「もうすぐ熊野だ、望美」
目的地へ向かって直進する船。その先端で海風を受けるヒノエは、水平線の向こうにある熊野の方角を指差しながら望美に告げる。
「うん、もうすぐなんだね」
ヒノエの隣にいた望美は、風になびく長い髪を押さえながら応えた。
それはどこか緊張した声音であった。
初めて行く場所ではないけれど、初めて訪れるような不思議な感覚が望美の心にある。
「もうすぐ、熊野……」
望美はもう一度小さく呟いた。
見渡せば、目の前は紺碧が広がる大海原。水面は陽光を受けてキラキラと輝いている。
穏やかな航海が続くその状況は、2週間ほど前まで戦の最中にいたのがまるで嘘のように思えるほどである。
普通の日常を過ごし、普通の女子高校生だった望美が、ある雨の日に突然異世界に来たのは1年ほど前のことだった。
『白龍の神子』として源氏軍に加わり、『白龍の神子』だけが持つ、怨霊を封印するという力を使い、戦に関わることになった。
本かテレビでしか知らない戦国の時代。まさか自分がその時代を過ごすことになるとは思いもしなかった。
戦がどんなものか知識としてしか知らない。そんな戦の中では自分の身すら自分で守れないような望美であったが、戦から逃げることはせずに望美なりに努力してきた。
守られるということではなく、守る事を選んだ望美。
顔を上げ、常に凛として立ち向かう望美のその姿に心惹かれる者は多かった。
その中で、望美の心を捕まえたのがヒノエであった。
熊野水軍頭領および熊野別当・藤原湛増。
それがヒノエの正体である。
数ある水軍の中でも、熊野水軍は絶大な戦力を誇る。
長年続いた源平合戦に終止符を打てたのは、この熊野水軍の協力があってこそだろう。
しかし、熊野水軍の協力を得るのは簡単なことではなかった。
熊野の全てを担うヒノエにとって、熊野は何よりも大事にしているものである。
源氏軍に協力するということは、一歩間違えれば熊野を失う事につながるかもしれない大事な選択だ。
そんなギリギリの状況の中で、ヒノエが熊野水軍を動かすことを決めたのは、望美との間に大きな信頼関係があったからだろう。
二人の間にあった約束が勝利を導き、そして全ての勝敗を決したのだった。
そうして、戦の中で気持ちを通わせた2人は、戦の勝利とともに縁を結ぶことを決めた。
そして、二人はヒノエが何よりも大事にしている故郷・熊野へと向かう。
以前に一度望美は熊野を訪れた事があったが、その時は『白龍の神子』として『熊野別当』に協力を求めるためであった。
今、再び熊野を訪れる理由は、以前とはまったく違うものである。
『白龍の神子』としてではなく、『春日望美』一個人として。しかも、ヒノエの花嫁として、なのである。
今でこそしあわせいっぱいの2人であったが、ここまで来るにはいろいろとあった。
想いを交わし合ったとはいえ、ヒノエを選ぶということは、望美にとってこれまでの人生を捨てるに等しいことである。
ヒノエのいる世界は、望美のこれまでの日常とはかけ離れた世界。
この世界で暮らすということは、友達はもちろん、そばにいた幼馴染み、そしてかげないのない家族にもう2度と会うことができないことを意味する。
どんなにヒノエのことが好きであっても、愛していても、この世界に残るかどうするかを決めることは望美にとっては辛いことだった。
それでも。
望美はヒノエを選んだ。
すべてを引き換えにしてでも、ずっとそばにいたいと思える人だから。
言葉では言い表せにほどに強く想う人だから。
彼のそばを『離れる』という選択だけはできなかった。
そうして、望美は正式にヒノエの伴侶になるため、ヒノエが指揮する熊野水軍の船に乗り、熊野を目指しているのだった。
「望美? どうした?」
「えっ?」
「難しい顔をしてる」
「私、変な顔してた?」
「望美の顔が変なわけないだろう? でも、美しい花がしおれかけてるようだぜ?」
ヒノエは優しく微笑み、望美の髪を撫でる。
「……ちょっと船に酔ったかな。でも大丈夫」
特に気分が悪いというわけではないけれど、そう口にする。
これまでの事を考えると楽しい事ばかりではなかったことが思い出されて、少し感傷的になっていたかもしれない。
自分ではわからなかったけれど、少しばかりそれが顔に出ていたのかもしれないと、望美は思った。
「望美」
「なあに?」
「後悔してないか?」
「えっ?」
その問いは思いがけないものだった。
ヒノエの口から『後悔』という言葉が出て来るとは思わなかった。
そう思わせてしまうほど、自分は神妙な顔つきをしていたのだろうか。
望美は一瞬戸惑った。
「お前は時々つらいのに無理して笑顔を作る事があるからね。それが悪いとは言わないけれど、オレにだけは本当の顔を見せて欲しいんだ」
まっすぐな、澄んだ瞳が望美に向けられる。
「オレはお前が欲しくて欲しくてたまらなかった。なんとかしてお前を自分のものにしたかった。他の男に攫われないために、お前の知らないところでいろいろとしてきたこともある。その結果、オレを選ばざるを得なくなる状況を作ってしまったかもしれない。お前が本当に望むものをオレは壊して、そして選べなくしまったんじゃないだろうか」
ヒノエの表情にほんの少しだけ翳りが見えた。
そんなヒノエの言葉を望美は黙って受け止める。
「教えてくれ。お前はオレと熊野へ行く事を後悔してないか?」
その言葉はまるで最後の選択を与えられたかのようだった。
今ならまだこの選択をくつがえしても許されるのだと言わんばかりに。
望美はヒノエの瞳をじっと見つめた。
ヒノエの言いたい事はよくわかる。
この選択で人生が大きく変わるのだから。
しかし、答えは決まっている。
揺るぎない心が自分の中にある。
「ヒノエ君、私、あなたが好きよ。愛してる」
「望美……」
「後悔なんて、そんなこと思うはずないでしょう? 私には選べる道はたくさんあったわ。それでも私はあなたを選んだの。ヒノエ君のそばにいることを私は決めたの。その心に偽りはないわ」
望美は一点の曇りのない笑顔でそう言った。
「そうか」
ヒノエは短く頷くと、望美の肩に手を置き、自分の方へと引き寄せると背中から抱きしめた。
「オレはお前を誰よりもしあわせにするよ。約束する」
「うん。私をしあわせにできるのはヒノエ君だけだから。私もね、約束する。ヒノエ君を誰よりもしあわせにするよ。だから一緒にしあわせになろうね」
「ああ。二人でしあわせをつかもう」
しあわせが心に満ちる。
ヒノエの側にいることは、なによりも一番嬉しいことである。
知らない事の方が多いこの世界で生きていくことになるけれど、ヒノエがいればどんな事でも大丈夫だと思える。
望美自身、なんの不安はなかった。
それなのに。
何かが心をかすめていく。
もうすぐたどり着く熊野で、望美を待ち受ける何かがあるような気がする。
けれど、その理由を、望美はあえて深くは考えなかった。
きっともうすぐヒノエの両親に会うことを思うと緊張せずにはいられないから、そのせいだと思った。
序章 第二話
<こぼれ話>
しあわせになるために向かった先は熊野。
そこで二人を待ち受けるのは一体……。
私が書くヒノエ君にしてはちょっと弱気かな。
ところで、望美ちゃんを手に入れるために、裏で一体何したんでしょうね〜(笑)
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