その日の望美は朝から落ち着きがなかった。
夜明けと同時にヒノエが出かけた後、望美はとある事を知らされた。
それはずっと待ち望んでいた事だった。
嬉しくて、心も身体も踊りだしそうな気分である。
「ヒノエ君、喜んでくれるかな」
望美は左手の薬指にはめられた指輪を大事そうに触れながらつぶやく。
その指輪は5年前にヒノエと祝言を挙げる時、ヒノエがくれたものである。
こちらの世界では祝言の時に指輪を交わし合うということはしないのだが、何かの折に望美が結婚指輪の話をしたのをヒノエが覚えていて、祝言に合わせて密かに作ってくれたものだった。
同じ造りの指輪は、二人が夫婦であることの証明であり、誰にも侵すことのできない、自分と愛している人とをつなぐものだった。
「やっぱりヒノエ君の帰り、待ってられないわ!」
望美はすくっと立ち上がった。
それと同時にそばに控えていた望美付の侍女の凪乃も立ち上がる。
「望美様、どちらへ?」
「本宮まで行って来るわ。ヒノエ君に早く伝えたいから」
本当に気持ちが急いているのか、望美は廊下に出た途端駆け出そうとした。それを慌てて凪乃が止める。
「望美様! 走ってはいけません!」
「あっ」
凪乃の言葉に慌てて望美は歩みを止める。
「急激に走ったりしてはお身体に障ります! それでなくても昨日までお身体に負担がかかるようなことをなさっていたのですから」
「そ、そんなに大変なことしてたかしら?」
「わたくし供にお命じになられればよろしいのに、食事の用意から部屋の掃除、庭の手入れまで自ら働かれて。望美様はわたくし供の役目をお奪いになられ、追い出そうとなさっているのかと思ってしまいますわ」
「追い出そうなんてそんな! 私は良くしてくれるあなた方に感謝しているのに。いなくなられたら困るわ」
望美の言葉に凪乃は大きく頷く。
「えぇ、望美様のお気持ちは十分承知しております。望美様のご性格がどのようなものか今ではちゃんと把握しておりますゆえ。望美様が家事を楽しんでおやりになっているのも承知しております。ですが、今後は掃除・洗濯など、一切の家事は禁止させていただきます」
「ええっ?! どうして?!」
「ご自分のお身体のことをお考えくださいませ! 今お身体に負担になるようなことをなさって大事に至るようにでもなったらどうなさるおつもりですか!」
「で、でも昨日まで平気だったわけだし……」
「いいえ、昨日は昨日、今日は今日でございます。それに、今までが間違いだったのでございます。別当殿の奥方たるもの、下働きのようなことをなさってはいけません。別当殿がお許しになられたから口には出しませんでしたが、こうなったからには望美様には奥でお身体を大切になさっていただきます」
「で、でもね……」
家事禁止の言葉に望美は反論を続けようとした。
熊野別当の奥方。
確かにそうではあるけれど、その立場で毎日何かをすることはない。月に1度の定期的な奉納舞と、年に1度の熊野三社祭の奉納舞くらいなものだ。
この時代、高貴な立場にいる女性が家事をすることはしないものだが、奉納舞以外にすることのなかった望美は家事に精を出した。
元の世界にいた頃は家事一切したことのなかった望美だった。はじめの頃は失敗の方が多かったかもしれないが、いざやってみると本来身体を動かすことの好きな望美にとって家事は苦にならないものであり、ヒノエのためにすることは楽しいものであった。その家事を禁止されるとなると、日々やる事がなくなってしまう。
さらに、家事を禁止されるとなると、当然それよりも激しい動きをする剣の練習などもさせてはくれないだろう。
そうなっては毎日何をして過ごせば良いのか、望美はわからなかった。
「身体を動かす事は必要なことだし、禁止っていうのは……」
「いいえ、禁止でございます。この件に関してはわたくしの方が経験者でございます。間違いなきよう、望美様のお身体に関しては、わたくしがしっかり管理させていただきます!」
しっかり拳を握って決意を固めた凪乃。彼女は望美が熊野へ来た時にヒノエが選んでくれた侍女である。望美とそう年齢が違わないのだが、実にしっかりとした模範的な侍女だった。望美自身も彼女を信頼し、熊野については彼女からいろいろと教わったものだ。
その凪乃は一度決めたことは必ずやり通すところがある。
主人の間違いに気づけば堂々と指摘もする、そんな物怖じすることのない性格で、ヒノエからも信頼される優秀な侍女に望美が全面的に反論するのは初めから無理なことだった。
「御承知いただけましたでしょうか?」
「……」
「望美様」
「……とりあえず、わかったわ」
凪乃に念を押され、望美はしぶしぶながらも承諾した。
「では。さ、さ、早く別当殿のところへ参りましょう。わたくしもご一緒に参りますから」
その言葉に促されて望美は歩き出す。
今は家事禁止令に落ち込んでいる暇はない。それよりも大事なことがあるのだ。
愛しい人にずっと待ち望んでいた喜びを伝えるということが。
第四話 第六話
<こぼれ話>
侍女の名前が決まらなくて〜。
海に関する名前が良いかと悩んだ末、凪乃(なぎの)さんとなりました。
さて、ヒノエ君に伝えたい喜びとは一体……?
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