熊野といえば、本宮大社、速玉大社、那智大社を擁する信仰深き地である。
多くの貴人が参詣に訪れ、聖地と考えらていた。
神聖な場所には神官をはじめとする三社に携わる者が多いが、普通の民も多く暮らし、生活をしている。
田畑をはじめ、港、市など日常の生活に必要な場所は多々ある。
その反面、日常以外の場所もある。
表立って存在しているものではないのだが、妓楼もそのひとつであった。
熊野では数少ない妓楼の一室に1組の男女がいた。
女はその妓楼で働く妓女であり、男はその客だった。
一晩同じ褥で過ごし、とっくに昼も過ぎたという時刻なのに、男は帰る気配を見せなかった。
「なぁ、熊野別当ってどんな奴だ?」
ふいに男が妓女に訊く。
「別当様? イイ男よ〜。女だったら惚れられずにいられないくらい」
「別当っていったら熊野で一番エライからな。やっぱり女は地位が好きか」
「そんなの興味ないわよ」
妓女は乱れた髪を直しながら答える。
「だったら金か? 金なら俺もいくらだってあるぜ」
「何言ってんのよ。別当様のお相手ができるならお金なんていらないわ。むしろこっちが払ってでもお相手したいくらい」
「だったら別当の何がいいんだ?」
「別当様は別当様だからイイののよ。あ〜ぁ、一度くらいはお相手したかったわぁ」
妓女は客である男がいるにもかかわらず、そうつぶやく。
「別当って奴は妓楼遊びもしないような堅物なのか?」
「一時は絶えず妓楼に姿を現したと言われていたけど、もう無理ね」
「何故だ?」
「あら、知らないの? 近々花嫁を迎えられるのよ。別当様がベタ惚れして口説き落としたって言う話。しかも龍神の神子様と呼ばれる高貴な方なんですって。別当様が夢中になる方だもの。そんな方がおそばにいたら、もう妓楼遊びなんてしてくれないわよねぇ、残念」
「花嫁を向かえたからって妓楼遊びもできないような奴は男じゃねぇな。情けねぇ」
何やらとげのあるような男の言い方に、妓女は眉根を寄せる。
「あんた、さっきからいやに別当様にこだわるわね。しかも悪い方に」
「別にこだわっちゃいねぇさ。それだけの男だって話だろ」
「何にも知らないくせにその物言いは良くないね」
女の声音が落ち、妓女独特の媚びるようなものから嫌悪に変わっていく。
「おいおい、何真面目な顔してんだよ? 別当っていったら確かにエライ地位かもしれないが、十七、八のガキなんだろ? 子供が何エラぶってんだって話だ。ガキのご機嫌取りまでする必要ねぇだろうが。お前さんもそう思う……」
男は最後まで言う前に、妓女の平手打ちをくらった。
「何すんだ?!」
「別当様の悪口を言う奴はあたしは許さないからね。いいや、あたしだけじゃないよ、別当様に無礼を働いたら熊野の民は全員あんたを許さない」
冷ややかな視線が男に注がれる。
「とっとと出て行きな。あぁ、こんな最低男の相手になんかなるんじゃなかったよ」
そう言って、妓女は部屋に置いてあった鈴を鳴らした。
「たかが妓女が何エラそうなこと言ってんだぁ?!」
いきなり蔑むような扱いを受けて腹を立てた男が妓女の胸ぐらを掴んだ時だった。
勢い良く襖が開き、屈強な男が2人その場に立っていた。
「帰るのに手助けが必要かい?」
妓女の言葉に男2人はずいっと近寄ってくる。
どう見ても分が悪い。
男は乱暴に妓女から手を離すと自分の持ち物をかき集める。
「……っち、こんな店二度と来るか! 覚えてろよ!」
迫力のない捨て台詞を残し、男は慌てて出て行った。
◇ ◇ ◇
妓楼を出た男は悔しさをあらわにしながら表通りに向かって歩いていた。
すれ違う周りの者達は関わらぬが身のためと避けていたが、一人の青年が走り寄ってくる。
「若! どちらにいらしてたんですか?!」
「誰が若だ? もう一度言ってみろ?」
男は青年の胸ぐらを掴んだ。
「す、すみません。旦那様」
「そうだ、俺は旦那様なんだよ。福原で一二を争う商家のな。いや、俺が旦那になったからには福原一だな」
「と、とにかく、もうすぐお約束の時刻でございます。早くご用意を……」
「まったく、親父も面倒なことを指図しやがって」
男は若者から手を放し、そして父親から言われた事を思い出した。
父親は家を継ぐ条件に『熊野別当に挨拶に行け』と言ったのだった。
福原で商いを営む男の家。
熊野は大きな取引先であった。
父親の言い分はもっともだが、10歳以上も年下の相手にわざわざ出向いていかなければならないのが、男には癪に障る。
「それで、別当について何かわかったことはあるか?」
「訪れる前に調べた事以外では、近いうちに花嫁を迎えるのだとか」
「それなら知っている。なんでもベタ惚れして口説き落としたとか言うじゃないか。なんとかの神子とか言ってたな」
「神子、ですか? 私が聞いたのは京の都から来た姫でしたが……」
「2人も娶るっていうのか? 別当っていうのはイイご身分だぜ。まぁ、話のネタとしてはもってこいか」
「若……いえ、旦那様、本当にそろそろお支度をしていただかないと……」
「あぁ、面倒だが仕方がない。行くぞ」
「へ、へい」
男は気弱な若者を引き連れて歩き出した。
第十二話 第十四話
<こぼれ話>
主役のいないシーンになってしまいました。
当人のいないところで話される噂話。
この男がヒノエ君の「客」なわけですが、ずいぶんと柄が悪くなってしまった(^^;)
そんなことより、絶えず妓楼に通ってたと言われる頃のヒノエ君が気になりますか?
これも噂ですよ、噂……たぶん(笑)
|