その日は夏の盛りで気温が高く、朝から暑くて黙っていても汗ばむ陽気だった。
「まさかお前が熊野に来ていたとは、ね。弁慶」
「所用で西へ向かう途中に、ただ単に通りすがっただけですけどね」
平家との戦が終わり、ヒノエが望美を連れて熊野へ戻ったのは5年前。その時2人の祝言に出席した弁慶はその後九郎とともに鎌倉へと戻った。時々ひとりで旅に出ているらしく、それが隠密なる行動なのかはわからないが、たまにふらりと熊野に立ち寄ることがあった。今回もそんなふうに気軽に立ち寄っただけの出で立ちであり、雰囲気であった。
そんな弁慶をヒノエは上機嫌で迎えた。
「でも、こちらも驚きましたよ」
「何がだ?」
「まさか熊野に着いて早々ヒノエから呼び出しを受けて『望美に会って行ってくれ』という言葉を聞くとは思いませんでしたから」
「追い返すとでも思ったか?」
「追い返されたところでそれは予想の範囲。望美さんと会う手立てはいくらでもあるというものですよ」
昔と変わらぬ微笑みを、弁慶はヒノエに向けた。
「油断ならねぇよな、相変わらず。まぁ、いいさ。とりあえずこっちだ」
ヒノエは熊野本宮の奥へ奥へと向かった。
2人が今いる場所は、ヒノエの屋敷ではなく熊野本宮であった。
弁慶は熊野に着いたかと思うと、烏の出迎えを受けた。烏からヒノエと望美が待ちわびているからと伝えられ、弁慶は烏が案内するままその後をついて行ったのだった。
そして着いたのが熊野本宮だった。しかしそこで待っていたのはヒノエだけであった。
別段その時弁慶は何も思わなかった。
久方ぶりに会う甥(と言うとヒノエは嫌がるが)に笑顔で挨拶を交わした。
そうして、ヒノエに案内されるまま歩いているのだが、歩み進んでいるうちに、すれ違う本宮で働く者の皆がその様子に落ち着きがないことに気づき始めた。どこかピリピリとした緊張感が走っている。
ただならぬ雰囲気に、弁慶の脳裏にイヤな予感が走る。
そもそも何故本宮に案内されたのか。
初歩的な疑問が浮かぶ。
「ヒノエ、一体何を考えているのですか?」
「……」
弁慶の問いにヒノエは無言で返した。そして歩みはそのまま続く。
望美の身に何かあればこんなにヒノエが落ち着いてるはずはない。しかしそれに匹敵するくらいの大きな何かを感じる。
弁慶は思いをめぐらしながらもヒノエの後に続いた。
やがて行き着いた先には侍女が2人正座をして控えていた。
ヒノエと弁慶の姿を認めると、深々と頭を下げる。そしてスッと襖に手をかけるとそれぞれ左右に開いた。
「待たせた」
ヒノエはそのまま部屋の中へと入ると、上座へ座った。
一歩遅れて入った弁慶は部屋の中を見渡して一瞬驚く。
その場に居たのは、ヒノエの父にして弁慶の兄である湛快を筆頭に、速玉大社と那智大社の各代表である宮司と巫女、他、熊野別当に仕える数名の重臣達だった。
いずれも弁慶にとって見知った顔ぶれだった。
彼らはヒノエの後ろから入ってきた弁慶を見ると、一瞬ざわつきを見せた。
この状況はどう見ても弁慶を出迎えてのことではない。その重い空気からして、熊野における重要な何かが話し合われるのだと推測される。
やってくれましたね、ヒノエ。
心の中で弁慶は舌打ちをする。
居合わせた顔ぶれを見るだけで、これから何が話し合われるのか想像に難くない。
熊野を出た自分が、熊野についての話し合いの場に必要とされる訳がない。それなのにこの場に連れてこられたということは、意志とは関係なく話し合いの議題に大きく関わっていることを意味する。
しかもヒノエの一存で。
こんな場所によくぞ連れてきたものだと、弁慶は一瞬の鋭い視線をヒノエに向けた。
しかしヒノエはそれに臆する事はなかった。
「適当に座ってくれ」
顔色ひとつ変えずに淡々と告げる。そこには弁慶に状況を説明しようという意思は感じられなかった。
場の雰囲気からしても、ここでヒノエに状況説明を求めても無駄だと感じた弁慶は、その場に静かに腰を下ろした。
第三話 第五話
<こぼれ話>
弁慶さん登場〜。
策士の甥もまた策士(笑)
さて、ヒノエは一体何を考えているのでしょう……。
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