シリア



(トルコ編から)

1.古代ギリシャ、ローマそしてアラブとの出会い(アレッポ、8月14〜16日)

 国境をバスで越えてシリア側のイミグレーションに行った。 そこでは職業、両親の名前を聞かれた程度だった。 税関では他の乗客は荷物を調べられたが、私は「Japanese? Good!」と役人に言われただけでおしまいだった。 今までどこの税関でも余程杓子定規的な所以外、こんな感じだった。 ここまで各国に日本人の好印象をもたらした諸先輩方に感謝しなければならない。

 シリア側の風景は聖書に出てきそうな岩山が多かった。 紅海に到るまでこんな風景が続くのだろうか? しばらく進むとトルコ側同様、畑やオリーブ園が続いた。 1時間ほどすると南フランスにでもありそうなおしゃれなデザインのアパートの新興住宅地が見えてきた。 次第に交通量が増えて、昼前にターミナルに到着した。
 宿探しは楽だった。 宿がある地区がトルコへの国際バスのターミナルから歩いてすぐの所にあったからだ。 今回もちょっと贅沢をしてトイレ・シャワー付き個室にした。(Hotel Syria、S300SP、6USD相当)

 昼食後、休憩をしてから夕方に旧市街へ向かった。 旧市街というと市場、ここではスークがある。 イランのバザールのように天井に明かり取りの穴が空いている石造りのアーケードだった。 当時の旅篭、キャラバンサライだったらしい建物も残っていた。 ここでも台車が走り回る活気があった。 時々、人が乗ったロバも歩き回っている。 ここでも青果、乾物、絨毯、布地、貴金属とイランのバザールとさほど変りが無かった。 宿の近くの通りにはこの町の名産、オリーブ石鹸が売られている店があった。 石油製品が嫌いな人にはいいだろう。

 翌日に銀行で両替をした。 闇両替の方がいいらしいと聞いていたが、銀行、両替屋でもアンタクヤで聞いたレート1USD = 49SP付近とあまり変わらないので銀行でトラベラーズ・チェックを替えてもらった。 トルコ同様、こちらの銀行も手際が良かったので10分くらいでシリア・ポンドを受け取れた。

 この町の観光ポイントの城塞、チタデルへ真っ直ぐ向かいたかったが、途中にキリスト教徒が住んでいる地区があるので立ち寄った。
 ここには、ギリシャ正教やアルメニア正教の教会がいくつか建っていた。 その中のアルメニア教会に入ってみた。 イラン、イスファハンの教会ほど壁画が充実してなかったが、トルコ、シリアと彼らの文化に接する事ができた。 また、第一次大戦のトルコの混乱から難民となった人達が建てたものだからだろうか?外からは様子が良く分らない。
 隣りには信者からの寄贈品が展示している展示館があった。 有料なのであまり入る人がいないらしく、受付の若い女性が展示品の解説をしてくれた。 展示品にはトルコから落ち延びた人達が持参したものも含まれていた。 イランのイスファハンで作られたものもあった。
 一通り説明してもらってから彼女にアルメニア本国以外のアルメニア人社会の分布を聞いてみた。 アルメニア人は日本ではなじみがないが、華僑や印僑、ユダヤ人みたいに世界各地で生活しているらしい。 あまり聞かれない質問らしく、少し考えてから「そうですねぇ。 シリア、レバノン、ギリシャ、あとアメリカのロサンゼルスにもコミュニティはありますねぇ。」と答えてくれた。 日本にもアルメニア人は生活しているか?との質問には「多分、いるでしょうね。 そういえば、友人が日本人女性と結婚してますよ。」 お互いなじみがないものの、日本との関係がないわけではないようだ。

 この地区の周辺にはバーがいくつかある。 宿の近くには酒屋もある。 シリアの人のほとんどがイスラム教徒だが、イランのように他の宗教の信者の生活に干渉することは無い様だ。 そのせいか?被り物をしてない女性は少なくない。
 また、被り物をしている女性はイランと比べると一枚かぶっているものが少ないらしい。 頭から首まで布で覆っているから首のラインが出ている。 SF映画の登場人物みたいだ。 彼女たちはコートを着ないので下にはいているパンタロンのようなスラックスが良く見える。 従って腰のラインが出ている。 飲酒、服装に関してはイランよりはゆるやからしい。

 続いて、チタデルへ向かった。 外国人の入場料は300SP、約6USDだがこの国では学割がまだ適用できるので15SPで入場できた。
 城塞の中に入るとイランのバムのように町が広がっていた。 イランほど整備されてないので感じがでている。 古代ギリシャからのものらしく、中には円形の劇場まであった。 町の中にある小高い山の城塞ということから古代ギリシャの遺跡のような気がしたがやはりそうらしい。 アジアを横断してからついにヨーロッパ文明と接したことになる。 ちなみにここはイスラム王朝になっても使われていたらしく、モスクもあった。

2.天空の城(ハマ、8月16〜19日)

 アレッポの次は十字軍の篭っていた城、クラック・デ・シュバリエを見に行くことにした。
持参のガイドブック「Lonly Planet Middle East」によると、城からそれほど離れてない町、ハマにシリアの安めの外国人向け宿があり、そこで日帰りツアーを主催しているらしい記述があった。 そんなわけで、ハマへ向かうことにした。

 アレッポからハマへは近くの国営バス会社、KarnakのバスがPM10:00のみと変な時間なので、歩いて15分ほどの民営会社バスターミナルへ向かった。 前日に様子を見に行った時に客引きがたくさんいたので予約の必要はないだろうと思っていた。 案の定、ターミナルに着いてから客引きのおじさんに付いていって1時間後発ハマ行きのチケットを購入できた。

 シリアは面積が日本の約半分くらいで地中海からそれほど離れていないアレッポから首都ダマスカスへの南北のライン上に見所が集中している。 アレッポからダマスカスまででもバスで5時間くらいと短時間で移動ができるのでその点では楽だ。
 恐らく、アレッポ、ダマスカスのライン上に人口、農地が集中しているのだろう。 この道はシリアの幹線道路なのだろう。 片側2車線のまずまずの道だった。ハマまでの2時間の間、沿道はインドのデカン高原のように森林を見かけないが、農地が多かった。 農業ができる最低限の水が確保できるということだろうか?
 車はかつての宗主国のフランスやイタリアのものが多い。 他に韓国や10年前に民主化を果たしたチェコの車も多い。 チェコは経済成長が著しいということだろうか? 意外と日本車は少なかった。

 今回も宿探しは楽だった。 バスが宿の近くを通ってから停車したのだ。 下車してからそのままRiad Hotelへ向かった。 ドミトリーが200SPと安くない。 上の階にベランダを広くしたような空間があって、そこにマットを敷いて寝る「ルーフ」という所がある。 ドミトリーより安いらしい。 蒸し暑い所では涼しくて快適かもしれないが、蚊などの虫の来襲が考えられるのでドミトリーに宿泊することにした。 有名な宿らしく、外国人旅行者には便利なアイテムがあった。 テレビが置いてあるロビーがあって、そこにあった情報ノートは参考になった。

 ハマの町自体の観光ポイントはローマ時代の水車が町の中心を流れる川にいくつかあるくらいで商店街が日本の地方都市のような感じで特徴がない。 この町にもチタデルがあるが、小高い山が残っているだけで、山頂が公園になっている。 日本の城下町にありがちな「城跡公園」の雰囲気だ。 高い所からハマの町を展望するのもいい。 展望すると意外とこの町に建物が多いことがわかる。 夜にはあちこちのモスクのミナレットが緑に電飾されているのが見えた。 これはシリアだけなのだろうか? 金曜日の夜には家族連れで賑わっていた。 イランみたいに敷物を敷いて家族で談話している。 そこの家族のお父さんが家族を代表してか?ひとりでアラーへお祈りを捧げていた微笑ましい姿をよく見た。

 ハマに着いた翌朝早くにクラック・デ・シュバリエへ向かった。 まず、乗合のセルビスで1時間のホムスへ行った。 この町はアレッポとダマスカスの中間にある町で、地中海側からパルミラなど内陸への東西の道が交わる交通の要衝だ。 ここからセルビスの運転手にクラック・デ・シュバリエの地元名「カラート・アル・ホスン」で聞いてセルビスを探し当てた。 地元名でないと通じないらしい。
 セルビスはなかなか客が集まらなかったので30分くらい待たされた。 それから地中海側へ向かう幹線道路をしばらく通って40分くらいで幹線道路から北へ進路を変えた。 その日は朝から雲行きが怪しかったがある村を通っている時に雨が降り出した。 地中海とアレッポ、ダマスカスのラインの間には山地がある。 地中海からの湿った空気が山に当たって雲になって雨を降らせたというところか?
 村はイスラム教徒とキリスト教徒が混在しているらしい。 教会のそばにモスクがあった。 その村から高度を上げて、ホスン村を通過した。 さらに高度を上げて、セルビスは城の前で止まった。

 ここでも学割が効いたので外国人300SPのところを、15SPで入場できた。
ここは日本の山城のような感じで、山頂に城を建てた。 雨は止んだが、風が強い。 遮るものがないからどうしようもない。 しかし、ヨーロッパの騎士ものの映画にでてきそうな中世の城を初めて訪れた。 日本の城と違って石造なのでよほど強い地震でも来ないかぎり壊れないらしく、良く保存されている。 もちろん、修復を繰り返しているのだろうが。
 周囲を石垣で囲んで、なかには騎士たちが生活していたのであろうか? 教会の跡があった。 その後、イスラム教徒も城塞として使ったのだろうか? 教会跡の壁にメッカの方角を示す飾りが壁にあった。
 お客さんは時期柄、フランス人の団体、イタリア人のグループとヨーロッパの人達がいたが、アラブ系の人達の方が多かった。 アラブ系といっても国籍は様々だ。 駐車場の車にはクウェートのナンバーを付けていたものがあった。 シリアではクウェート以外にもアブダビ、ドバイ、バハレーンなど豊富な石油のお陰で生活水準が高いらしい湾岸諸国やお隣りのヨルダンからの車も見掛けた。

 城から少し離れた丘の上にレストランがある。 宿の情報ノートによると、そこからの眺めはいいと書いてあった。 行ってみると城の外観が良く見えた。 天に浮く城と言えなくも無い雰囲気だった。
 ちなみに宮崎駿のアニメーション「天空のラピュタ」のモデルはこの城だという噂が旅行者の間に流れている。

3.はるばる来たぜ(パルミラ、8月19、20日)

 ハマで2泊3日滞在して周辺の遺跡巡りをしてからシリア観光のハイライト、パルミラへ向かった。
パルミラは紀元後に建設された町で、古代ローマ時代の3世紀にゼノビアという女王が治めていた時が最盛期だったらしい。 シリアの10SPコインにパルミラと思われる石柱がデザインされている。 また、500SP紙幣にパルミラと思われる遺跡とゼノビアの横顔がデザインされている。 中国でいえば万里の長城、インドではタージマハルにあたるものなのだろう。

 ハマから向かうにはシリアの交通の要衝、ホムスで乗り換えることになる。 ホムスのバスターミナルでバスを待っていると砂漠の民、ベドウィンらしい家族連れがやって来た。 「これがベドウィンか。」と思いながら彼らをちらっと見ると、彼らもこちらに気が付いてニコニコしながら近づいてこちらを見ていた。 多分向こうも珍しいのだろう。
 しばらくすると、ベドウィンの人達が他の人と取っ組み合いになった。 連れの若い女性も履いていた靴を手に持って応戦していた。 さながら、町の無頼漢に襲われた水戸黄門御一行の様だ。 すぐに収まったが、最後に靴磨きの少年たちがバスの切符売りのおじさんに飛びげりで追い払われていた。 靴磨きの子供とベドウィンの人達の間になにかトラブルがあったのだろう。 ひょっとしたらベドウィンの人達は習慣の違いから都市生活者となにかとトラブルになりやすいのかもしれない。
 騒動が収まるとベドウィンの人達は何事も無かったかのように笑顔で談話していた。 熱しやすく覚めやすい人達なのかもしれない。

 結局40分ほど待たされてからバスは発車した。 ホムスの町を出ると砂漠の中を走っていった。 イラン南部以来だ。 発車してから3時間後に石柱の列が見えた。 これが遺跡らしい。 思ったより規模が大きい様だ。 そしてパルミラの町に到着した。 2時過ぎで丁度お昼ねの時間だろうか? 町にはあまり人影が無く、歩いていた人は英語が通じなかったので宿のある地区を探すのに苦労した。 宿のある地区が見つかると後は簡単だった。 こうしてSun Hotel(D150)を見つけて落ち着けた。

 宿で一休みして夕方の5時になって外に出て遺跡を歩いた。 その頃はまだ暑かったが、6時過ぎになるとさすがに涼しくなって過ごしやすくなった。 遺跡の中央に南北に貫く道が通っていて、観光ラクダが待機していた。 ラクダ使いの少年が疲れた表情で「ラクダハラクダ」とつまらないギャグで営業していた。 日本からのツアーも多いらしい。
 日本といえば、今から15年から20年前にテレビで歌手の北島三郎がはるばる日本からここ、パルミラでコンサートを開いたことを報じていたのを見た記憶がある。 ここ、パルミラにもよその古代ギリシャ、ローマ遺跡のご多分にもれず円形劇場がある。 中に入ると数百人は収容できるだろうか? 恐らくここで「北島三郎オンステージ」が催されたのだろう。 修復され、コンサートが開けそうな感じだった。 この様子を見た土地の人はどう思ったのだろうか?
 円形劇場からさらに歩くと宮殿跡がある。 上がってみると遺跡が一望できた。 女王ゼノビアもここから何度も町を見下ろしたのだろうか?

 翌朝、町外れにある食堂で朝食をとってから再び遺跡へ向かった。 遺跡はほとんど無料で観光できるが、東にあるベル神殿は有料だ。 お金を払って入場してから神殿内部に入ると像が立っていたと思われる大きな祭壇があった。 像は熱狂的なイスラム教徒が破壊したのだろうか?それとも19世紀に西洋の列強が持ち去ったのだろうか?
 神殿はパルミラが衰退してからも砦として使われたらしく、崩れた石柱の円形の石材を使った壁もあった。
 しばらく観光していると暑さで疲れて日陰で休んだ。 やはりここは砂漠の町だ。

 神殿の見学を終えるとバス会社Karnakで午後のダマスカス行きバスの手配をした。
 それからバスの時間までパルミラの町を歩いた。 ここは今でも砂漠のオアシスでシリア南東部の交通の要衝らしく、宿のある観光の町から外れると小さいながらも普通のシリアの町並みが広がっていた。 前日の夕方にその町を歩くと人々が外で談話しているのを見た。

 バスは、よその町が始発らしく、1時間ほど遅れての発車となった。 道はアレッポからダマスカスへの幹線と違って整備されてなく、揺れが多かった。 カンボジアではいい道だろうが。

4.下町の生活(ダマスカス、8月20〜23日)

 パルミラからバスで3時間ほどでダマスカス北部のバスターミナルに着いた。 宿のある地区へ向かう乗合タクシー、セルビスを探していると外国人を乗せたバンを見つけた。 運転手に聞くと、近くを通ったバンを止めてこれに乗るように勧めた。 10分ほど走って陸橋のある大きな交差点で降ろされると、目的の宿の近くだった。
 外国人が行きそうな宿は決まっているので例のターミナルにいた運転手がそこのそばで降ろすように言っておいたのだろう。 シリア人の親切に感謝しつつ、目的の宿、Al-Rabie Hotel(D185SP)にチェックインした。

 荷物を置いてから散策をした。 さすがに首都らしく、町は人でごった返していた。 宿の北西の繁華街はわりとクラスが上らしく、ノースリーブの女性が町を闊歩していた。 クリスチャンもいるからだろうが、ここではイスラム色が薄いらしい。

 宿の南東に城壁で囲まれた旧市街がある。 そこには他の中東の町のご多分にもれず、市場、スークがあって狭い通りに人、台車、自転車、自動車が所狭しとうごめいていた。
 スークを東へ歩くとシリアで有数のモスク、ウマイヤド・モスクがある。 この辺には土産物屋があって、観光地という雰囲気だ。 中に入ると家族連れが記念撮影をしているのが目についた。 イランでは大概撮影不可、東南アジアではイスラム教徒以外入場お断りなので、ここはおおらからしい。 ここは昔は教会だったらしい。 古代ローマでおなじみのモザイクが一部の壁に貼られていた。
 さらに東へ歩くと狭い道が多く、迷いやすい。 ここには今でも庶民の生活が営まれている。 子供からお年寄りまで世代の幅は広い。 さらに東へ歩くと急に交通量が減って静かになる。 所々に教会があるキリスト教徒地区だ。 キリストの宗教画を売る店があって感じが出ている。 ここにもアルメニア文字の看板を2〜3見掛けた。 アルメニア人も多く生活しているのだろう。

5.イケイケ・ポーランド軍団(ダマスカス、8月20〜23日)

 宿泊した宿、Al-Rabie Hotelには派手な格好をして聞きなれない言葉を話す英語が苦手な西洋人の集団がいた。 ポーランド人らしい。 ここの情報ノートには日本人よりもポーランド人の書き込みが多かった。 我々日本人同様、英語が苦手なグループは固まって行動することが多い。 彼らもご多分にもれず、つるんで行動する方が楽なのだろう。
 宿側もその辺を心得ていて、ある部屋は彼ら専用になっていた。

 今まで東南アジアで2人ほど、イランで3人ほどポーランドの旅行者を見たが10人以上の集団は初めてだった。 ポーランドは10年ほど前に民主化されてからドイツあたりからの投資が急増したのだろうか? 近年の欧米の好景気につられて経済的に豊かになったのだろう。 この国で見かけるチェコのスコダ製自動車もそれを実感させる。 旅行するゆとりがあるのは豊かな証拠だ。

 通常、ガイドブックにイスラム教徒が多い中東を旅行する上でなるべく肌を見せない服装をすることを勧めてあるが彼らは全く気にしてないらしい。 旅慣れてなく、暑いこともあるだろうが、ほとんどが短パンで男はタンクトップ、女はノースリーブと肌を露出しまくっていた。 金髪でノースリーブ、短パンの女の子はトルコのトラブゾンにいたロシア人売春婦さながらの格好だ。 まさにイケイケ姉ちゃんのノリだ。

 そんな彼らだが、仲間の結束が堅いらしく、彼らが宿を去る前の晩に軍団が手を繋いで輪になって民謡か童謡らしい歌を歌っていた。 近くにいたドイツ人らしい女性が怪訝そうな目で見ていた。 彼らは古いヨーロッパの習慣を残しているのかもしれない。

6.国防の意味(クネイトラ、8月21日)

 ダマスカスに着いた翌日、同じ宿の日本人旅行者に誘われて第3次、第4次の中東戦争で廃虚になった町、イスラエルの実行支配線近くのクネイトラを訪ることにした。

 そこを訪れるには特別な許可が必要になる。 といっても、事務所で数分待たされただけで許可がもらえた。 入域証からそこは軍の管理下にあることを知った。

 事務所からセルビスで宿近くのバスターミナルへ行ってクネイトラへのセルビスに乗り換えた。 車はレバノンへ向かう幹線から別れていくつか町や村を通って1時間後にある町で再び乗り換えた。 途中から国連を示す「UN」の車を見かけるようになる。 ある検問から国連管理下にあるらしい。 そこまで行く日本人は珍しいのだろうか? 土地の人らしいおばさんがじーっとこちらを見ていた。 途中でガイドさんらしい人を乗せて一人降り、二人降りて土地の人がいなくなってからセルビスはクネイトラに着いた。

 ここからはガイドさんの案内、というか管理されながらの見学である。 シリア側も「客人に何かあったら、」という思惑からだろうが。
 中東の歴史はよくわからないが、第3次中東戦争のアラブ側の大敗からここ周辺のゴラン高原はイスラエルに占領され、第4次でシリアが奪回して今の国連監視地区を挟んだ実行支配線でイスラエルとシリアが対峙しているということらしい。 国連監視下ということで町にいた人は帰れず、復興できずに放置されているらしい。
 ガイドさんに付いて歩くと銃弾を浴びたらしい蜂の巣状態の壁の家、砲撃や爆撃でつぶれたり崩れたりした建物の廃虚が並んでいた。 撮影は自由らしい。 ガイドさんに聞くとあっさりOKが出た。 病院跡の廃虚は数え切れない銃弾の跡が壁に残っていた。
 この町は教会とモスクが建っていて、クラック・デ・シュバリエ近くのホスン村みたいにイスラム教徒とキリスト教徒が混在していたらしいことがうかがえる。 あのホスン村も戦争に巻き込まれて廃虚になればこんな感じになってしまうのだろう。

 エジプトのナセルに乗せられて、シリアがイスラエルに対して行った軍事行動、つまりアラブ側が仕掛けた戦争に負けた結果が今も尾を引いているのだが、戦争で負けたことによって奪われた土地で生活していた人を難民にしてしまい、町は廃虚になってしまう。 大抵、戦勝国が自分の好きなように土地を開発してしまう。 その証拠にクネイトラから見えるイスラエル支配地域には青々とした畑が広がっていた。
 国防の意味を考えさせられた。

7.パスポートを持たない越境(ダマスカス→レバノン国境、8月23日)

 ダマスカスに3泊してから隣国レバノンへ向かうことにした。 レバノンは48時間以内なら無料トランジット・ビザが国境でもらえる。 とはいえ、時間をチェックしてないらしいので実質2泊3日レバノンに滞在できる。
 レバノンの後は再びシリアに入国してトルコに戻ることにした。 イスラエル、ヨルダンにも足を伸ばしたかったが、そろそろ10月前の帰国が近づいてきた。 トルコにももう少し滞在したかったし、エルサレムなら日本から1週間くらいの日程でも旅行できるということもあった。 機会があればエジプトと合わせて旅行することもできる。

 ダマスカスからレバノンの首都ベイルートへはバス、セルビスが頻発しているらしい。 4時間くらいなのでゆったりできるバスを利用することにした。
 ダマスカスのバスターミナルの国際バス乗り場は混雑していた。 ベイルートだけでなく、ヨルダン、サウジアラビアなどへもバスが出ているらしい。 ベイルートへの切符売場を探して次のバスを聞くと15分後の9時半にでるらしい。 早速切符を購入して乗り場へ向かったがバスはなかなか来なかった。 結局30分後の9時50分にバスが見つかったが荷物の積み込みに時間がかかった。
 10時過ぎになって荷物の積み込みが終わってさあ出発というところでおばさんの3人組みが「待った〜。」と言って乗り込んできた。 彼女たちは荷物が多かったので積み込みにまた時間がかかって、10時20分ごろの出発となった。

 バスはクネイトラへ向かう道と別れると山道になった。 シリアとレバノンの国境地帯にアンチ・レバノン山脈がある。 峠越えをしてレバノンに入るのだろう。
 1時間ほどでシリア側イミグレーションに到着した。 シリアとレバノンは国交が無いからだろうか?シリアとレバノンの人達は身分証を見せるだけだった。再びバスに乗りレバノンへ向かった。

(レバノン編へ)

(レバノン編から)

7.シリアの港町(ラタキア、8月25〜27日)

 シリア側では再入国手続きに時間がかかった。 普通、再入国する場合にはビザ取り直しか出国前にビザを再入国できるリエントリーに変更するが、シリアと国交の無いレバノンなのでビザ取り直しは出来ない。 リエントリーのビザを持っていても結局ここで新たにビザを取り直しということになる。 通常は15日ツーリストビザで24USDになるが、既にシリアの有名所はまわったので3日トランジットビザで8USDで済ませた。
 米ドル払いにすればいいのだが、なぜかイミグレーション近くの銀行で公定レートの1USD=11SPで強制両替をしてそのレシートを持参してからシリア・ポンド払いで印紙を購入し、パスポートに貼りつけてスタンプを押す形になっている。 この手続きはレバノンに接した国境ではどこでも同じらしい。
 手続きが終わってから車に戻ると皆、笑って迎えてくれた。 非常に恐縮である。

 無事手続きが終わってから再び車は北上した。 といっても海沿いではなく、内陸を走る整備されたハイウェイだった。 この手のインフラは政治的に安定している国が上なのだろう。 途中休憩に寄ったドライブインでコーヒーを飲むと代金を受け取ってくれなかった。 よほど日本人が珍しかったのだろう。
 結局、ラタキアのバスターミナルの近くに夕方5時に到着した。 セルビスの運転手に聞くと宿のある地区にはタクシーしかないらしいので素直にタクシーで日本人旅行者の間で有名なLatakia Hotel(W200SP、他の人とシェアすれば100SP)へ向かった。 少しとぼけた感じのおじさんが迎えてくれた。

 この町も海沿いのせいか?蒸し暑かった。 町を歩くと、繁華街ではベイルートみたいにノースリーブの女性が多かった。 暑いからだろうが、やはり港町はオシャレなのだろう。 その割に、日本人が珍しいのか?あるアイスクリーム・パーラーで軍服を着た若い女の子が緑色の瞳でじーっとこちらを見ていた。
 港には中国船が寄港していたのだろうか? 中国人のグループが歩いていた。 ここ、シリアやレバノンでは中国の家電メーカーHiarの店をいくつか見かけた。 彼らも韓国メーカー同様、安さを武器海外進出中らしい。

 この町に立ち寄った理由はクラック・デ・シュバリエと同じ背景で建てられた十字軍の城、サラディン城見学が目的だった。 ただ、そこへはセルビスからバイク・タクシーに乗り継いで向かうのだが、バイク・タクシーの運転手が一斉に事前に聞いた料金の倍の片道50SPを主張したので歩いて向かったが途中で挫折したので遠くから眺めただけだった。
 その代わりに、その日の晩に宿にいた日本人旅行者2人と一緒にちょっとした海鮮レストランで焼き魚を食べた。 こうしたことは港町ならではだ。

 その翌日に、トルコへ向かった。
ラタキアに着いた当日にバスターミナルでトルコのアンタクヤへの国際バスの料金を聞いたが500SPと割高だったのとタクシーの運転手が「ここから近くのトルコ国境へはシリア側にはバスは無いが、トルコ側にはある。」というウソから国際バスに乗らなくてもアンタクヤへ行けることがわかった。
 トルコ国境へのセルビス乗り場に徒歩で着くと運転手から荷物のことで少しもめたが、事前に聞いた25SPで乗せてもらった。 出発してから1時間ほどでイミグレーションの近くで降ろしてもらった。 やはりシリアの人は親切だ。
 例によって出国手続きは問題なく済み、隣りにあるトルコ側イミグレーションへ徒歩で向かった。

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