出張のサラリーマンらしい背広の人達。 帰ったら早く就職しようと思った。

 札幌、新千歳空港で電車に乗り換えてJR札幌駅を降りると風が冷たかった。 東京は蒸し暑かったが、それを差し引いても気温が低く感じる。 98年のツーリングでこの時期の北海道を知っていたので「あれ?こんなに寒かったっけ?」と思うほどだった。 土地の人によると急に涼しくなったとのこと。
 JR札幌駅近くにある札幌ハウスユースホステルに飛び込んでみるとベットが空いていたので、ユースホステル入会手続きをしてからチェックインした。 丁度、夕方のお風呂に入れる時間だったので汗を流し、久々の日本式浴槽でくつろいだ。

3.久々の日本社会(札幌、9月21〜23日)

 羽田から礼文島へ向かうには直行便が就航されている稚内を経由するのが便利だが、あえて札幌へ飛んだのは訳があった。 1年以上日本を離れていたので浦島太郎に間違いなくなっているだろう。 札幌ならほどほどの大きさの都会なので情報収集には向いているのでは?と思った。
 着いた翌日に大通り公園、すすきの付近の商業地区を歩いたり、ヨドバシカメラやビックカメラなど家電量販店が集中している地区を歩いてパンフレットを集めまくった。 やはり、ファッション、携帯、パソコンの世界は変化が激しいのでこの情報収集活動は役に立った。 札幌駅前にあったそごう跡のビルに入っていたビックカメラやユニクロの活況ぶりを見て朽ち果てた大木から芽が生えたことを彷彿させられた。 底が見えない日本経済だが、まだまだ希望はあるような気がした。

 札幌で2日過ごした後、都市間バスで稚内へ向かった。 地方では移動手段としてもうすでに定着した感があるバスだが、このバスにも変化が感じられた。 単調な景色の高速道路や何回も利用していて車窓に興味ないお客のためにビデオ上映サービスがあるが、このバスには衛星追尾アンテナがあるらしく、衛星放送のWow Wowからの放送を画面に流していた。 設備にお金がかかると思われるが案外ビデオの手配や運転手に操作させる手間を考えると会社、運転手ともに楽で、安全なのだろう。 ただ、急に向きを変えたり、トンネルに入るとさすがに画面が止まってしまうが・・・。

 バスは午後の3時に稚内のフェリーターミナルに着いた。 その日のうちに礼文島へ向かうフェリーがあったが、まだ旅の疲れがとれてないだろうから稚内で1泊することにした。 宿は桟橋そばの稚内モシリパ・ユースホステルにした。 宿での夕食は5人の人と食事をとったが、内5人が札幌から都市間バスで稚内まで向かったとのこと。 2週間以内で道内のJR乗り放題だった周遊券がなくなった今、内地からの旅行者は飛行機→都市間バスまたはレンタカーというのが移動手段になっているようだ。 JR離れが加速するわけだ。

4.さらば旅人!(礼文島、9月24日〜10月1日)

 稚内に着いた翌日の昼に礼文島へ向かった。 船を降りると相変わらず賑やかな出迎えが待っていた。
 ここでも変化があった。 何日も滞在しているグループに喫煙者が増えて、中には所かまわず喫煙していた者がいた。 マナーが低下しているらしい。 これでは日本人は中国人のことを笑えなくなるのではないだろうか?
 どうも、学生の質が変わってマナーのいい連中とそうでない連中の差が拡大したらしい。 昔乍らの素直な連中も健在らしい。
 98年に訪れた時に知り合った連中はほとんど社会復帰をしたらしく、あのときいた面々はしょうろく、セブン、三上さん、がくちゃん、かにえこじろーくらいだった。 私も早く落ち着きたい。
 それでも、礼文滞在中は名物のハイキングコース、8時間コースを歩いたり、桃岩荘の夜の出し物に参加してバカになったりと楽しかった。 バカのやり収めをするためというのも目的だった。

 バカをしているうちに10月1日、桃岩荘今シーズン最後の日となった。 朝に宿のスタッフに見送られ、足の無い人は港まで歩いて、ある人は自力で港へ向かうのがこの宿のルールの一つだ。 礼文島に着くと盛大に迎えられるが、出る時にも盛大に見送られるのも宿の名物の一つ。
 こうして、2度宿のスタッフに見送られて礼文島を後にした。

 船はゆっくりだが島を離れて行った。 桃岩荘にいた皆はだまって島を見つめていた。 そんな中、私は「さようなら! 礼文島!」と叫んだ。 何人か、思うことがあったのか何かを叫んだ。 涙ぐんでいた人もいた。

 私は98年に会社を辞めてから国内、海外と旅をした。 しかし、それも限界がきたらしい。 気持ちの問題なのだが、この辺が潮時だろう。 この島にたどり着く前にすでに旅人引退を考えていた。
 そこで私はこんなことを考えた。 桃岩荘のルールの一つにこんなものがある。 礼文島は南北に伸びている細長い島で、東海岸の港がある地区と桃岩荘がある西海岸を結ぶ道にはトンネルがある。 宿泊客はそこで「知性、教養、羞恥心」を置いて滞在して、帰りにそれをトンネルで拾って社会復帰するというものだ。
 もともと、普段のしがらみを忘れてバカになろうということだろうが、私は帰りに「知性、教養、羞恥心」を拾って「旅人の私」を置いて行くことにした。 そうして、「旅人の私」を礼文島に封印して島を去った。

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