小 説

 海のなみだ 
(後 編)

 うす暗い部屋の中。
 ベッドには静かな寝息をたてているリーフがいる。
 その枕元へゆっくりと歩み寄る。
 ティアはしばらくリーフの寝顔を黙って見つめていた。
 やがて、すっと右手が伸び、彼の頬に触れた。細い指先が、唇をなぞるように動く。
 何かに気づいたのか、リーフが目を覚ました。
「ディアナ?」
 愛しい人の口から出た名前はまたしても自分ではなかった。
 カーテンの隙間から月光が入り込み、ティアの横顔を照らしていた。
「ティア?! どうしたんだ、こんな真夜中に」
 リーフは驚いて、身を起こした。
「あなたが愛しているのはディアナなの?」
 ティアの口から率直な問いがこぼれる。
「どうしてディアナのことを……」
「わたしをここにおいてくれたのは、わたしがディアナに似ていたから? いなくなったディアナの代わりにしたかっただけなの?」
 碧(みどり)色の瞳はまっすぐに空色の瞳を見つめる。
「何をばかな事を。そんなこと思ったこともない。君を彼女の代わりにしようなんて……」
 平静を装いながらも、消える語尾が動揺を隠せない。
「彼女の代わりでないのなら、わたしを抱きしめて」
「ティア、もう夜も遅い。部屋に戻って休みなさい」
「はぐらかさないで!」
 リーフに取りすがるティアの表情(かお)は、ただの少女のものではなかった。熱いまなざしをした、恋する女の表情だった。
 その表情と気迫に、リーフは戸惑った。しかしティアの想いに答える気にはなれず、抱きしめることはできなかった。
 しばらく波の音だけが響いていた。規則的に流れる音が心にしみてくる。
 ティアはそっと目を伏せ、リーフから離れた。
「部屋に戻る……」
 力のない声がティアの口から漏れた。
 リーフは何も言わず、ただ小さな後ろ姿を見送った。


◇◇◇

 寄せては返す波を、小さな岩の上に座りティアは見ていた。
 リーフの部屋を出たあと、そのまま外へ出て海辺を歩いた。何も考えず、ただぼんやりと。そして半月前に薬を飲んだ場所へ着くと、ティアは岩に座り、たゆとう波を見ていた。
 月が少し傾いた時、暗い海のどこかでちゃぷんと水音がした。
「ティア」
 懐かしい声が耳に入ってきた。その声に反応するかのように、人形のように身動きひとつしなかったティアの肩がぴくんと動いた。
「ティア」
 懐かしい声がもう一度呼び掛けた。
「姉様……」
 陸へ行くのを必死で止めたシャラが、水面に顔だけを出していた。懐かしい姉の姿は半月前に見たのとは一つだけ違っていた。
「姉様、髪……」
 軽いウエーブがかかった特徴のある美しい髪が、あごのラインで不揃いに切られていた。
「いつものことでしょう。さあこの短剣を受け取って」
 装飾のない細い刃の短剣をティアの前に差し出した。
「その剣を使って、海へ戻っていらっしゃい。人間のことはもう忘れて。ね、ティア」
 幼い子供に言い聞かすようにシャラは言い、そしてティアの左手に短剣を握らせた。
「でも……」
「あなたの悲しみは海の底にいてもわかったわ。あなたが恋した人は他の誰かを愛していたのでしょう?
もういいから、お願いだから戻ってきて」
 もう時間はなかった。恋した相手が別の誰かを愛しているとわかった瞬間から、魔法使いの魔法の効力は弱くなっていく。ティアにかけられた魔法も、夜明けと同時に完全に消えてしまうのだ。そして想いをとげられなかったティアの体は海の泡となってしまう。
 夜明けまであと数刻しかなかった。
 シャラは可愛い妹が海の泡となって消えてしまうことに我慢できず、自分の髪と引き換えに短剣を再び用意した。
「でも姉様……」
「いいわね?! 必ず、必ず夜明けまでにその短剣を使うのよ。ティア、お願いだから言う事をきいてね」
 シャラはそう言い残してちゃぷんと海の中へと沈んでいった。
「また、これを使う……」
 為す術もなく、同じ事を繰り返すのだろうか、ふとティアは思った。
 なかなかティアの心は決まらない。今までとは違う何かがティアの胸の内にあった。

◇◇◇

 別荘に戻ろうとしてゆっくりと足を進めていると、前方から見慣れた人影がこちらに向かってやってきた。
「ティア。よかった……」
 息を切らせたリーフがほっとしたように笑いかけた。
 ティアはすっと短剣を後ろ手に隠した。
「部屋にいなかったから、このままティアがどこかへ行ってしまうような気がして……」
「わたし……」
 どう言っていいのかティアは戸惑った。
「とにかく夜風もきつくなってきたし、別荘に戻ろう」
 ティアに微笑みかけて、リーフは別荘へと歩き出した。ティアは黙ってその後を追った。
 しばらく二人は何も言わずに歩き続けた。
 月光の中、波の音だけが静かに流れていた。
 広い背中がティアの目の前を歩いていく。今、この瞬間がチャンスだった。この時を逃せば短剣を使う前に夜明けが来てしまう。
 ティアは心を決めて、短剣の柄をキュッと握り締めた。
 短剣を振り上げようとしたその時……。
「昔……」
 突然リーフが話を切り出した。
「えっ?」
「昔、まだ小さかった頃、この海で溺れたことがあるんだ」
 リーフが昔溺れたというその時、それははじめてティアがリーフに出会った時だった。
 ある夜、変わりやすい海の天候が突如嵐となり、客船を襲った。好奇心旺盛なリーフは大人達に黙って甲板へと出た。しかし横ゆれの激しさに、まだ子供だったリーフは絶えられず、海へと放り出されてしまったのだった。
 海の中は風の強い海の上の嵐とは違い、不思議と静かだった。ゆっくりと海の底へと沈んでいくリーフ。ゆらゆらとリーフの金色の髪が揺れている。それに気づいたのが、一人で泳いでいたティアだった。苦しそうに歪んだ顔を見て、ティアは急いでリーフに近づいて腕を取り、海上を目指した。海上はまだ嵐が続いていた。ティアはリーフを風の来ない洞窟へ連れていった。しかしリーフは息をしていなかった。それに気づいたティアは、慌てて大きく息を吸い込み、リーフの紫色に変色した唇へ息を吹き込んだ。ティアはどうしてなのかわからなかったが、とにかくリーフを死なせたくなかった。何度か繰り返していくと、ぴくりと唇が動いた。そしてゆっくりと瞼が開かれていった。昼間の空の色をした瞳がそこにあった。
「海に放り出された私はもうだめだと思ったんだ。でも私は死ななかった。そして再び目を覚ました時、目の前に金髪の人魚がいたんだ。心配そうに私の顔を覗きこんでいた。人魚なんているわけないと思うかい? でもいたんだよ。碧色の瞳からぽろぽろと涙を流していた。声をかけようとしたら、その人魚は慌てたように海へと行ってしまった。もう一度その人魚に逢いたいとずっと思っていた」
 リーフが語ったその内容を聞いて、ティアの震えた。
 覚えていた。わずかな一瞬の出来事を、リーフは今も覚えていてくれた。
 今や人間にとって、人魚は夢物語の中での存在でしかない。それをリーフは今も信じていてくれた。それがわかった時、ティアは今までとは違うあたたかな感情が心に満たされていくような気がした。
「数年後、この海を訪れた時にディアナと出会った。確かに私はディアナを愛していたけれど、今思えばそれはディアナがその人魚に似ていたからなのかもしれない。人魚は私にとっての初恋だったから。今となっては彼女は別の男とここを去ったのだからもうどうでもいいことだけどね」
 わたしはディアナに似ていたんじゃない。リーフはわたしを探していてくれた。
 ティアはリーフが自分のことを忘れていなかったことを喜んだ。
 今ティアが自分の正体を言えばリーフはティアを抱き締めてくれるかもしれない。
 でもそれはできなかった。魔法使いとの約束だから。
 リーフは昔逢った人魚がティアだと気づかないだろう。海中では時間がゆるやかに流れ、ティアの姿はリーフと初めて出会った時と変わらない姿なのだから。
 ティアにとってはほんの少し前の出来事でも、リーフにとってはもう十数年も前の出来事なのだ。
 その時、ティアはシャラがした昔話を思い出した。
 自分を愛してはくれなかった人なのに短剣を突き刺すことができず、海の泡となった哀れな人魚。
 その人魚の気持ちが今わかった気がした。
 愛した人を、本当に愛した人を犠牲にしてまで生きていくことはできない。愛した人が幸福なら自分は黙って消えるほうがいい。
 もう短剣を使うことはできない。
 ティアはただリーフが自分を忘れずにいてくれたことだけで満足だった。
「リーフ」
「なんだ、ティア」
 振り向いた愛しい人にティアは微笑んだ。
「探しにきてくれてありがとう。わたしはもう少しここにいるからリーフは先に戻って」
「ティア?」
「お願い」
「わかった。でも早くもどってくるんだよ」
 先を歩いていくリーフの後ろ姿を見て、ティアの瞳から涙が流れ落ちた。頬をつたい流れる涙は足元の砂の上に落ちる寸前に一粒の真珠となった。

◇◇◇

 別荘へと足を進ませながらもリーフは何かが気にかかっていた。
 思い出の人魚に似ていたディアナ。そしてそのディアナに似ているというティア。
 まさか……。
 十年も前に出会った人魚とティアの姿とが同じ筈がない。ましてやティアは人間。
 ティアは人間だ、と思いながらもリーフはティアがいる方へと急ぎ戻った。
 さきほどティアがいた場所に、キラリと何かが光っていた。小さな丸いそれを拾ってよく見ると、それは月の光を集めたような淡い色をした真珠だった。
 リーフの中のバラバラになっていた何かがひとつにつながる。
「ティア!」
 姿の見えないその人の名前を叫んだ。

◇◇◇

 リーフが戻ってきたこととも知らずに、ティアはあの岩場にいた。
「せっかく用意してくれたのに、これ使えなかった。ごめんね、姉様」
 ティアは短剣を海の中へ落とした。
 東側の海のむこうがだんだんと明るくなっている。夜明けはもうすぐだった。
「大丈夫よ、姉様。後悔なんかしてない。わたしはここに来てリーフに逢えて幸福だった」
 独りごちた後、瞳を閉じ、覚悟を決めたその時だった。ぐいっと肩をつかまれた。
「ティア! 君なのか?! 君があの時の人魚なのか?!」
「リーフ、どうして……」
「君がいた場所にこれがあった。この真珠は、むかし逢った人魚が流した涙が形を変えたものと同じだ。君がそうなのか?!」
「……」
 何と言っていいのかティアは戸惑った。
「そうなんだな? ティアだったんだね……」
 リーフは確信してティアを抱き締めた。
「どこにも行くな。私を置いて、どこにも行かないでくれ」
「リーフ、いいの? わたしがあなたの側にいてもいいの?」
 涙を浮かべながらティアは彼をを見上げた。
 リーフは答えのかわりにティアを力強く抱き締めた。
 想いを受け止められたティアの瞳から流れた涙は、もう真珠に変わることはなかった。

◇◇◇

 ……深い、深い海の底。
 シャラの手に戻った短剣は、ティアの代わりに海の泡となって静かに消えていった。
 ほっとしたような、それでいて淋しげな表情をしてそれを見ていたシャラの横で、魔法使いは呟いた。
「今度ばかりはあの娘の勝ちのようだな」
「勝ちだなんて……。ティアは幸福(しあわせ)になっただけ。愛しい人のそばで暮らすという、ただそれだけを手にしたのよ」
「お前も人間になってみるか?」
 含み笑いをしながら魔法使いが問う。
「私はもうこりごり。それに人間にならなくても、私の幸福はここにあるのだから」
 シャラはそっと魔法使いの肩に頭を預ける。
「お前の肩の荷がやっと降りたというわけだな」
 さきほどの含み笑いとはまったく違ったこの上なく優しい微笑みが、シャラに向けられた。
「でも、これからが大変なの。あの娘(こ)は歩き始めたばかりだから。どんなことがあっても、もう私は手助けをしてあげられない。あの娘は自分で乗り越えていかなければならないから」
「それでも、あの娘のそばにはあの娘を愛する者がいる。決して裏切ることなく、いつでも力になってくれる唯一の者が。そう、シャラのそばに私がいるように」
「そうね」
 シャラもまたこの上ない優しい微笑みを浮かべ、そして頷いた。
「愛する人といつまでも一緒に、そしていつまでも幸福が続きますように」
 瞳を閉じてシャラは呟く。
 それは、離れて行った妹へしてあげられる、最後の祈りだった。

FiN     

     ●Storyの扉へ戻る      

 ●「ちょっとふりーとーく」へ