その出会いは偶然だった。
いや、あとから考えるとそれは計画されていた事かもしれない。
その日望美はヒノエの頼みで熊野本宮にいる義父湛快のところへ向かった。
いつもであれば水軍配下の者などが頼まれるところなのだが、数日前の嵐での被害の後処理に負われていたため、ヒノエをはじめ誰もが港を離れることができなかった。
頼みといってもただ文箱程度の大きさの荷物を届けるだけだったので、望美が自ら引き受けたのだった。
荷物を無事に届けた後、せっかくここまで来たのだからお参りでもしようかと思ったのはほんの気まぐれだったろう。
本宮内だから危険もないだろうと、いつもそばにいてくれる侍女の凪野を控えの間に残し、望美はひとり出歩いた。
しかし、その何気ない行動で望美が一人になる機会をずっと伺われていたのだ。
一人になった時こそが、計略の始まりだった。
「熊野別当の奥方様ではなくて?」
「えっ?」
望美が振り返った先に、一人の女性が立っていた。
「はじめまして、と言った方が良いかしら?」
「あなたは……」
「私は那智大社の巫女の桔梗と申します」
熊野三社のうちのひとつ那智大社。そこの巫女の役目を担う桔梗の名前は望美も知っていた。姿を見かけることも何度かあったが、直接話をするのは今が初めてだった。
「藤原望美です。はじめまして」
「熊野別当の奥方様と対面できて嬉しく思いますわ」
怪しい人物ではなく、那智大社の巫女とわかった望美はにっこりと微笑んだ。そんな望美の表情とは反対に、桔梗の濃い紅で縁取られた唇はわずかに歪んだ。
「ヒノエ、今日はお屋敷にいらっしゃるのかしら?」
「えっ? あ、今日は港の方へ行っていますけど、彼に何か用でも?」
「特に用というほどではないわ。顔見たいなぁと思っただけ」
「……」
「でも、今日じゃなくても良いわ。ヒノエとならいつでも会えるんだし」
「……そう、ですか」
次第に望美の顔が曇り出す。
ただ何気なく会話をしているだけなのに、望美の心に黒い何かが生じる感じがした。次第に胸がキリッと苦しくなる。
「ヒノエから私のこと聞いているかしら?」
望美は小さく首を振る。
「あら、聞いてないの? そぅ」
どこか思わせぶりな態度を取る桔梗。何かを話したくて仕方がないと見て取れる。
「彼と貴女は一体……」
頭の奥で『聞いてはいけない』という声が聞こえる。しかし、彼女の存在が気になる気持ちは押さえられない。
「ヒノエが言っていないのに私から言うのもなんだけど、聞きたいのなら教えて差し上げるわ。私とヒノエはね、恋人同士だったの。いいえ、ヒノエにはそのつもりはなかったかもしれないわね。本気で一人の女を愛するつき合い方をするような男じゃなかったから。それでも、私との仲は長かったわ。他の誰よりも夜を供にする時間も」
桔梗は一方的にどんどん話し出した。
その言葉を聞くたびに、望美の胸がどんどん締めしけられる。
「ヒノエと一緒にいた頃はしあわせだった。他の女に一夜の契りを求めても、いつも私のところに帰ってきてくれた。ヒノエと一緒にいられるだけで嬉しかったわ」
またひとつ望美の心に黒い染みが広がる。
「あら、ごめんなさい。つい懐かしんでしまったわ」
「いえ、昔のことは懐かしいものだから……」
「そう、これは全部昔の話。お気になさらないで」
暗く沈んでいく望美の表情とは反対に、桔梗は軽く笑顔を作っている。
「そういえば」
再び桔梗は話を切り出した。
望美はもう耳を塞ぎたい気持ちでいっぱいだった。
自分と出逢う前のヒノエがどんなふうだったか、知らないわけではない。特に女性関係については聞かなくても良いだろうことも耳に入ってきたこともある。
でもそれは全て過ぎ去った過去のことなのだ。
今さら聞いたところで過去が変わるわけではない。大事なのは今であり、未来。ヒノエと2人一緒にいるということが望美にとっての意味ある事だった。
こんなふうにあからさまに話をする桔梗に、望美は不快感しか持てなかった。
そんな胸の奥で苦い思いをしている望美に気づくはずも訳でもなく、桔梗は話を続ける。
「貴女とヒノエが出逢った頃、ヒノエは貴女と一緒に熊野を旅立った。当分戻りはしないだろうと言い残して。でも一度だけ、ヒノエが熊野へ戻って来た時があったわ。すぐに水軍を連れて行ってしまったけれど」
耳にしたくないのに耳に届く話に、望美はあの時のことだと思った。
平家の船団に対抗するために画されたヒノエの策が起用された時のことだ。その時、ヒノエは熊野水軍を連れてくるために陣を離れ熊野へ戻った。
「水軍の一人が私にヒノエが帰ってきたことを伝えてくれたの。私は急いで港へヒノエに会いに行ったわ。もうかなりの間会っていなかったから」
「……」
「ヒノエは水軍を動かすために指示を出して忙しそうにしてた。私の姿なんて目に入っていなかった。でも、何も話せずに別れるのがイヤでなんとかしてヒノエに会う手立てを作ったわ」
望美もその当時の話を思い起こす。
ヒノエから聞いた話では、ヒノエが熊野に留まったのはほんの数日だったはずだ。寝る間も惜しんですぐに出発したと聞いている。
「その時、ヒノエは私と一晩一緒に過ごしてくれたの」
「えっ?」
望美は自分の耳を疑った。
今、桔梗は何を言ったのか、すぐに理解できなかった。
「半ば強引にだったけけれど、最後はヒノエも私を突き放しはしなかった」
確かにあった足下が崩れ始める。
「これがどういう意味かわかるでしょう?」
どういう意味かなんてわからない。わかりたくもない。
「詳しいことはヒノエから聞くと良いわ。奥方様に聞く勇気があるのなら。あらあら、ずいぶんと話し込んでしまったわ。今日はご挨拶だけのつもりだったのに。では失礼するわ」
言いたいことだけ言い終えた桔梗は、挨拶もそこそこに望美の前から立ち去って行った。
その場に一人となった望美は立ち尽くすだけで、返事をすることさえできなかった。
第七話 第九話
<こぼれ話>
桔梗から聞かされた過去。
『一晩一緒』という言葉の意味は……。
望美ちゃん、ツライ思いをさせてゴメンッ。
あ、巫女が男性と関係を持っても良いのか?!という疑問は無しの方向で。
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