夕刻、望美を乗せたヒノエの船は熊野の港へたどり着いた。
熊野別当とその花嫁を乗せた船の到着であったが、港はいつも通りの喧噪だった。
特に、華やかな歓迎などはなく、特別な事は何もなかった。
望美はヒノエの手を借りて船を降りる。
「ごめんな」
「えっ?」
突然のヒノエの謝罪の言葉に望美は驚く。
「本来なら熊野の民総出でお前を出迎えないといけないのに……」
「えっ、そんな大げさなことしなくても良いよ!」
「大げさなもんか。お前はオレの、この水軍頭領にして熊野別当たる藤原湛増様の花嫁なんだぜ? 盛大に迎えなくてどうする?」
「た、確かに私はヒノエ君の花嫁としてここに来たけれど……」
ヒノエの言葉に望美は戸惑う。
しかしヒノエの言う事はもっともなことなのかもしれない。
熊野の最高位にある者の花嫁が来たのなら、熊野の民にとっても喜ばしいことだろう。祝い事なら大いに盛り上がるはずである。
とはいえ、実際は盛大な出迎えはない。
「ここで出迎えとなると、大きな混乱が起こる場合もあるからな。オレの大事な花嫁を危険にさらすわけにはいかないし」
望美にとってはまだ不慣れな場所。何が安全か危険か望美自身では判断できかねないことの方が多いだろう。祝いの盛り上がりに乗じて何が起こるかわからない。
ヒノエはそれを心配しているのだろう。
「わかってるよ。ヒノエ君のすることが、私にとってためにならないことはないんだから」
「決してお前のことを隠したいわけじゃないからな」
そう念を押すヒノエに望美は微笑む。
ヒノエが自分のことを大事に思ってくれているのが伝わってくるから。
「うん、わかってるから大丈夫だよ」
望美がそう言って微笑むと、ヒノエも安心したのかいつもの調子を取り戻す。
「ま、もっとも別の意味でお前はずっと隠しておきたいけどね」
「どういうこと?」
「望美はオレだけが独り占めしたいってこと。他のヤツらにお前の姿を見せるなんてもったいないからな」
「ヒノエ君ったら」
二人は楽しげに笑いあった。
「オレ達のことは烏に報告させたからすでに親父や近親達は知ってるはずだ。親父達が話を漏らすとは思えないけど、もしかすると話だけは先行して町中に広まっているかもしれないな」
「物事って完全に隠しきれないもんね」
「この様子なら心配することもないだろうけどね」
いつもと変わらない港の様子を見渡してヒノエはそう言った。
「頭領!」
二人が話をしていると、頭上から声が聞こえて来た。
「すいません、ちょっとお願いします!」
水軍の一人が船上からヒノエに向かって手を振っていた。
「なんだ? 望美、少しそこで待っててくれ、すぐ戻る」
「うん、いってらっしゃい」
望美は手を振ってヒノエを見送ると、ヒノエが指差した東屋に行き腰を下ろした。
そうして港の様子を眺めてみる。
多くの人が忙しそうに行き交い、活気のある様子は、熊野が栄えている証拠。
これもヒノエが力を尽くしているからだろう。
これからもこの様子が変わらず、熊野が栄え続けて欲しいと望美は思った。
港の様子は眺めるだけでも楽しかった。
望美が周りの様子をあちこちと見渡していると、ふと桜色の何かがひらひら動いているのが目に入った。
その場所をよく見ていると、小さな女のコが東屋の柱の陰からちらちらとこちらを見ているのに望美は気がついた。
あまりにも何度も見ているものだったので、望美はその女のコに声をかけてみることにした。
「ねぇ、どうかしたの?」
そう言ってみると女のコは一瞬柱に身を隠した。けれどまたと顔を出す。
望美はにっこりと笑って、手招きをしてみた。
すると、やっとその女のコはトコトコと望美に近づいて来た。
望美の前まで来て立ち止まると、もじもじと落ち着かない様子を見せる。
「何か私に用かしら?」
そう言うと、女のコはパッと顔を上げた。
「あのね、お姉さんが花嫁さん?」
「えぇっ?!」
「花嫁さん?」
女のコはどこか期待した様子で、瞳をキラキラ輝かせて望美を見上げていた。
「えっ、あ、あの、その、えっと……」
見知らぬ女のコからまさかこんなことを訊かれるとは思いもしなかった。
ずばり確信的なところをつかれ、望美は慌てふためいた。
こんな小さな子供でさえも知っているということは、ヒノエが言った通り、すでにヒノエと望美の話は知れ渡っているのかもしれない。
とはいえ、望美が自分からそれを肯定するにはまだ恥ずかしさがあった。
それに、今ここで自分がヒノエの花嫁だと肯定してしまえば騒ぎになるかもしれないとも思う。
望美は返事をためらっていた。
その時。
「おい、何してんだよ!」
まだ幼い男のコの声が聞こえて来た。
その声に女のコは振り返る。
「あ、お兄ちゃん。あのね、このお姉さんが花嫁さんかどうかきいてたの」
「ばかだなぁ。花嫁さんなわけないだろう」
「え、でも……」
「花嫁さんがこんなところに一人でいるわけないじゃないか」
「でも……」
女のコはちらりと望美の顔を見る。
望美は苦笑いを浮かべるだけだった。
女のコには悪いが、ここはごまかして、何もなかったようにやりすごすのが良いだろう。
しかし、望美の思惑とは逆に、男のコは衝撃的なことを口にした。
「花嫁さんは昨日本宮に行ったじゃないか」
「えっ?」
思わず望美は声を上げた。
「花嫁さんが昨日来た?」
「そ、そうだよ。きれいに飾った乗り物に乗って、大勢の人を従えて、行列で本宮に行ったんだ」
突然望美が話しかけた事に驚きながらも、男のコはそう答えた。
「でも、昨日はあの乗り物に花嫁さんが乗ってたかわからなかったよ?」
「乗ってないわけないだろう! さ、もう行くぞ」
男のコは急に女のコの手をつかむと、そのまま歩き出した。
遠ざかって行く2人の後ろ姿を望美は呆然と眺めていた。
花嫁が本宮に行った?
昨日?
心の中で望美はつぶやく。
どういうことだろうか。
本宮で迎えられる花嫁は自分の筈。
けれど、すでに花嫁は本宮に行ったと言う。
望美と時を同じくして花嫁になる女性がいるのだろうか。
行列で向かったとなれば、低い身分の者の花嫁ではないだろう。
『本宮』『花嫁』、この2つのキーワードから導き出せるのは『熊野別当の花嫁』ではないだろうか。
望美の心に不安が生じる。
本来ならこの世界には存在しない自分。
異世界から来た自分ではなく、この世界にはこの世界のヒノエの花嫁になるべき女性がいたのではないかと思わずにはいられない。
しかし、そんな事があるはずがない。
確かに自分はヒノエに花嫁として望まれたのだから。
では一体誰の花嫁?
一度浮かんだ疑問はそう簡単には消せない。
ぐるぐると頭の中で不安が駆け巡る。
望美はその場から動けず、立ちすくんだまま考え込んでしまった。
「望美、お待たせ」
用を済ませたヒノエが戻って来た。しかし望美は考え事をしたままで、ヒノエが来たことに気づかなかった。
「望美?」
ヒノエはもう一度望美の名を呼ぶ。
「えっ、あ、ヒノエ君!」
やっと人の気配に気づき、いつの間にか側に来ていたヒノエの姿を認めて、望美は小さく驚いた。
「ぼんやりして、どうかしたのか?」
「別に、何も……、なんでも、ないよ」
望美は動揺を隠そうと否定の言葉を口にしたのだが、隠しきれずに言葉は歯切れが悪くなる。
さっきのことを訊いてみようか。
でも何と訊いたら良いのかわからない。
『あなたの花嫁は別にいるのではないか』などとは訊けない。
けれど、訊かずにはいられない。
「あのね、ヒノエ君」
「ん?」
「ヒノエ君の花嫁になるのは……、私、だよね?」
望美は思い切ってそう訊いてみる。
ヒノエは一瞬驚いた顔になったが、すぐに笑顔を見せた。
「何当たり前の事言ってるんだ?」
そう言うとヒノエは軽く望美に口づける。
「お前でなければ、他の誰がオレの花嫁になると言うんだ?」
その言葉と、不安を吹き消す笑顔を見て、望美はやっと安心する。
「そ、そうだよね! 私ったら何変な事訊いたんだろ。ごめんね」
望美は何もなかったかのように笑ってそう言った。
あの子供達はただ『花嫁さん』の話をしていただけ。
『ヒノエの花嫁』とは言わなかった。
勝手に想像して不安に思ってしまった自分が浅はかだった。
不確かな情報に踊らされてはいけないと、戦の最中はあれほど気をつけていたのに、何故今こんなふうに思ったのだろうか。
『花嫁』は結婚を迎える女性に対して使われる言葉である。
自分以外にそう呼ばれる者がいても不思議な事ではないのだ。
本宮に向かった『花嫁』はこれから結婚式を迎えるのだろう。
熊野本宮は神社なのだから、挙式をおこなったとしても不思議はないのだと、望美は思った。
相手が誰にしろ、本宮で結婚式をするために花嫁が来た、ただそれだけの事なのだ。
望美は自分の中でそう結論づけた。
「今更わかり切ったことを訊くなんて、望美はまたオレに『ぷろぽーず』ってのをさせたいのかな?」
「そ、そんなプロポーズなんて……」
「望むならいくらでも言うよ」
ヒノエは望美の手を取り、そして手の甲に口づける。
「他の誰でもなく、望美だけを愛してる。どうかオレと一生をともにして欲しい」
「ヒノエくんったら……。でも、嬉しい。ありがと」
「どうやら花嫁のご機嫌は治ったようだね。さ、そろそろ行こうか。船旅は疲れたろう? 今日は温泉にでも入ってゆっくり休みなよ」
「わぁ、温泉! 熊野の温泉って気持ち良いんだよね」
「なんなら一緒に入るかい?」
「ヒノエ君!」
望美は恥ずかしそうに顔を赤く染めた。
幸せを疑う事のない二人は、熊野への一歩を踏み出した。
この時、望美は知らなかった。
熊野本宮が望美の知っているような神社のように、挙式をおこなうような神社ではない事を。
第一話 第三話
<こぼれ話>
望美ちゃんよりも先に本宮へ向かったという花嫁。
二人にとって無関係な花嫁だったのでしょうか……?
花嫁の正体とは一体……。
さて、幸せいっぱいの二人。
温泉に一緒に入ったのでしょうか?
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