この世界に残ると私が告げた時のあなたの笑顔は今も鮮明に覚えている。
一瞬何を言われたのかわからないとばかりに表情を無くし、でもその後で満面の笑みになったあなた。
喜んでくれたのがすごくよくわかったから、残ることを決めて良かったと思った。
全てに決着がつき、熊野に戻って結婚するという報告をした時。
お義父様、お義母様をはじめ、熊野のたくさんの人達から祝福を受けた。
あまりにもたくさんの人が代わる代わる訪れるものだから2人っきりになれる機会が少なくなって、あなたは不機嫌になってた。
みんなからの祝福だからそれはありがたいことだけど、やり場のない思いを抱えたあなたがなんだか可哀想で、思いきって私からキスしてみた。
そうしたら、私からキスしたのは初めてだったからすごくびっくりして、いつも大人びた表情をするあなたが、この時だけは照れて少しだけ顔を赤くしてた。
あなたでもこんなふうに照れる時があるのかと、なんだか嬉しくて、一層あなたを近くに感じることができた。
交易のために海に出なければならない時。
短期でも長期でも、必ずあなたは私に『オレの事忘れるなよ』と耳元で囁いて旅立って行った。
そんなこと言わなくても忘れるはずなどないのに。
私は毎日あなたのことを考えて、帰ってくる日を指折り数えて待っていた。
帰港した時はたくさんのお土産を抱えてあなたは一番に私のところに戻って来てくれた。
想いを物で比較するものではないと思うけれど、たくさんのお土産の数は私への想いに比例する。離れていても私のことを考えていてくれたのだと思うと嬉しかった。
これまでのことを振り返っても、いつもしあわせな思い出しか浮かばない。
必ずしあわせにすると、大切にすると、泣かせはしないと約束してくれた。
あなたはそれを違える事はしなかった。
いつだって大切にしてくれていた。
あなたの心に偽りはない。
語られない言葉があるのなら、それは必要のないことなのだ。
誰を、何を信じれば良いのか、考えなくてもわかること。
勝手に疑い、誤解した自分の心を恥じる。
目の前の鏡には、私の名を呼び、手を伸ばしてくれるあなたが映る。
あなたの私への想いがこんなにも深く心に響く。
あなたを傷つけた私を、あなたは許してくれるのだろうか。
こんな私でもあなたはまだ求めてくれるのだろうか。
戻りたい。
あなたに触れたい。
あなたのぬくもりに包まれたい。
あなたのそばが私のいるべき場所。
ただひとつの、しあわせを感じる事のできる大切な場所だから。
望美はもう一度鏡に触れてみる。
先ほどと同じように、指先から伝わるのは固い感触だけだった。
「ヒノエ……君……」
口からこぼれるのは、本当に愛しいただ一人の人の名前。
想いは言葉になり、声になる。
そして呪文と化す。
強い想いこそがなにより変化をもたらす。
鏡に触れていた指先の感触が、ふいに固いものから柔らかいものへと変わる。
音もなく指先が鏡の中にゆっくりと埋まっていく。
あり得ない感触に望美は驚き、手を引いた。
何が起こったのかはわからない。
けれど、先ほどとは違う何かが起こっている。
望美は恐る恐る鏡に手を伸ばす。
すると、望美の指が鏡に触れた瞬間、それまで映し出されていたヒノエの姿が揺らぎ始めた。鏡に触れた指先を中心にして、水面に触れた時にできるような波紋が広がっていく。そして望美の指は鏡の中へゆっくりと進入していくのだった。
考えられない感触に慌てて手を引く。
やがて鏡の波紋がゆっくりと落ち着く。
そしてまた鏡面にはヒノエの姿が映し出された。
ずっと変わらずに手を差し伸べるヒノエ。
真剣な瞳がじっと向けられる。
鏡面の感触は不思議なものだったがそれを越えることができるのなら、そして鏡面の向こう側へ、愛しい人がいるその場所へと通じているのなら、試したい。
ここではなく、ヒノエのいる場所へ行きたい。
その思いが強く心に浮かんだ望美は、思いきって再び手を鏡に触れる。
手が鏡の向こう側へと入り込むのと同時に、望美は一歩踏み出す。
身体全体が鏡に触れたかと思われた瞬間、眩しい光が目の前に広がり、望美は思わず瞳をきつく閉じた。
あなたのそばにいることが私のしあわせ。
私は、あなたを、愛してる。
第十四話 第十六話
<こぼれ話>
再び望美ちゃんサイド。
やっとヒノエ君のところに戻りたいと思えるようになった望美ちゃん。
ヒノエ君のところ戻るまであと少し……。
冒頭に『初めて望美ちゃんからキス』したシーンを入れました。
普段は絶対キスするのはヒノエ君から。
なので、望美ちゃんからキスされたら、いくらヒノエ君でもびっくりするだろうなぁ、と(笑)
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