ヒノエを追いかけた弁慶は、すぐにその姿を見つける事ができた。
話し合いの場からさほど離れていない場所に大きな木があり、その木の下にヒノエはいた。
「よくここがわかったな」
ヒノエは太い幹に手を当て、上空を仰ぎ見たままの姿勢でつぶやいた。
「幼い頃、義姉上に叱られたりイヤなことがあるとよくこの木に登って泣いていましたねぇ」
「……それと今となんの関係があるんだよ」
ヒノエはムスッと不機嫌そうな表情をした。
「いえ、別に関係などありませんよ。なんとなくここではないかと思っただけです。あぁ、もしかして泣きたいところをお邪魔してしまいましたか?」
「うるさい、黙れ」
ますます不機嫌になっていくヒノエを見て、弁慶は笑みを漏らした。
「それにしても、望美さんの顔を見に来てくれ、などと珍しいことを言うなと思いましたが、まさかこんな大それた企てを考えていたとは。恐れ入りましたよ。ヒノエ、いえ熊野別当殿」
「ふん、望美のためならなんだってするぜ。お前の恨みを買うくらいなんとも思わねぇ」
「恨むなんてしませんよ。ただ、僕の名前を使ったこの借りは高くつくということを覚えておいてください」
笑みを浮かべながら弁慶はさらりと言う。
こうして飄々と言われる方が後々恐ろしい感じがする。
「『借り』か。お前にだけは借りを作りたくなかったぜ」
ヒノエはうんざりした顔で弁慶をにらんだ。
「ところで、望美さんはどちらにいますか? 望美さんに会いに来たのに、本宮に連れてこられてこれですからね。いまさらそれは口実だから会わせないとか言いませんよね?」
「そこまでオレも意地悪くねぇよ。望美なら今日はオレの屋敷に……」
「キャー!」
突然甲高い女の悲鳴が聞こえて来た。
ヒノエと弁慶はお互いに顔を見合わせると、すぐに悲鳴が上がって来た方へと走り出した。
悲鳴の発生場所は、2人がいたところかすぐの奥庭の一角だった。
綺麗に整えられた植木の緑が美しく、庭の中央には池もあり、秋にはその池に満月を映して月見をすることから『月の庭』と呼ばれる場所である。
そしてその場所は一般参拝者が勝手に入る事のできない、ごく限られた者しか立ち入りを認められていない場所でもあった。
「別当殿!」
青ざめた顔をした侍女がヒノエの方へと走り寄って来た。どういう訳か着物は土にまみれ、髪も乱れていた。
「何故お前がここに? 一体何事だ?!」
そばに来たのが見知った顔の望美付の侍女凪乃だったことに一瞬不思議に思ったが、ヒノエは素早く問いただした。
「早く、早くお止めください! 緋名様が、望美様に!」
凪乃が指差した方を見てみれば、そこには掴み合っている女性が2人いた。ひとりは望美であり、もうひとりは先ほどまで話し合いの場にいた緋名だった。
「わたくしでは緋名様をお止めできないのです! お早く!」
「何故望美がここにいる?!」
「そ、早急にお話したいことがございまして、こちらまで伺いました」
「わざわざ本宮まで出向くなんて、急ぎの用件だったのか?」
「それは……」
「ヒノエ、その件は後です。早く彼女を」
弁慶が言うように緋名を止める方が先だった。
緋名の左手に望美の長い髪が無下に掴まれている。
望美は必死に抵抗していた。
「な、何するの?! 放して!」
「これでもう私はヒノエには近づけなくなったわ! いい気味だって思っているんでしょう?! そうよね、初めからヒノエに愛されているのは自分だけだって偉そうにしてたもの。私が何をしようが、何かしたところで私なんて鼻にもかける必要ないってそうバカにしていたんでしょう!」
緋名の右手が振り上げられる。
その刹那、望美の頬に衝撃が走る。2度、3度と打ち付けられる。
その拍子に望美の髪飾りが外れ、地面に落ちた。
「どうして、あんたなのよ! どうしてヒノエの前に現れたりしたのよ! あんたなんて目障りで邪魔なだけよ! あんたなんて!」
再び殴りかかろうとした緋名に望美は身の危険を感じて力いっぱい緋名を突き飛ばす。勢い余って望美はその場に座り込んだ。
「何の話をしているの?! 何故私が殴られなきゃいけないの?!」
じんわりと熱を帯びてきた頬に望美は手を添える。
「あんた、ホントに知らないの? ヒノエから何も聞かされてない? へぇ、そう。あんたって壊れ物みたいに大事に大事に扱われてきたのね」
緋名の瞳は一層憎しみの色が濃くなっていく。
「あんたなんて!」
緋名の右手がもう一度振り上げられる。しかしそれが振り下ろされる事はなかった。
「何をしている」
緋名の右手を掴んで止めたのはヒノエだった。
冷たい声が緋名の心に突き刺さる。それでも緋名の勢いは止まらなかった。
「ヒノエ、どうしてこの女が良いの?! どうして私じゃダメなの?!」
「さっきの話、聞いていなかったのか? あの話はもう終わった。これ以上続けるというなら、オレは容赦なくお前を処断する」
「ヒノエ!」
「望美に手を出す事は許さない」
「どうして?! 私はこんなにあなたのこと好きなのに!」
取りすがる緋名を見るヒノエの瞳は冷たかった。
「オレはお前を愛していない。今後も愛する事はない。ここまで言わないとわらかないのか?!」 その言葉にためらいはなかった。
ヒノエに決定打を出された緋名はその場に泣き崩れた。
すぐに緋名の侍女と思われる女性が2人ほど現れ、緋名をなだめながら連れ出した。
どこか気まずい雰囲気だけがその場に残った。
すぐに凪乃が駆け寄ったが、望美は今起こった出来事がなんだったのか訳がわからず、地面に直接座り込んだままだった。
「大丈夫ですか? 望美さん」
呆然としていた望美に手を差し出したのは弁慶だった。
「え、弁慶さん?」
「2年ぶり、になりますか。お久しぶりです。元気にしていましたか?」
「弁慶さん、どうして……」
「望美さんの顔が見たくて来たのですよ。以前にも増して美しくなられて驚きました」
ヒノエに負けないほどの甘い言葉に以前は望美も翻弄されたことがあった。久々に聞く弁慶の言葉に、望美の心に懐かしさが浮かんだ。
弁慶の手を借りて立ち上がった望美は、着物に付いた土を払った。
良い知らせを早くヒノエに伝えたくてここまで来た。そしてせっかくの良い知らせなのだからとヒノエからもらったばかりの新しい着物を着て来たのだが、この騒動でかなり汚れてしまっていた。
「ヒノエ君、ごめんね、着物汚しちゃった」
「そんなこと気にするな。また新しいの用意するから。それより望美、大丈夫か?」
ヒノエは望美の頬に手を伸ばす。表面的な傷はなかったものの、叩かれた頬はすこし腫れた感じがしていた。
「え、ええ、大丈夫。ちょっと痛かったけど。ねぇ、ヒノエ君、一体何があったの?」
「望美が気にすることはない。問題は全て片付いたんだから」
望美の頬から手を離したヒノエは、望美に背中を向けた。
「でも、あの人泣いて……」
「気にしなくていいって言ってるんだ!」
「!」
望美の前では怒鳴る事のなかったヒノエの大きな声に望美は驚く。
「ヒノエ、怒鳴っては望美さんが怖がってしまいますよ」
「……悪い。望美、本当に何でもないから。お前は気にしなくて良いから」
「でも……」
不安の残る望美はヒノエの後ろ姿を見た後で弁慶の顔を見た。
弁慶は静かに頷いた。
「ヒノエがそう言うのなら気にする必要はないでしょう」
ヒノエだけでなく弁慶からもそのように言われ、望美は頷いた。
「2人がそう言うのなら……」
「本当にそれで良いの?」
望美の言葉をさえぎるように、緋名とはまた違った落ち着いた感じの女性の声が聞こえてきた。
「貴女にも関係のある話なのに、一人蚊屋の外で知らんぷりするの?」
いつの間にこの場に来たのか、それを言ったのは桔梗だった。
言い方は静かだが、望美を見る瞳には憎しみが込められているかのようである。
「やめろ、桔梗」
「熊野別当の決定にはもちろん従うわ。もう側室になりたいとは言わない」
「桔梗!」
「でも、事の次第は奥方にも知っていて欲しいと思うわ。熊野で起こったことを知っておくのは必要なことだもの。それが熊野別当の妻というものなのだから」
「黙れ、桔梗。本当に俺を怒らせたいのか」
本気で怒ったヒノエは見た事がない。それ故に次の言葉を言う事でどんなことになるか想像できない。けれど言わなければ気がすまない。長い年月をかけて募らせた想いはそう簡単に手放すことなどできない。それでも手放さなければならないというのなら、その代償はもらっていく。
桔梗はヒノエの視線に臆することなく、毅然と言い放った。
「奥方は知っていてよ。私とヒノエの関係」
「?!」
桔梗の言葉を確かめるかのように、ヒノエは望美を見た。
弁慶の側にいた望美は気まずそうにヒノエからの視線をそらし、顔を背けた。
望美の脳裏に数日前の出来事が思い出される。
聞かなければ良かったと思った。
知らなければ良かったと思った。
それが事実だとしても、知らないでいた方が良い事だってあるはずだ。
苦しい思いをするくらいなら、知らない事を嘲笑われても良いから、知りたくはなかった。
桔梗の言葉に顔色を変えたヒノエ。その一瞬の変化を望美は見てしまった。
それは桔梗から聞いた話が全て事実だったと語っているのと同じだった。
第六話 第八話
<こぼれ話>
緋名も桔梗も彼女達なりにヒノエを愛していたわけで。
でもそれはどんなに想ったとしても、届かない想い。
そして、桔梗から聞かされた話とは……。
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